第六話 理由
小さい頃から色んなモノが見えた。
自分に見えて、他人に見えないものがあるなんて思ってもみなかった。
郁弥にとっては普通の風景でも、他人にとってはそうではないと気づいたのは、たぶんまだ小学校に上がる前。
郁弥が小学一年生だった頃。
野球のボールくらいの丸い、一つ目の生き物を捕まえた。
最近家の近くで、よく見かけて気になっていたのだ。
いつも、それこそボールのように、地面をボンボンと跳ねていたので、捕まえるのは難しいかと思っていたが、虫取りの網を使うと、思ったよりも簡単に捕れた。虫かごに入れようとしたが、大きすぎて入らなかったので、両手でつかんで観察した。
郁弥の小さな手では片手でつかみきれず、両手で握っていないとすぐに逃がしてしまいそうだ。
郁弥が怖いのか、逃げ出したいのか、丸い生き物はぶるぶる震えていた。
全身は白い毛に覆われている。体の半分はあろうかという大きな一つの目が郁弥を見ていた。口や鼻、手足はないようだ。長い睫が日に照らされつやつやとしている。生暖かく、柔らかい感触は猫を撫でた時のそれに似ていた。
丸い生き物は戸惑うように瞳を揺らめかせている。
知らなかったのだ。
それが、触ってはいけないものだったなんて。
人が、関わってはいけないものだったなんて。
知っていたら、きっと違っていた。
気づかないふりができたのに。
知らなかったから、振り向いたのだ。
あの声に。
はっと、郁弥は目を覚ました。
心臓が早鐘を打っている。
激しい呼吸音が自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
今目にしているものが、見慣れた自分の部屋の天井であることに気付き、ほっと息を吐く。
無意識に掴んでいた上掛布団からゆっくりと手を離した。
昔の夢を見た。
最近、よく昔の夢を見る。
もう少しで、十年。
本当に来るのだろうか。
分からない。
だからこそ、怖いのだ。
今日の予報は曇りのち晴れ。局地的な豪雨に注意してください。と、朝の報道番組で、天気予報士が言うので、念のため、折り畳み傘を持って家をでた。
だが今の所、役に立ちそうはない。空は雲に覆われていたが、今にも雨が降り出しそうということはなかった。
教室に入ると、またもや斗真に呼び出された。今回は、闇の集まる部屋ではなく屋上へ連れて来られる。
屋上は基本的に立ち入り禁止のはずだが、石塚は堂々としたものだ。
屋上へ通じるドアは鍵がかかっているはずだか、なぜ開いていたのか。
「鍵開いているってよく知ってたね」
感心して話しかけると、柵に手をかけて下を見おろしていた石塚が振り向いた。
「そりゃ、開けたの俺だからな。この間、こっそり」
こっそりと言った後に、鍵穴を探る仕草をする。つまり、ピッキングでもしたのだろう。
妙な技を持っているものだ。
「ふーん。で、君本当に僕と組むつもり?」
郁弥の冷めた反応のせいか、質問が気に食わなかったのか。斗真が顔をしかめた。
「しゃーねぇだろ。ご指名なんだから。これからずっとって訳でもねぇしよ」
見合いで、一目見て無理だと決めつけた割にあっさりしている。
「絶対合わないって言ってただろう。そんな相手と組んで、もし危険な目にあったらどうするんだよ」
郁弥は引かなかった。万が一ということがある。お互いが足を引っ張りあうようなことにでもなれば、下手をすると生死にかかわる。
「んだよ。うるせぇな。俺、天才だから、本当は一人でも大丈夫なんだよ。でも、JEAの仕事受けるときは二人一組って決まってるからな。いざって時は、無理やりにでもお前に合わせてやるよ」
不機嫌な顔から一転。斗真は、不敵な笑みを浮かべる。
郁弥は彼から目を逸らした。随分大口をたたいているとは思うが、彼を信じない訳ではない。斗真は、郁弥を一目見て、郁弥の中の妖気に気付いた。それだけ、能力が高いということだろう。
だが、安心はできないのだ。
郁弥の脳裏には消したくても消せないものがある。
呪いを受けてから、もうすぐ十年。最近、呪いを受けた時の夢をよく見る。
それが、妖魔からのメッセージのような気がしてならないのだ。
自分が気にしているからこそ夢に見ているだけなのかもしれないが、嫌な気分がまとわりついて離れない。
「つうか、お前、気分悪いだろ」
唐突に、斗真が言った。
えっと顔を上げた郁弥の方へ近づいてきた斗真は、いきなり郁弥の肩や背中を叩く。
痛かったが、何となく重く感じていた身体や、少しではあるが、心も軽くなったような気がした。
この感じはもしかして……。
「あれ? 憑いてた?」
「ああ、小者が結構な数」
意外と、肩や背中に憑かれると本人は気づかないものなのである。
斗真のように能力のある者に叩かれると、下等な妖魔の類はあっさり落ちるか霧散する。
体力が落ちていたり、気弱になっていたりしても、憑りつかれることがある。風邪などひいたときには憑かれやすく、病気がさらに悪化することもあるので注意が必要だ。
どうやら、ナーバスになり過ぎていたらしい。そのせいで、下等な妖魔や闇を呼び寄せてしまったようだ。
郁弥は不意に異変を感じた。先ほどまでより、空気が澄んだ気がしたのだ。
呼吸がしやすい。
郁弥は、驚いた顔を斗真に向けた。
「君、今僕の周りに……」
「ああ、結界張った」
石塚は何でもないことのように言う。
「何で?」
「調査する前に倒れられでもしたら、仕事になんねぇから」
郁弥はどうにも解せなかった。
加瀬谷から話を聞いている間、石塚は、乗り気には見えなかったし、加瀬谷を心底嫌っていたようにも見えた。
その加瀬谷からの依頼を、あっさり引き受けたうえ、絶対相性悪いと決めつけた相手と、仕事をすることに文句一つ言わなかった。
何か企んでいるのではないだろうか。と、疑いたくなるのは仕方がないではないか。
郁弥が物問いたげな顔をしていたせいか、斗真はふいと顔を背け、言い訳めいたことを口にし始めた。
「何だよ、変な目で見んなよな。仕方ねぇじゃん。爺さんにばれたんだよ。お前との見合いのことが」
「見合いがあるって、言ってなかったのか?」
郁弥の問いに、斗真は呆れたような顔を向けてくる。
「んな訳ねーだろ。じゃなくて、見合いの席の一部始終を月城が爺さんに喋っちまったんだよ」
喋られたらまずいのだろうか。と、思っている郁弥の前で、斗真は肘を柵の上に置き頭を抱えた。
「爺さん、非礼にも程があるとか言いだして、俺、今小遣い没収されてんだよ」
「はあ」
自業自得なんじゃと思ったが口には出せなかった。
そんな郁弥の心を読んだかのように、斗真は頭を抱えていた手を離し、郁弥を振り返った。
「だから、今回の報酬は絶対に手にいれてぇんだよ!」
力説する斗真に、郁弥はただ頷いて見せた。
何だか気が抜けてしまった。
何か裏があるのでは、と思っていた自分がバカみたいだ。
ただ単に、斗真にとっては呪われた上に結界も張れない、相性の悪い相手と組むということよりも、切実に金の問題の方が大きかったということだ。
気にしてバカみたい。
「ついでに、闇に憑かれた奴とか見つけて、ささっと払って、特別報酬ももらうぜ!」
と、熱く語っている斗真の傍らで、郁弥は大きく溜息を吐いた。顔を上げると、空は、重い雲が垂れ込めていた。まるで、自分の行く末を暗示しているようで、郁弥はまたもや溜息を吐くのだった。