エピローグ
今日は、随分天気がいい。
空はどこまでも青く、時折白い雲が浮かんでいる。
快晴だ。
結局、今年の梅雨は雨が少ないまま終わりそうだ。
この間屋上で見た空とは雲泥の差だと、郁弥は思った。
この間は、学校の屋上。
郁弥が今いるのは、病院の屋上だ。
そこに設けられたベンチに郁弥は一人座っている。
ハルと対峙したあと。
気づいたらこの病院だった。
驚いたことに、一時は心配停止の状態だったという。
目が覚めたのは、ハルと対峙してから、二日目の朝だった。
今日で目が覚めてから三日目。
目が覚めてからは元気そのものだ。
むしろ今まで以上に体調が良い。
それもこれも。
「ハルの妖気が身体の中からなくなったからだよなぁ」
郁弥は無意識に胸を撫でていた。
花の紋様のような印は、郁弥の胸から消え失せていた。
平日の午前中。
まだ朝早いせいか、ここには誰もいない。
なので、今のは、郁弥の独り言だ。
「あーあ。退屈」
病室の中は、黒い靄がたくさん浮いている。
普通の人にとっては、ただ浮いているだけの、害をなさないそれも、郁弥にとっては、少し毒だ。
そして、それは入院患者にとっても、良くはない。たくさんの靄に集られた入院患者を数名見た。
郁弥には分かる。
彼らの余命がわずかだということが。
それは、もう仕方がない。自然の摂理というものだ。
靄を払ったところで、患者の命が長らえる訳でもない。
それでも、人の死期が分かるというのは嫌なものだ。
だから、こうして、郁弥はここに逃げてくるのだ。
不意に、ドアが軋む音が背後から聞こえた。
何となく振り返ると、松葉杖をついた少年がいた。
「斗真、何やってんの!」
郁弥は慌てて立ち上がり、彼のもとへ行くと肩を貸した。
斗真は郁弥の肩につかまり、左足でけんけんをしながら郁弥の座っていたベンチまでたどり着く。
ベンチに腰掛けた斗真は、いつもの制服ではなく、紺色のパジャマ姿だった。右足には、白いギブス。
ハルに妖気をぶつけられ吹き飛ばされた斗真は、全身打撲に加え、右足骨折。
あの時、郁弥の元へ来られなかったのは、体中が痛い上、足が折れて動けなかったかららしい。それに、ハルの妖気が身体を蝕んでもいた。
ハルに腕を胸に突き立てられて、胸中の結界を破られた衝撃で意識を失った郁弥に変わり、後始末をしたのは斗真だったらしい。
月城に電話をし、JEA職員が到着するまで、場を保ち続けたという。
加瀬谷からそれを聞いて、まったくもって頭が下がる思いがした。
ちなみに、斗真を蝕んでいた妖気を体から抜いたのは、現場に真っ先に到着した加瀬谷だったらしい。
そこがまた、斗真の気に入らない所のようだったが。
郁弥は彼の横に腰かけ、また空を仰いだ。
「あの女の人、正気取り戻したってよ」
「よかった」
斗真は、月城あたりから得たのだろう情報を、郁弥に語って聞かせた。
あの宿主の女は、二年前に子どもを事故で亡くした母親だったのだという。
子どもを亡くしてからと言うもの、家に引きこもる生活を続けていた。
子どもを欲するあまり、闇を身の内に飼いならしてしまったのだ。
そして、子どもをさらってきては、自分の子ではないと悲嘆にくれて。
弟の手助けを借りながら、何度も子どもをさらっては返していたのだという。
その弟というのが、ハルだった。
女には、実際に弟がいるのだという。
似ても似つかぬ顔立ちだったというのに、女性はずっとハルを弟だと信じて疑わなかったそうだ。
「ところでイク。身体の調子どうだ」
すっかり定着した呼び名で呼びかけ、斗真もまた、空を仰いだ。
「すこぶる快調。今までがウソみたいにね」
「そりゃ、良かったな」
そこで、会話が途切れた。
頭上では、どことなく、アイスクリームのように見える白い雲が、ゆっくり、ゆっくりと動いている。
「あのさあ……」
しばらくして、斗真がまた声をかけてきた。
郁弥はアイスクリーム形の雲を見つめながら声に答えた。
「何?」
「お前の武器、すごかったな」
斗真が郁弥の錬成した剣をみて興奮していたことを思い出す。
「そりゃ、参考にしてるのが、ファンタジー小説の挿絵とか、漫画とかの武器だから」
「いや、そうじゃなくて」
かぶせるような斗真の言葉に、郁弥はやっと、彼に視線を向けた。
斗真は真剣な面持ちで、郁弥を見ていた。
「お前の武器を持った瞬間、何つうか、こう、物凄く、手になじんだっていうか……。あんな感覚、爺さん以来っつうか、それ以上つうか」
どうやら、斗真のかつてのパートナーは、頻繁に会話に上る爺さんだったらしい。
斗真は一目見て、郁弥とは合わないと言っていたが、もしかして、と郁弥も感じていた。
「俺たち、めちゃくちゃ相性いいと思うんだよな」
郁弥はすっと目を細めた。
「だから?」
「だから!」
斗真が声を張り上げた。
「あんな一度きりのパートナーじゃもったいないだろう。だから、俺と組もう!」
郁弥は細めた目で、じっと斗真の顔を見つめた。
「いや、組んでくれ!」
言いなおした。
そう思いながらも、郁弥は答えを返さなかった。
だんだんと、弱気な顔になった斗真の口から洩れた言葉がこれだった。
「組んで、ください……ダメか?」
お伺いを立てる斗真を見たのは、きっと彼の家族以外、郁弥だけだろう。
「ダメに決まってるだろう。僕は一度、君にこっぴどく振られてるんだよ」
恨みがましい目で睨んでやると、斗真はしゅんとうなだれた。
「あの時は、悪かったよ。合わないっつったのは、間違いだった」
「へぇ」
短い相槌を返したが、斗真の顔は上がらない。
「学校で、女子に囲まれてへらへらしてる奴なんかと組めるかって思ったんだよあの時は。こんな奴、信頼できないって」
「じゃあ、今は?」
郁弥の問いに、斗真はのろのろと顔を上げた。
ふっと真面目な表情になって、郁弥を見据えた。
「信頼してる」
真摯な声音に、予期せず、胸をつかれた。
無意識に胸元に手をやった郁弥を見て、斗真が心配そうに痛いのかと尋ねる。
郁弥は首を振り、言った。
「でも、僕は……」
そう言って、今度は郁弥がうつむいた。
「あー、やっぱダメか」
斗真が心底残念そうな声を上げた。
「だって、君、わがままだし、口調乱暴だし、すぐキレるし」
「悪かったな」
「それに、自分を天才とか言っときながら、ハルに完敗だったし」
「あれは、しょうがねぇだろう。あれは、規格外だ。あんなの、存在が神レベルじゃん。あんな妖怪、本当に存在すんだな」
「まあ、ハルのことはしょうがないとして、君と組むのはなぁ……」
そう言いながら、考え込むように腕を組んだ。
「ダメなら、はっきり言ってくれよ」
肩を落とした斗真の耳に、郁弥の笑い声が微かに届いた。
「おい、イク?」
訝し気な斗真の声。
郁弥はぱっと顔を上げた。
「なーんてね。お返しだよ」
そこには、にやにやした笑顔がある。
「はあ? お返しって……」
呆気にとられる斗真に、してやったりといった顔を向けて、郁弥は言葉を続けた。
「僕ばっかり振られるなんて癪だからね。あの時のお返しだよ。振られるのって、結構くるでしょ?」
斗真は、目をぱちくりさせた。
「おっまえなぁ」
いつもなら怒鳴りつけるところだろうが、今回はそんな気力も残っていなかったらしい。
脱力した斗真に向かって、郁弥は軽く拳を突き出した。
「これから、よろしく。相棒」
斗真はゆっくりと顔を上げ、郁弥の突き出された拳を見て、口元に笑みをのぼらせる。
そして、郁弥の拳に己の拳をぶつけた。
こつんという音とともに、じんと腕にしびれが走る。
二人は清々しい気分で空を見上げた。
それは、どこまでも澄んだ、青だった。
ここまでご覧いただき、本当にありがとうございました。
今作は、伽砂杜ともみさま主催「お菓子&お返し企画」のお返し企画の方へ参加させていただいた作品でもあります。
「お返し」というキーワードを入れる為にできた今作、いかがでしたでしょうか。すこしでも、面白いと思っていただけていれば本望です。
誤字脱字に変換ミス等々、推敲はしていますが見逃している所があったかと思います。いえ、無いようには気を付けているのですが、私、うっかりミスやらかしちゃうんですよねぇ。御見苦しいところがありましたら、申し訳ありません。
ご指摘いただければ、速攻で直しに行きます。
郁弥&斗真を書いているのは、本当に楽しかったです。
この楽しさが、少しでも皆様へ伝わっているといいのですが。
精進しなければ、ですね。
それでは、最後に。
伽砂杜さま。素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました。
この企画がなければ、このお話は生まれませんでした。楽しい時間をありがとうございました。
そして、ご覧下さった皆様、貴重なお時間を割いていただき、目を通してくださって本当にありがとうございました。
それでは、この辺で。
また、どこかでお会いできることを願って。
愛田美月でした。