表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歯車は止まらない  作者: チェリー教授
第1章:黄昏の時代
3/4

佐川 唯(さかわ ゆい)

 いつの間にか夜が明けている。

 その事に気付き、佐川唯(さかわ ゆい)は何の感慨もなく後方に流れていく景色を見送った。

 窓の外に向けた黒真珠の様な瞳と、肩まで流れる夜空の様な黒髪が朝焼けの赤に染まっている。

 第二次性徴を終えた肢体は整った曲線をなぞり、15歳という若さながら洗練された彫刻の様な美しさを湛えていた。

 その一葉の絵画を思わせる光景を乗せて、列車は朝焼けに映える群青色のボディを抱え、銃声にも錯覚する断続的な走行音を奏でながらゆったりとレールの上を走っていた。

 かつては電線を張り巡らせパンタグラフで電気を受け取り走行していた列車も、今では軽油を使用した内燃機関によって走行している。

 しかし、電車とディーゼル機関車の違いを知らない唯にとっては、生まれて初めて乗るそれがどちらであろうと関係はない。

 むしろ、彼女にとって今問題となるのは流れていく景色や列車の歴史などではなく……。


「おしり痛い……」


 慣れない列車に長時間座っている事により臀部に生じた疼痛が問題であった。

 足を組み換え、腰を反らし、何とか誤魔化し続けていた痛みは、いよいよ燃える様な感覚と共に耐え難いものへと成長を始める。

 自分の為だけに用意された個室席ではあれど、女子たるもの他者の目がなくとも淑女たるべしと考えた彼女は、姿勢を崩すことなく座り続けていた。

 しかし、そんな小さな矜持によって保ち続けていた体裁にも限界が訪れ、乗車から2時間と21分。彼女の矜持と肉体は遂に痛みに屈服する。

 彼女は数瞬の内に体裁を保てない言い訳を幾つか考え出し、無理やりに自分を納得させてから座席にうつ伏せに寝転がった。

 蹴りあげるように脱ぎ捨てられた靴が、列車の床を叩いて転がる。

 四人掛けのボックスタイプの個室は、唯の矮躯でも足を曲げなければ寝そべる事は出来ない。

 しかし、姿勢を崩した事による開放感からか、彼女はそれを不満に思うこともなく、前方に手を突き出して思い切り伸びをした。


「うー、んー」


 思考の大半を支配していた痛みが失せれば、後は好奇心がむくりと顔をもたげる。

 彼女は思うままに全身をほぐした後、極力体を起こさずに済む姿勢を模索した結果なのだろう、窓枠に両手の指を掛け、その手の甲に顎を乗せると座席に膝立ちになる形で窓の外を覗いた。

 ちょうど列車は神奈川県相模原市から東京都八王子市に入る所を走行しており、唯の眼前には美しい朝焼けに照らされる崩壊した街並みが広がっている。

 人の姿など一つもない朽ちた建物の群れの中、駆ける列車の上で唯は呆れるように小さく嘆息した。


「どこも一緒ですねぇ……」


 この様な光景は、唯の様な若者には珍しくもない。

 15年前より、人の生存圏は大きく狭まった。その結果、人の住めない地域には放置された廃墟だけが残されており、今やそれらを木々が侵食して灰色と緑色のコントラストが人類の生存圏の周りには広がっている。

 『終末』と称された15年前の事件。その時、この廃墟群を作り出したモノこそが、終末論者によって『終末の福音』と語られた巨大な塔であった。

 唯の眼前に広がる廃墟の向こう、東京の市街にもその塔は君臨し、人類を見下ろしている、

 福音と呼ばれようとも、その塔が吐き出すのは神の言葉ではない。

 その塔より現れたのは、異形の怪物。人類の滅びの直接的原因であるそれらを、日本では『妖魔』と呼んでいる。

 妖魔の事を考えて、唯は先日も九州の方で列車が妖魔に襲われる事件があった事を思い出した。

 その時は、妖魔と戦う事を専門とする『退妖魔士』によって問題なく駆除されたと聞くが、果たしてこの列車はどうだろうか。

 そう考えると、今や妖魔の根城とも言える人類の生存圏外を駆ける列車が鉄の棺桶に思えてならない。

 そんな唯の不安は正しかった。事実、正式な数値は一般に伝えられていないものの、陸路を利用した物資輸送の成功確率はおよそ40%である。

 6割の輸送が失敗に終わる。そして、失敗とは輸送が困難な状況──即ち、輸送部隊の壊滅に他ならない。

 だが、そんな事実を一般人である唯が知る由もなかった。


「まあ、何かしらの対策は取ってるでしょう」


 彼女はそんな結論を出し、景色を楽しみ始める。

 どこも一緒、と評価してみても、そこは人類の領域ではない。

 遠景を眺めるならばいざ知らず、朽ちた街並みの中を列車で駆けるのは唯にとっても初めての事であった。

 真横に迫る巨大な建造物を見上げて、唯は大きく息を呑む。

 真っ赤に燃える朝焼けの中、コンクリートの灰色と草木の緑色が静寂の中に佇んでいた。

 人の手を離れて15年。巨人を思わせる重厚な存在感を宿したビルディングは、圧倒的な視点から群青色の列車を見下ろしている。

 唯の背筋を走る怖気は、恐怖ではない。全身を粟立たせる感情を、唯は畏敬であると処理した。

 何に、という訳でもなく。ただ、その異様を思わせる建造物に畏れを抱く。

 息が詰まる様な感覚の中、いつの間にか唯の視線はゴーストタウンに釘付けになっていた。

 壁の大半がガラス張りになっている小さな建物の中には、幾つもの棚が並んでいる。

 床に散らばった瓶や袋は砂埃を被って、一見すれば黒い塊にしか見えないだろう。

 しかし、唯はそれを走行する列車の上からはっきりと視認した。

 決してそれは、彼女の動体視力が極めて優れているという訳ではない。

 単純に、列車の速度が人が歩く程度にまで落ちていたからだ。

 今にも停止してしまいそうな速度で走行している。唯がその事に気付いたのは、背を向けていた個室のドアが開かれたその時であった。


「あ、まずっ──」

「失礼」


 列車の速度に唯が反応を示そうとした時、そんな短い言葉と共に個室のドアを開いたのは、大柄な男性。

 睨みつけるような鋭い目つきと迷彩色の上衣を押し上げる鍛え上げられた肉体は、初老に映る外見ながら少女を威圧するに余りある。

 しかし、そんな男性の外見よりも唯にとって問題だったのは、『ドアに背を向けて、四足動物の様に腰を突き出している』という事。

 そして、『彼女の服装がシャツの上に丈の短いワンピースを着ているだけ』という事だった。

 結果、当然の様に男性の視線は唯に向けられ、見せつけるように突き出している下着が男性の視界に入る。


「ぁ……ああ……!」


 女子たるもの他者の目がなくとも淑女たるべし。

 そんな矜持が疼痛に屈したのは、一体何分前の事であったか。

 臀部の痛みを庇うあまり、女子としての品格を失した唯は、その身をわなわなと震わせて……。


「ぎゃああああああああ!?」


 女子としては間違いなく不合格であろう、色気も可愛らしさもない絶叫を響かせた。

 ここで男性側が慌てて出て行くか、唯が男性の頬を張って一幕、というのが典型だろう。

 しかし、唯は下着を見られたという衝撃で叫ぶ事しか出来なかったし、男性は下着について何を言うでもなく平然と口を開いた。


「……佐川唯さん、ですね?」


 その人を射殺せそうな瞳が唯の顔に焦点を合わせ、口からは岩を抱えたかのような低く這いずる音色が飛び出す。

 “一体何故、この人は平然と話を進めているのだろう……。”

 唯はそんな疑問を口には出さず、何はともあれ乱れた服装を整えてから姿勢を正した。


「は、はい、そうですわよ?」


 失った女子力なるものを取り戻そうと気取るあまり妙な口調となる。

 唯は壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られながらも、触れてくれるなと願いながら言葉を続けた。


「列車の速度の事、ですか?」


 唯の問いに男性は頷く。

 これは決して、運行速度の低下に対する謝罪や注意に来た訳ではない。

 男性が次に何を言うのか、唯には分かっていた。


「はい、列車への干渉を止めていただけますか。運行速度だけではなく、車内のもの全ての動きが緩慢になってしまっています」


 予想通りの言葉に対して、唯は申し訳無さを混じえて頭を下げる。


「はい、すみません。無意識にやってしまったみたいで……」


 15年前の終末によって現れたのは、『塔』と『妖魔』だけではない。

 世界が未だ完全な滅びを迎えていないのは、旧軍による尽力も要因の一つだが、最も大きな要因の一つは『能力者』の出現であろう。

 終末と共に世界の法則が捻じ曲がり、既存兵器の効果が薄い生物である妖魔や、完全に物理的干渉を受け付けない建造物である終末の福音が出現した。

 そんな時、人類の中からも既存の物理法則を無視した力を有する者が現れ始める。

 それこそが、能力者。何らかの得意な力を発現させた人類の希望の一つであった。


「お気をつけください。ここはまだ妖魔共の領域……、いつ襲われるか分かったものではありません」


 男性は既に通常速度で後方に流れる景色に視線を送りながら、そう忠告する。

 全11両からなるこの長蛇の後方9両は貨物車となっており、『客』として乗車しているのは唯のみであった。

 乗員を含めても二桁に満たないこの列車が妖魔に襲われてしまえば、被害は免れないだろう。

 故に、妖魔の棲息域で速度が落ちるという事は、襲撃率──有り体に言ってしまえば死亡率を跳ね上げる事件である。

 それを決して軽く考えていた訳ではないが、己の力が原因となった唯にはただ頭を下げる事しか出来なかった。


「本当にすみません……次からは気を付けます」


 唯の謝罪を受けて、男性は「お願いします」と言って部屋を出ようとする。

 しかし、思い出したかの様にその所作を止めると、男性は小さく笑みを浮かべてこう続けた。


「……しかし、列車一つに干渉出来るとは、話に聞く通り凄まじい。貴女ならばよい退妖魔士になれるでしょう」


 退妖魔士とは、名の通り妖魔と戦う術を以って、妖魔を退け駆逐せんと日々戦う人々のこと。

 妖魔が人類の第一脅威である以上、その存在は人類の中でも最重要と言っても過言ではない。

 こうして唯がこの列車でただ一人の乗客であれたのも、彼女が退妖魔士となるべく東京へ向かっている『退妖魔士見習い』であるからだ。

 とはいえ、東京では『物資の輸送』という名目が無ければ列車を運用する事も難しいため、あくまでも書類上では彼女は物資の一つでしかないのだが……。

 そういった根深い政治方面にまで伸びる話など彼女にとっては知る由もない。

 彼女にあるのは『退妖魔士となり、誰かの役に立ちたい』という考えのみである。

 故に、男性の言葉は唯の顔に笑みを浮かび上がらせるに十分な効力を持っていた。


「あ、ありがとうございます!」


 ほぼ反射的に唯は男性に感謝の言葉を述べる。

 男性はそれを聞き届けると、部屋を出ていこうとした。

 しかし、唯はそれを呼び止める。


「あ、あのっ、少しだけ話し相手になってもらっても良いですか? ……その、暇だったらで良いんですけど」


 そう乞われた男性は、情報に視線を送り思案する所作を見せると、


「暇ではありません」


 と言った。

 必要最低限の人員しか乗せていないのだから、暇であろうはずもない。

 唯一、佐川唯という物資だけが退屈に浸る事が許されていた。


「そうですか……すみません、呼び止めてしまって」


 無論、そんな事情を知らぬ唯は、男性の口調の堅さも相まってそれを純粋な拒絶と受け取る。

 誰も好き好んで見知らぬ子供の暇を慰める相手にはなるまい。

 そう自分なりに理解して、唯は謝罪を述べた。

 しかし、男性は唯の謝罪を聞き流すようにして、言葉を続ける。


「しかし、私の任務はこの列車を妖魔から守る事。そして、貴女を必ず東京へ送り届ける事。護衛対象と同じ部屋に居ても、問題なく任務は果たせます」


 そう言って、男性は体を部屋に戻すとドアを閉めた。

 それを受けて、唯は花開く様に笑みを浮かべると、自分の前方の席を示す。


「あ……! じゃ、じゃあどうぞ、座ってください!」

「はい、失礼します」


 慇懃ながらも男性は唯の前の席に腰を下ろし、二人は向かい合う形になった。

 同じ高さの席に座っているのにも関わらず、真正面を見れば唯の目線は男性の口元の高さとなる。

 唯が小柄な方という事もあるが、男性も平均身長を遥かに上回る体躯を持っている為だ。

 唯は視線を僅かに上に修正し、男性の顔をまじまじと見つめた。

 短い黒髪には白髪が混じっており、頬には薄い皺が見て取れる。40か50、或いは若々しい60代と言っても通用するだろう。

 迷彩色の戦闘服は今や市民にも馴染み深いものとなった自衛隊のものか。開かれた首元から黒いシャツと焼けた肌が見て取れた。

 手足は服に包まれていながらも、洗練されたものであると分かる。

 唯がそれらを不躾に観察していると、男性はそれを咎める様子もなく口を開いた。


「それで、どんな話をしましょうか」


 その問いに、唯は自身が何も言わず男性を見つめていた事に気づき、慌てて言葉を返す。


「あ、ああ、そうですね……。えー、と……それじゃあ、まずお名前を聞いても良いですか? 私の名前は知っているみたいですし」


 唯が名前を問うと、男性は小さく頷いた。


「はい、存じております、佐川唯さん。私の名前は長門修一。長門とお呼びください」


 男性、長門修一はあくまでも慇懃に、そう名乗った。

 しかし、慇懃であっても(へりくだ)ったり(おもね)る様子はない。

 どちらかと言えばその慇懃さは礼節ではなく、拒絶的な色を含んでいる。少なくとも唯はそう感じた。


「では、長門さんで。……あの、もっと砕けた話し方でも良いんですよ? ほら、私なんてまだまだ子供なんですし」


 折角の話し相手なのだ、打ち解ける余地もないまま会話を続けるのは寂しい。

 唯はそう思い、長門に楽な話し方をするように要求するが……。

 しかし、長門の反応は芳しいものではなかった。


「いえ、これは……ケジメですので」


 きっぱりとした拒絶ですらなく、長門は僅かに言い淀む様にそう返す。

 だが、他者の背景にまで思考が回るほど、唯は大人ではない。

 彼女は長門のどこか影のある物言いに気付く事なく、自分なりの納得をした。

 自衛官故の、己に対する厳しさの表れなのだろうと。


「ケジメですか……やっぱり、自衛隊って厳しいんですか? 規則とか、そういうの」


 その問いは、長門の事情を考えれば的はずれなものであった。

 しかし、長門とてここでベラベラと事情を話すつもりもなく、ただ薄っすらと笑みを浮かべる。


「私は元自衛官ですが、今は一介の退妖魔士に過ぎません。……ですが、私が所属していた頃を思い返せば……そうですね、とても厳しかった。起床のラッパが鳴ってから15分以内に着替えとベッドの整頓を行い、1秒でも遅れれば罰則が待っています」


 どこか懐かしむ様な顔で語る長門に、唯は感心する様に息を吐いた。


「はぁ……罰則というのは……?」

「隊にもよりますが、私の所では10秒遅れた隊員が居た場合、同じ部屋の者全員が10掛ける10回……つまり100回の腕立てをさせられていました」

「ひえー……」


 唯は気の抜ける悲鳴の様な声を漏らす。

 想像以上の厳しさに、畏敬とも憐憫とも取れぬ感情が湧いてきた。

 しかし、唯の様な若者でも知っている。かつて日本に塔が出現した時、自衛隊の決死の反撃によって辛うじて国家崩壊を防ぐことが出来たのだと。

 想像を絶する訓練があっての成果であろう事は、当時を知らずとも伺える。

 妖魔に通常兵器は効果が薄いというのは、今や常識なのだから。


「……あ、ところで」


 唯は話を転調させるように一言挟む。

 日本を守っている自衛隊についても気になるが、唯にとって一番聞きたいことは別にあった。


「どうして、私一人の為に列車を用意したり……ここまでしてくれてるんですか?」


 そもそも、こうして唯が神奈川から2時間以上も列車に揺られているのは、東京のさる学校へと入学が決まった為だ。

 妖魔被害によって教育体制の崩壊したこのご時勢、高等教育どころか中等教育すら満足に行われていない地域もある。

 唯は中学校──つまり前期中等教育こそ終えているが、その先の後期中等教育、そして高等教育については視野に入っていなかった。

 毎日生きていくので精一杯であったし、情勢に合わせて前期中等教育は無償化したが後期中等教育に関しては学費が必要となる。

 学費を払う余裕などない。その前提があって、唯は進路から進学という選択肢を除いていた。

 しかし、4日前の事だ。防衛省の使いを名乗る人物から、進学の選択肢を与えられたのは。

 唯とて馬鹿ではない。最初は詐欺を疑い、渡された書類を何度も読み返し、実際に市役所経由で防衛省に問い合わせもした。

 しかし出てきたのは埃ではなく、れっきとした防衛省により発行された書類であるという証明だけである。

 そうなれば、後は渡された選択肢を選ぶかどうかの二択であった。


「どうして、ですか……」


 長門は唯の問いを咀嚼するように、繰り返してから語り始めた。


「北関東防衛局長と言って、分かるでしょうか」

「確か渡された書類に……」


 東京を中心とする、北関東についての全権を委ねられた防衛省の幹部。

 唯が書類を調べる過程で得た知識では、そう記憶されていた。


「はい、その方が今まで存在しなかった、退妖魔士を教育する為の機関の発足を宣言しました」

「でも、既に退妖魔士の教育は行われていますよね……?」

「関東以外では、確かに存在します。しかし、関東には存在しませんでした。……その様な機関を作っても意味がなかったのです」


 長門の物言いは妙だった。

 言葉の意味を捉え損ねた唯は、率直な問いを口にする。


「どうしてですか?」


 すると、長門は数秒ほどの沈黙を挟んでから、重々しく口を開いた。


「──教育などする前に戦線に投入しなければ、妖魔を押しとどめる事が出来なかったからです」

「……ッ!」


 唯は、その言葉の意味をようやく理解して息を呑んだ。

 しかし、唯の戦慄を無視して長門は言葉を続ける。


「文字通りの必死。一人が死ぬまでに妖魔を一体殺せれば良いと、消耗戦を行う事でしか妖魔を食い止める事が出来なかったのです。仲間が食われている間に妖魔を殺し、自分が食われるのならば爆弾を抱え、それでも今までは均衡を保つ事で精一杯でした」


 しかし、と言葉を挟む。

 それは地獄であった。屍山血河で天下を埋め尽くさんとする程の、凄惨な地獄であった。

 だが、それももはや過去の事。それを強調する為に、長門は首を振る。


「ようやく余裕が生まれたのです。戦いの中で才能を開花させた者、他の地域で経験を積んできた者。彼らによって、(いたずら)に死んでいく人々は激減しました。……その時です、私立上城学園の理事長が退妖魔士教育に名乗りを上げたのは。その後、理事長と北関東防衛局長は手を取り合い、新たな学科『退妖魔士教育科』を発足させました」


 退妖魔士教育科。今まで存在しなかった関東初の退妖魔士を教育する為だけの機関。

 栄誉あるその舞台として、民間である私立上城学園が選ばれたのには、理由がある。

 今や、高等学校の全校生徒は平均して40名から60名。そんな時勢に、毎年200人超の生徒を抱えている現代のマンモス校であるからだ。

 大きな学校というのは、それだけ設備が整っているという事であり、名声によって各地への影響力もある。

 生まれた余裕がどれだけ保つのか定かではない現状では、防衛省にとって専門の学校や科を用意する時間すら惜しかった。

 上城学園の理事長が名乗りを上げたのは、防衛省にとっても渡りに船であったのだ。


「そして、第一期生に選ばれたのは、まだ何処にも所属していない『能力者』の中でも、特に強力な力を持っていると目された方たちです。……貴女もその一人。であれば、この丁重な扱いは、勝手ながら大人たちの期待の表れと受け取ってください」


 勝手ながら、という語を強調して長門は言った。

 長門には、生徒に対してこの話をするべきではないという考えがあったのだ。

 大人の期待というものは、大人達が考えている以上に子供に対しては重圧となる。

 まして、関東初の退妖魔士教育機関という偉業。そのプレッシャーたるや、如何程のものだろうか。

 故に、最後まで黙っているつもりだったのだが、しかし、口が滑るようにして要らない事まで喋ってしまった。

 しかし、仕方があるまい。長門とて、勝手な期待を抱いている大人の一人なのだ。

 誰よりもこの教育機関の発足を、佐川の様な若者の出現を願っていたのは、彼なのだから。


「……はい、きっと立派な退妖魔士になります。なって、みせます。ずっと、子供の頃からなりたかった職業ですから」


 長門の言に感じ入る所があったのだろう。

 佐川は表情を引き締めて、そう言った。

 それを聞き届けると、長門は窓の外に視線を向ける。

 そこには、既に妖魔の棲息域を抜け、東京の街並みが広がっていた。

 草臥れた印象があるものの、かつてと大きくは変わらない都市の姿が。

 長門はゆったりと立ち上がると、小さく息を吐く。


「もう間もなく到着するようです。……次は、上城学園でお会いしましょう」


 部屋を出ていこうとする長門の背に、唯は疑問符をぶつけた。


「学校で、ですか?」


 長門はドアを引きながら、頷いて答える。


「はい、私は貴方達のクラスの、副担任ですから」


 そう言って、長門は最後に不器用な笑みを浮かべると、部屋を出て行った。

 この時、唯はその言葉を冗談と捉えていた。それが事実であると知るのは、10日後の入学式の時である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ