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歯車は止まらない  作者: チェリー教授
第1章:黄昏の時代
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野萩 学(やはぎ まなぶ)と松本 霞(まつもと かすみ)


 野萩学(やはぎ まなぶ)にとって人生とは、暇潰しでしか無かった。

 死ぬまでの膨大な時間をどの様にして消費してやるのか。

 誰も彼もがそれに必死になっているような気がした。

 実際、学もそうだ。ある日……12歳の頃だっただろうか。

 人生に用意された時間──この場合は人間の平均的な寿命が尽きるまでという事だ。

 それが一体どれほどのものであるのか、学は考えてみた。

 一日を振り返って、その体感時間を鮮明に思い出す。

 そして、それを何百倍、何千倍と伸ばして行った時、目の前に横たわっていた膨大な時間は恐怖を伴って姿を現した。

 思春期にありがちな哲学ではあったが、その恐怖は現在の学の価値観を形成するのに十分な力を持っていた。

 暇というものが恐ろしい。時間を潰さなければ、その濁流に呑み込まれてしまう。

 そんな思考に追われるように、時間を潰し続けて行った結果、学は快楽主義者となっていた。

 楽しいと思っている時間が最も短く感じられる。アインシュタインが熱いストーブの上に手を置いた時と、好みの女性との会話をしている時に例えた時間の相対性というものだ。

 学はそれに倣って快楽の伴う行動……つまりは遊びばかりに時間を割いていた。

 元より孤児院での記憶しかない天涯孤独の身。遊び呆けていても文句を言われることなど滅多に無い。

 ──ある一人を除いて言えば。


「兄さんさぁ、もっと真面目に生きたら?」


 松本霞(まつもと かすみ)──。

 学を兄と呼ぶ彼女は、同じ孤児院の人間だった。

 彼女は東京市街を歩く学の隣で、呆れ返った声を上げる。

 2人は孤児院の院長に頼まれた夕食の食材を買いに行く所であった。


「姉貴には関係ねぇだろ……」


 自身を兄と呼ぶ相手を姉と呼び、学はぶっきらぼうに言う。

 呼称は決して学の諧謔ではなく、二人の中で決めたルールだった。

 二人は年齢こそ同じであったが、孤児院に入った年は大きく違う。

 学は物心ついた時から孤児院に居たが、霞は8歳の頃に母親の手で孤児院へと連れてこられた。

 その後、ある事件によって二人は家族同然の仲となり、その際に問題が発生する。

 年齢が同じではどちらが兄姉で、どちらが弟妹なのかが分からない、と。

 『後から入ってきたのだから霞が妹だ』と先に主張したのは学であった。

 それに対して『誕生日は私の方が早い』と霞が主張する。

 結局、どちらも譲る事なく『互いに兄、姉と呼ぼう』という結論に着地した。


「関係あるに決まってるじゃん、家族なんだから」


 学であれば決して口にしない様な、ある種、青臭い言葉を霞は何事も無く言った。

 ひび割れたアスファルトを等速で踏みしめていた足を反転させ、彼女は学の左前方を後ろ向きに歩き始める。


「院長先生が持ってきた話、悪くないでしょ。タダで高校に通えるんだよ?」


 二人が暮らす孤児院『トネリコの園』は、決して夢物語の孤児院の様な和気藹々とした楽園ではない。

 無論、職員は孤独な子供たちを保護する為に名乗りを上げた有志ではあるが、あくまでも仕事である。

 お金が無ければ子供は養えない。その事実の前には屈服するしかないのが現状であり、まして高等学校へ通うための費用など、捻出できる筈も無かった。

 慈善事業であれど金は要る。今や一般的とは言えない高校進学の為に使う金など一銭もない。

 それでも、トネリコの園は良心的な方だ。中学校を卒業するまでは働かなくとも良いよ、そう言っているのだから。

 これが、他の孤児院であればそうはいかない。中学校に通っている暇があれば丁稚でも、と就職先を用意されて追い出される場合が殆どである。

 こうして、中学校卒業後の4月。2人がのんびりと街を歩いていられるのは、トネリコの園がそうした孤児院よりも幾らか『お金を持っている孤児院』であるからだ。

 そんなトネリコの園の院長から強く勧められたのが『無償で通える高校』の話であった。


「どうせ詐欺か何かだろ。先生は肝心な所で天然なんだから、騙されでもしたんじゃねぇの?」


 前述と矛盾するようだが、トネリコの園の院長は典型的なお人好しの類である。

 というのも、余裕が無ければ高校になど行かせられないという事実には抗えないが、逆を言えば余裕さえ僅かでも存在すれば高校に行ってもよい。

 現実が許す限りならば子供達の願望を叶えようとするのが、院長という人間だった。

 とは言え、決して院長は子供の親になろうとはしない。自分達はあくまでも職員であり、子供達の親には成り得ないというのが院長の方針である。

 そんな、淡白なリアリストでありながら、詰めの部分ではどこか抜けているというのが周囲からの評価であった。

 だが、霞はと言えば、そんな院長に対する評価を快く思っていない。

 彼女は、院長に対して大きな尊敬を寄せている。


「院長先生は、私達の事ではそんな失敗しないよ。兄さんだって分かってるでしょ、この話は本物だって」


 そして、彼女の言う事は正しい。

 院長は、子供達の事に関しては常に真面目に取り組む。

 失敗が一切ないという訳ではないが、少なくとも子供の将来について甘言に容易く乗る程の蒙昧ではない。

 だからこそ、学はそんな院長の事が苦手だった。

 院長のどこか抜けている部分は演技であると、そう語っているも同じ事だったからだ。

 愛嬌の為か、親近感の為かは窺い知れなかったが、人生を暇潰しと語る学にとって昼行灯を気取る院長の態度はあまりにも、“不誠実”に見えたのだ。

 人生とは暇潰し。故にこそ、一瞬一瞬を全力で消費するべきだ。学はそう思っている。

 だというのに、院長は天然のフリをして手を抜いている。謳歌すべき一瞬を適当に過ごしている。それがどうしても、学にとっては受け入れがたかった。


「……姉貴はどうすんだよ」


 学は不貞腐れた様に霞から顔を背けながら、問う。

 すると、霞は何でもない風にあっさりと言った。


「受けるよ、私は」

「……」


 その黒い瞳に浮かぶものの正体を、学は知っている。

 だからこそ学は、彼女の決定を批判する事もなく沈黙を返した。

 後ろ向きに歩いていた霞は踵を返し、学に背を向けて歩き始める。


「退妖魔士になる」


 まるで誓いの様に紡がれる言葉を、学は何の抵抗も無く受け入れた。

 この進学の話に関して、霞がその結論に達する事を知っていたからだ。

 小さく息を吐いて、学は霞の背中に告げる。


「……俺はならない」

「あ、そ……」


 それから、2人の間には沈黙が広がった。

 一切の言葉が交わされない2人の纏う空気は周囲の音を遮断する。

 そこは、まるで市街の蝉噪から隔離された空白地帯であった。

 そんな錯覚を覚えながら、学は霞を背を見つめる。

 暗い茶髪が肩に落ちて乱れ、陽光を受けて輝く。

 二の腕を露出させた黒色のシャツと薄手のクリーム色のボトムスは、霞の白い肌を照りつける日光の下に曝け出している。

 だというのに、露出させた腕などは真っ白で、真夏に雪を思わせるほどだった。


「兄さんは、さあ。これからどうするの?」


 ふと、霞は後ろを振り向くことなく問う。

 だが、学に今後の展望などあろう筈もない。

 そんな事は霞も分かっているだろうに、と学は違和を覚えながらも答えた。


「別に、暇を潰しながら生きるよ。死ぬまでな」


 人生とは死ぬまでの暇潰しである、という哲学を学が失う事はないだろう。

 人生に用意された膨大な時間が恐ろしい。故に暇潰しによって時間を忘れよう。

 そして暇潰しであるならば、娯楽であるならば、その時を全力で謳歌するべきだ。

 そんな、遊びにだけ一生懸命になる子供の様な価値観が、学の奥底には根付いているのだから。


「ヒモとか、犯罪とか、さあ。そういうのはやめてよね」


 まるで深刻な問題の様に、霞は重々しくそんな言葉を吐いた。

 かつて、平和だった15年前とは何もかもが違う。

 妖魔によって壊滅的な打撃を受け崩壊した前社会の遺産とでも言うべき知識と技術。

 それらの極一部、今の施設や状況でも使用可能なものを利用して人々は生活を保っている。

 第三次産業の殆どは姿を消し、世は物質的な在り方が比重を大きくして行った。

 貨幣こそ未だその価値を有しているが、市井では物々交換が多く見受けられる。

 広大だった生存圏は半分以下にまで狭まり、東京では食糧問題によってその内のおよそ4割を『農地』としなければならなかった。

 しかし、それでも人口密度は終末以前の7割にも満たず、市街には主を持たない廃墟が数多く存在している。

 そんな時勢であるからして、働き手というのはどれだけあっても不足していた。

 何も考えずに流されていたら命の危険と隣合わせの職場であった、という事も珍しい事ではない。

 過去には、そういった自意識の薄い人々を口減らしの為に退妖魔士にしていたのではないかという噂すら存在する。

 霞の重苦しい面持ちは、決して大袈裟とは言えなかった。

 適当に生きていては殺される。そんな論理が通る世の中なのである。

 しかし、霞の心配を鬱陶しいと言わんばかりに、学は肩を竦めた。


「そんな相手居ねぇし、罪を犯すほど落ちぶれてもねぇよ」


 そんな学の返答に、霞は背を向けたまま突然立ち止まる。

 前を歩いていた相手が止まった事で、学も否応なく止まった。


「……何だよ」


 どうもおかしい。学はそう感じずにはいられなかった。

 確かに、霞には普段から心配症の気質がある。放蕩者の学はそれこそ毎日の様に小言を聞いていた。

 しかし、こうも着地点の見えない小言をだらだらと続けるような、そんな人物ではない。

 言ってしまえば、今日は学から見て霞らしくない会話が続いていた。

 学が急に立ち止まった霞を訝しんでいると、彼女は体ごと振り向く。


「兄さんさ、何で急に金髪にしたの?」


 重々しく切りだされたのは、そんな問いだった。

 学は先日染めたばかりの髪を掻き上げ、嘆息する。


「そんなの、俺の勝手だろ。染髪料が安く手に入ったんだよ」


 学の指の隙間を抜けていく髪は染髪によって傷んでおり、ささくれた感触を返した。

 そんな学の言葉を聞いて、霞は視線を僅かに落として口を開く。


「……全然、似合ってないし。ダサイよ、それ」


 拗ねたような口振りだった。

 学は批判された事に対する怒りよりも、霞の様子が気に掛かり問う。


「何なんだよ、さっきから。どうした?」


 それは普段の霞ならば子供扱いされた事に文句を言う様な、子供をあやす口調だった。

 しかし、霞は拒否するでも怒るでもなく、学から視線を逸らす。

 そして、口を尖らせて篭もるような声でこう言った。


「……女の人といた」

「はあ?」

「先週、金髪の女の人と仲良さそうに歩いてた。……その後じゃん、髪染めたの」


 事実であった。それは学が誰よりも知っている。

 何故、霞がそんな事を重要視し、話題に出したのか。

 その事に学は1つの予想を浮かべると、口角を吊り上げて言った。


「何だよ姉貴、妬いてんのか?」


 意地の悪い笑みを浮かべる学を睨みつけて、霞は否定する。


「そんなんじゃ、ないし」


 そうではない。学の予想は決して的外れとも言えないが、事実とも違った。

 あえて明言するならば、2人の間に男女間の愛情は存在しない。

 在るとすれば、それは家族としての愛情のみ。

 故に、霞の抱いたそれは嫉妬とは違った。


「変な人達と付き合ったり、してないよね? ずっと、私の兄さんだよね?」


 それは嫉妬ではなく、寂寥。

 自らの知る兄が失われるのではないかという不安から、霞は問いを繰り返していた。

 それは、普通の家族を基準にすれば些か過保護というものであろう。

 しかし、2人は家族を失って生きる恐怖と悲嘆を知っている。

 だからこそ、2人は互いに互いを失う事を恐れていた。

 ──そう、互いに。学も、霞を失う事に恐れを抱いている。

 互いを想い合っているからこそ霞の不安を理解した学は、手を伸ばし霞の頭を荒々しく撫でた。


「大丈夫。その女の人には、染髪料を売ってもらっただけだよ」


 優しげな声に解れていく不安。

 心臓が締め付けられるような感覚が失せていくのを感じながら、霞は安堵の吐息を漏らす。


「仮に悪人だったとしても、自衛隊にでも突き出すよ。俺は、人間が相手なら負けない。分かってるだろ?」


 自身に満ちた励ますような声を受けて、霞は小さく頷いた。


「うん。……まあ、兄さんはエロい事にしか使わないけど、ね」


 冗談めかして霞は笑う。

 不安が拭えた様子の霞に、学も自然と笑みがこぼれた。


「女がエロいとか言うな。幻想が壊れる」

「子供の頃から共同生活しておいて幻想も何もないでしょ」

「幻想のままにしておきたい事もあるんだよ」


 そんな冗談を交わしながら、2人は再び歩を進める。

 その時だ。人々の行き交う市街に鐘を叩く音が響いたのは。

 甲高いそれを聞いて、道行く人々は僅かに立ち止まる。

 学と霞も同じく、立ち止まって音を探るように空を見上げた。


駅鐘(えきがね)?」


 心当たりのある音に学は呟いた。それは、駅鐘と呼ばれる鐘の音だ。

 列車の各駅に備え付けられた、列車の到着を告げる鐘。

 駅に列車が進入する約30秒前から、完全停車まで駅員が駅の構内に存在するそれを鳴らし続ける。

 電気の潤沢な昔ならば自動で鳴らしていたであろうそれも、今では駅員が槌を持って鐘を叩いていた。

 その目的は、列車の到着を告げると同時に、妖魔の侵入に対する警戒を促す音だ。

 無事に到着したと思われた列車の中や下から妖魔が現れた事例など幾らでもある。

 一応は、街に入る前に一度停車して乗員による確認を行うが、それでも万が一という事があった。


「神奈川の方から物資を運んで来るんだって。昨日、ラジオで言ってたよ」


 鳴り響く駅鐘の音に呑まれないように、いつもより声を張りながら霞は言った。

 人類の生存圏の縮小が最も影響したのは、生産の難しい物資の流通だ。

 衣類や食品の生産は限られた土地でも行えた。

 人口の減少に伴い需要が減少している事と、妖魔被害の少ない地域に再利用可能な工場や田畑が残存しているからだ。

 しかし、例えば兵器の生産。自動車や大型機械などの生産については、難しい地域が多いのが現状である。

 東京もまた、生産力においては十分と言えず、周辺都市からの輸送で賄わざるを得ない状況であった。

 この駅鐘の音も、日常とは言わずともさして珍しいものではない。

 数秒もすれば人々は前方に視線を戻し、歩き始める。

 学と霞もまた、人々と同じように進行を再開した。


「……少し急ぐか。人が増えたら面倒だ」

「院長先生、夕食の時間にはうるさいもんね」


 2人の目指す商店街は駅前に存在する。

 もし物資搬送の為の車列が出来てしまえば、それを避けて通る人々や車列そのもので商店街の入り口が混雑する事があった。

 そうなればスリに注意して迂回しなければならない上、時には喧嘩等の事件に発展する事もある。

 それらに巻き込まれては堪らないと、2人は歩を早めた。

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