第九話 激突
彼女の体から黒い霧が立上ったように見えた。
やっぱり。
彼女は宿主だ。
郁弥は臍をかんだ。
斗真に声をかけてから、彼女を追えばよかった。
鳥肌が立つような妖気が彼女からほとばしっていた。
闇に憑かれたのだろう。最初は、少し、ため込んでいた程度だったに違いない。だが、闇は着々と心と身体を蝕み、力を付け、いまや彼女を支配しようとしていた。
郁弥は、胸に手を当てた。痣が痛んだような気がしたからだ。
このままではまずいと、本能が告げている。
この女の前から逃げたい。
本能がそう訴える。
でも、逃げる訳にはいかない。
彼女を救ってやることこそが、郁弥の仕事だからだ。
女が子どもと手をつないでいない方の腕を上げて、郁弥へ向かって手のひらを突き出した。
女の手に、妖気が集中していくのが分かる。
目には黒い霧が収縮し、一つの丸く黒い塊になっていくように見えた。
あれをぶつけられたら、ひとたまりもない。
だが、避けきれるか。
自分では結界も張れないのに。
焦っていても、相手は待ってくれない。
女の手から妖気が放たれた。
ぶつかる。
反射的に目を瞑って片手で、顔をかばう。
だが、いつまでたっても予期した痛みは来なかった。
不意に、間近で大きな音が響く。
慌てて目を開くと、黒い妖気の塊が、郁弥の数センチ前で止まり、白と黒の火花を散らしていた。
擦過音を響かせていた黒い塊は、見る間に小さくなり、やがて消えた。
白い光も見えなくなる。
あの光は、斗真の結界……
「おい、イク! 無事か?」
背後から声が聞こえ、振り返る。
一瞬耳鳴りがした気がした。
ふっと、辺りの空気が変わった。
音が消えた?
遠く聞こえていた、車の走行音も、公園ではしゃぐ子どもの声も聞こえない。
斗真がこちらに走ってきた。傍らに立ち止まった彼を見上げる。
そこでようやく、斗真が場を作ったのだと分かった。
場と言うのは、結界に近い。簡単にいえば、異空間を作り出したのだ。その作り出した異空間を場といい、その場の中には、外にいる者は近寄れないし、中で何が起こっていても感知できない。場は、対妖魔戦では、よく使われる術である。
こんな一瞬で。
驚いたが、郁弥の口をついて出たのは、別の言葉だった。
「無事……だけど、何、今の」
斗真は女を睨んだまま、郁弥に答えた。
「ああ? 結界で囲んで場つくってやったんだろ。いきなりおっぱじめやがって。戻ってきたと思って見てたら、また公園の外に走り出すから、どうしたのかと思って追って来たらこれだ。こいつの存在に気付いたんなら、走り出す前に俺に声かけろよ。場作るのが間に合わなかったらどうすんだ。公園近いのに、一般人寄ってきたら面倒だろ!」
思った通り、さっきの耳鳴りの原因が、斗真の作った場に入ったからだと分かったが、郁弥が聞きたかったところはそこではないし、ましてや、説教でもない。
「じゃなくて、イクって呼んだだろ」
「そこかよ」
呆れたような声を上げて、女から郁弥に視線を向ける。
「いきなり呼ばれたら、びっくりするだろ」
「いいじゃん。早坂より短いから呼びやすかったんだよ。お前も斗真って呼んでいいからさ」
斗真が言った時だった。
衝突音が間近で聞こえ、二人してそちらに目をやった。
二個、三個と、黒い塊が斗真の張った結界に阻まれ、擦過音を響かせていた。
女を見ると彼女の周りにはいくつもの黒い妖気の塊が浮かんでいた。
「あーあーあー。すっかり我を失っちゃって。つか、あのガキじゃまだな」
斗真の口調がいつになく軽く聞こえた。
「おい、イク」
「何?」
思わず返事をすると、彼はにっと笑った。
「おまえ、下弦流だったよな」
「そうだけど……」
肯定する声は、衝突音に半ばかき消された。また、いくつもの黒い塊が飛んできては、斗真の結界に阻まれる。
妖気の塊が幾重にも襲ってきているのもかまわず、斗真はその場で屈伸運動を始めた。
三度目の屈伸を終えて、膝に手をついたまま、女を見据える。
「さて、お仕事しますか」
「ちょっと、ぶっつけ本番?」
郁弥の叫びを無視して、斗真は脱兎のごとく走り出した。
両の掌に、白い球体が生まれる。斗真が霊気を掌に凝縮しているのだ。あれを妖魔にぶつけて、相手の力を削ぐ。
斗真は跳躍すると、女に向かって振りかぶった。
女が顔をかばう。
彼女の腕に光球があたった。
否、阻まれたか。
判別する間もなく、辺りが一瞬真っ白になった。
郁弥も光に視界を奪われた。
その時。
「イク、受け取れ!」
かすむ目で声をした方を見て、ぎょっとした。
子どもが宙を飛んでいる。
うわぁと、声を上げた。ずっと手に持っていたままだった、スポーツドリンクを放り投げ、郁弥は目一杯手を伸ばした。
腕に、予期していた以上の重みを感じ、前に倒れてはまずいと後ろに体重を移して、見事にひっくり返った。
腹が押され、ぐぇっと変な声が漏れる。
子どもを抱いたまま、半身を起し、傷みに顔をしかめていると、斗真の声が耳に届く。
「おい、イク。子ども、後ろにやって仕事しろ!」
その言葉にむっとしたが、女と攻防を繰り広げている斗真の姿を見て、口を閉じた。
子どもを言われた通り、後ろに寝かせる。
自分は、片膝と両の手を地面につけて、女に目を向けた。
ぶっつけ本番。うまくいくか分からない。
不安が頭を過る。
胸の印も気になる。もし、術を行っている最中に、何かがあったら。
「イク! ぼうっとすんな!」
斗真の声で我に返った。
もう一度女を見る。
見通す。
下弦流の術式を頭に思い浮かべる。
まずは、相手の属性を見極める。
「木、水、風、火、金、光、闇」
属性を上げていく。
今、郁弥の目にだけ、女の周りにいくつもの文字が浮かび上がって見えている。その文字は女の体のあちこちへ張り付く。火は頭、金は胸、闇は腹という具合に。
水の文字が消えた。
火が、木が、風が消えた。
金が、光が……
残るは闇だ。
闇の文字が、郁弥の目には月の明かりのように光って見えた。
属性は闇。やはりと思うが、少し迷う。こんなことなら、二人で術の練習をしておけばよかった。
だが、後悔しても遅い。
「うわっ」
不意に斗真の声が耳に入り、集中力が途切れた。
斗真は妖気に押し負けたのか、尻餅をついている。
悩んでいる暇はない。
時間がたてばたつほど、斗真の力が削がれる。
郁弥は心を決め、両の手に力を込めた。
闇に対するは光。
腕から、霊気が流れていく感覚。
幾度も、幾度も鍛錬を重ねて、会得した術だ。
以前斗真に合わせてやると言われたが、そんな必要はない。
合わせてやるのはこちらだ。
「できた」
郁弥は、両手を地面につけたまま、顔を上げた。
「斗真!」
女が発した妖気の玉を弾き飛ばした斗真が、郁弥を振り返ることなく叫ぶ。
「よし来た。イクっ!」
叫ぶと同時に、斗真は腕を肩の位置に上げ、手のひらを地面にかざした。
その瞬間、手をかざした地面から白い光があふれだす。
地面が水面のように揺れる。
光が波打つ。
何かが、地面の中からゆっくりと姿を現した。