第三話 学校にて
知らなかったのだ。
触ってはいけないものだったなんて。
人が関わってはいけないものだったなんて。
知っていたら、きっと違っていた。
気づかないふりができたのに。
知らなかったから、振り向いたのだ。
あの声に。
六月二週目の月曜日。梅雨只中であるはずなのだが、梅雨入りが宣言されてから、さっぱり雨が降らなくなった。ここ何日かは曇り空が続いている。
外は曇っていても、学校の中は相変わらず若い熱気で満ちている。
早坂郁弥はざわめきの中、廊下を抜けて、教室に入る。
「おはよう、いくみん」
早速郁弥に声をかけてきたのは、席が隣の葉山エリカだ。ちなみにいくみんとは、郁弥にクラスの女子がつけたあだなである。
郁弥は学校に来る時だけかけている眼鏡を人差し指で押し上げてから、にっこりした。
「おはよう。葉山さん」
自分の席に座ってカバンから教科書を取り出していると、エリカとその友達が郁弥の周りに集まって、日曜日にあったことを面白おかしく報告してくれる。
郁弥は優しい顔立ちのせいか、柔和な性格のせいかは分からないが、女性の受けがよい。
受けが良いと言っても、モテる訳ではなく、警戒心を呼び起こさない相手と見られているらしい。
女子の話に頷いたり、相槌をうったりを繰り返していた時。
一人の女子生徒が、声を上げた。
「あ、いくみん。石塚君がこっちに来る。どうしよう」
言われてみると、周りを囲む女子生徒の隙間から、石塚斗真が確かにこちらに向かってくるのが見えた。
実のところ、昨日の見合い相手は、郁弥のクラスメイトだったりする。
高校に入学して、三カ月弱。石塚とまともに会話したことは、一度もない。
「いくみん、いくみん。石塚君どうしたんだろう。てか、やばい、マジ、カッコいいんだけどー」
そんなこと言われても困る。コメントのしようがないので、郁弥は微笑みで返した。
周りの女子たちが小声で騒いでいるのは、石塚がモテる容姿をしているからだ。
身長は百六十センチ半ばの郁弥より確実に十センチは高いし、運動神経はいいし、成績は知らないが、顔立ちも申し分ない。
郁弥と違い、女子からは遠巻きにされているが、それは彼が女子に対してそっけない態度をとるからである。
それでも、硬派な所がカッコいいと女子生徒は皆噂している。
石塚は、郁弥たちから一メートル程の距離をあけて立ち止まった。
「おい、早坂。ちょっと話があんだけど」
郁弥の前に陣取っていた女子が、声を聞いて脇によけたので、先ほどよりも石塚の仏頂面がよく見えた。
「何?」
郁弥が尋ねると、石塚はさらに眉を顰めた。
「いいから、来いよ」
吐き捨てるように言って、入口のドアを顎で示す。
そのまま背を向け、教室を出ていくので、郁弥も仕方なく席を立った。
昨日、速攻で振った相手に、一体何の用があるというのだろう。
エリカたちに、話の途中で抜けることを詫びて教室を出る。
廊下に出て、どちらへ向かったのかとまず右を見ると、すぐそばに石塚が立っていた。
彼は郁弥を一瞥すると、無言で背を向けて歩き出す。
ついて来いということだろう。
そう判断して、郁弥は石塚の後に続いた。
人気のない空き教室へ連れてこられた郁弥は、眉を顰めた。
背後で、石塚がドアを閉める音が聞こえる。
だが、郁弥はそんなことに構っていられなかった。
ここは酷い。
カーテンが閉まっているからだけではなく、部屋全体が暗い。廊下よりも一段と空気が冷えているように感じる。
旅館に漂っていた黒い靄のようなもので教室は埋め尽くされていた。
まるで、この部屋に密封されているかのようだ。
この学校にこんな酷い部屋があったなんて!
郁弥は石塚を見た。彼も、郁弥を見返す。
石塚は何も感じていないかのように、平然と立っている。郁弥の目には、壁際に置かれた、机や椅子をまるで従えているように見えた。
郁弥は一度、強く目を瞑って、開いた。
石塚がこの部屋で平然としていられるのは、自身の周りに結界を張っているからだ。
郁弥の目に、先ほどまで見えなかったオーラがありありと見えていた。
彼の、明らかに普通に人とは違う気の流れ。
石塚はやはり能力者だ。
お見合いをしたのだから当たり前だが、あそこで合わなければたぶん、ずっと気づかなかっただろう。
能ある鷹は爪を隠す。と、いうことか。
「まさか、おまえがJEAの能力者だとは思わなかった」
石塚の淡々とした声が妙に遠くから響いてきたように感じた。
どうやら、互いに、同じような印象を持っていたらしい。
「この部屋、ひでぇよな。邪気に満ちてる。空き教室になってるのも必然って感じだよな」
石塚は、部屋を見回し、まるで、落ちてきた桜の花びらを掴もうとするかのようにそっと手をあげた。
「何で、こんな部屋……」
郁弥は自分を抱きしめるように腕を組んだ。
物凄く、寒い。
ここにこれ以上いたら、凍ってしまいそうだ。
「お前には居心地がいいかと思って」
探るような視線を受けて、郁弥は目を逸らした。
気づかれていた。
僕の中の闇に。
心臓が大きな音を立てた。
真の闇が辺りを包む。
何も見えない。
息が上がる。
手が、足が、身体が震える。
頭が鋭く痛んだ。
――ねえ、返してよ
耳元で誰かが言った。
その声の主は……
突如、大きな音が室内に響いた。
いつの間にか遠ざかっていた音が、戻ってくる。
「おい、大丈夫か」
肩を強く掴まれ、痛む頭を手で押さえながら顔を上げる。
どうやら、しゃがみ込んでいたらしい。
腰をかがめた石塚の焦った顔を見て、なぜか安堵の息を吐いた。
掴まれたままの肩が熱い。
「びっくりした」
呟きに、石塚が目を怒らせた。
「そりゃこっちの台詞だ」
言いながら、乱暴に、手で、頭や肩や背中を払ってくれる。
痛かったが、身体がどんどんと楽になっていくのが分かったので、されるがままにしていた。
「こんなもんかな」
「どうも」
言って、立ち上がろうとしたら眩暈がした。うずくまろうとしたところを、石塚に支えられる。
もうちょっとしゃがんどけと、怒鳴るように言って、石塚は教室の脇に積まれた椅子の一つを持って、戻ってきた。
どうやら、これに座れと言うことらしい。
郁弥は素直に座ると、大きく息を吐いた。
次いで、ゆっくりと辺りを見回す。
先ほどまで部屋を覆い尽くしていた闇が、見事に消えていた。
「すごいね。一掃されてる。今、柏手うっただけだよね」
たった一回で、あれほどの闇を払えるとは。やはり、そうとうの力の持ち主なのだろう。
まさか、郁弥の中の妖気に気付いていたとは。
郁弥は、正面に立つ石塚を見上げた。彼は、ばつが悪そうに顔を背ける。
「悪かったよ。ちょっと確かめるつもりだったんだ。お前が宿主かどうか。宿主ならJEAに報告しなきゃなんねぇし、周りにも悪影響だしな」
宿主とは、闇や妖魔に憑りつかれた者の総称だ。もし郁弥が宿主であれば、先ほどまでのような闇に埋め尽くされた部屋はさぞかし居心地が良いことだろう。
「あの闇、この部屋に集めたの君?」
石塚の話をさえぎるようにして聞いた。
石塚は顔をしかめたが、文句は言わずに頷いた。郁弥が倒れかけたことに対して、良心の呵責を覚えたのかもしれない。
「学校って、溜まりやすいだろ。俺、周りにふよふよ漂ってんのイライラすっから。ここに集める仕掛けして、まとめて払うことにしてんだ」
なるほど、それで。と、郁弥は納得した。
何に納得したのかといえば、この学校に入学して以来、ほとんど闇が浮いているのを見たことがなかったからだ。教室も中学校の時と違い居心地が良かった。
石塚のおかげだったのか。
まあ、今回は迷惑を被ったが、長い目を見れば、彼のおかげで楽ができる。
「で、僕の疑いは晴れたの?」
「おまえ、俺を馬鹿にしてんのか。おまえが宿主だったら、あんだけ邪気に影響される訳ねぇだろが」
低く唸るような声で言われて、郁弥は体を震わせた。
怯えた目を向けると、石塚は舌打ちした。
「まあいいや。おまえ、普通の奴より、自己防衛できてねぇな。いきなり倒れそうになるとは思わなかった」
「僕は呪われてるからね。中の妖気を押さえるのに精いっぱいで、外にまで力を向けられない」
人は皆、身体の周りに霊気が流れている。
それは、一種の防具のようなもので、妖魔や霊が憑りつくのを防ぐ役割を果たしているのだ。
郁弥はその周りの霊気をも使って、中の妖気を押さえこんでいるため、通常の人よりも、妖魔の類の影響をうけやすい。
それも、意識的にやっている訳ではない。そう告げると、石塚は難しい顔をする。
郁弥は首を傾げた。
「見合い前に月城さんに聞いてない? 相手は、結界が張れないから、組む場合は相手もガードすることになるって」
石塚は、それは聞いたけど。と言葉を濁す。
「他に気になることでも?」
相手の煮え切らない態度にしびれを切らして聞いてみた。
「そりゃ、あるだろ。おまえ、さっきさらっと呪われてるって言ったよな」
「そうだね」
「あっさり、返答しやがって」
石塚は、苦虫を噛み潰したような顔をする。
なぜ、彼がそんな顔をするのか分からない。
「もうすぐ、十年なんだ」
つい、口を滑らせてしまった。
きっと大丈夫、何とかなると思っていても、やはり不安だったのだ。
「何が?」
低く問うてくる石塚に、郁弥は言った。
「呪われてから、もうすぐ十年なんだよ」
石塚が息を飲んだ。驚いたように目と口を大きく開けている。
当たり前だろう。
JEAに所属しているくらいだ。
石塚も、知っている。
妖魔に呪われた人間がどうなるか。
十年というのは、妖魔が提示した期間だ。
奴は言った。
十年経ったら、迎えにくるよ。と……