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9/21

八 二人(1)

 六月といえば梅雨のイメージが強いだろう。

 季節の変わり目に特有の不安定な気候。何日も続く曇り空とにらめっこしながら、溜まりゆく洗濯物をどうするか考える主婦の姿は俺の家だけに出現するものではないはずだ。


 しかし、それも月の中頃まで。

 特に月末である今日は、七月といっても問題ないだろう。そう切り捨てたくなる気分にさせるほど日差しは強く、高まる湿度と反比例して街を歩く人々の衣服は薄くなる。


 当然、そうやって周囲を観察している俺もラフな格好だった。

 家の近くには洒落た店がないので、自転車を十五分ほど走らせて知名度がそれなりにあるカジュアルショップまで行って買ったのがこの服だ。

 薄手の黒いTシャツと、値引きセールに釣られて選んだジーンズ。冒険しない無難な服装だろうと自分では思っている。


 午前九時を過ぎた下野駅。

 待ち合わせ時刻より一時間も早く来た俺は、こうして通行人の服と自分の姿を見比べて何かおかしなところがないか確認する作業に没頭していた。

 最近まで私服を親任せにしていたから、自分で選んだ服が果たしてどんな評価を受けるのかわからない。妙な奴だと思われなければいいのだが。


 建ち並ぶビルの向こうに、雲一つない空が広がっている。

 その圧倒的な青色の下、俺はこの数日で組み上げた今日の予定を再確認していた。


 まず彼女と合流した後、駅近くの映画館へ行くことになっている。

 上映作品は、もちろん例の映画だ。週末なので多少は混雑するだろうが、もちろん抜かりはない。最初が肝心だと考えて、既に準備は済んでいる。


 映画の次は昼食だ。俺一人なら考えなしにラーメン屋とか牛丼屋へ行くのだが、今日はそうもいかない。

 貧弱な頭を必死に回転させ、近くに乱立するデパートに入っているレストランをいくつか候補に加えてある。和洋中と満遍なく揃えてあるので、彼女がどんな希望を出しても叶えられるはずだ。


 腹が膨れる頃には、午後のいい時間になっているはずだ。

 あまり人の波に揉まれ続けるのも良くないので、少し周辺を歩いてカラオケにでも行こうと考えている。

 日々を楽しんでいる奴らはカラオケでキャーキャー騒ぐのが好きらしいが、彼女はどうなのだろう。仮にカラオケが苦手だと言われても、繁華街らしく周囲にはレジャー施設がいくつもある。漫画喫茶、ボウリング、ゲームセンターなどなど。一つくらいは彼女の喜ぶ場所があるだろう。


 そうして遊んでいれば日も傾いてくる。

 この段階で解散を切り出される可能性もあるが、一応夕食の場としてふさわしそうな店もチェック済みだ。高級レストランとか居酒屋なんてのは論外として、少し大通りから外れたところに落ち着ける店を見付けてある。


 その後は……流石にお開きだろう。夜の街で遊び歩くのは色々と危険な気がする。

 それに正義感の強い彼女のことだ。万に一つ俺が誘ったとしても、さらりとかわされるか調子に乗るなと叱られるかの二択ってとこか。


 ふむ。我ながら完璧な予定じゃないか。メモだらけの手帳も今は必要ない。全部この頭に入ってるからな。

 念のためすぐ取り出せるようにポケットへしまっとくけど。


 唯一の心配といえば、予定外のアクシデントにどう対応するかということだ。

 きっちり計画を作り上げたからこそ、その思い通りには行かないってこともわかっている。そんな不慮の事故をどうやって処理するかで男の器量が分かれると、どこかの指南サイトに書いてあった。


 だが、そこにはこうも書いてあった。細かいことを気にして焦っているようでは余裕のない男だと思われてしまう、と。

 その時点で適当なことばっかり書いてるなと思ったものの、言葉だけ見ればまともだったので受け入れることにした。

 未熟な俺の考えなんて、いくら頑張っても年上の彼女に及ぶことはない。逆に考えて気楽にいけばいいんじゃないか。

 それが俺の導き出した結論だった。


 さてと。周囲は相変わらずの人通りだ。

 そこから逃げるように彼女からのメールを開き、その文面を確認してみる。

 連絡を取れないと困るから、という建前でアドレスを交換したおかげで、俺は生まれて初めて若い女性とのメールを経験することができた。派手に絵文字や顔文字が盛り込まれているわけではないが、どこか女性らしい雰囲気がメールにも漂っている。


 気付けば約束の時間まで、あと十五分と迫っていた。

 なんとなく髪の毛に手が伸びる。鏡がないのでセットが乱れているかなんて確認できない。手鏡くらいは持ってくるべきだったか。


 まだ時間もあることだし、駅に戻ってトイレの鏡を使おうと振り返る。

 階段を下りながら何気なく隣のエスカレーターを見ると、上へと運ばれていく彼女と目が合った。


「あ」


 二人して間抜けみたいにぽかんと口を開く。図ったようなタイミングに何も考えられなくなる。

 立ち止まったまま彼女の姿を見送り、階段を上下どちらに進むべきか一瞬だけ悩む。

 結局、階上から見下ろす彼女の視線に釣りあげられてしまったわけだが。


「おはよ。今日も暑いね」

「おはようございます」


 なんと言うか、彼女の服装は目のやり場に困るものだった。

 涼しげな生地のシャツは露出が過激ではない分、体のラインをくっきりと浮き上がらせている。スカートから伸びる生足も思春期の男には刺激が強すぎる。


「どこに行こうとしてたの?」

「いえ、ちょっと鏡でも見てこようかと」

「ふーん、色気付いちゃって。でもさ、服もいいセンスしてるし、かっこいいよ」


 いきなり何を言い出すんだこの人は。


「か、かっこいい……ですか?」


 いや待て。これは単なるお世辞ってやつだろう。

 女子という生物は意味もなくカワイイだのキレイだの言うらしいから、彼女も例外ではないということだ。


「うん。今日のために気合い入れてきたんだなーってわかるよ」


 初っ端から図星を突かれて俺は俯いてしまう。

 白状すると照れているわけだが、それを彼女に悟られたらまたおもちゃにされるに決まっている。


「……とりあえず、行きましょうか」


 返事を待たず、映画館へと足を進めた。

 その時点でデート失格みたいなことをしているが、彼女は気にせずついてきてくれた。


「待ってってばー」


 そんなことを言いながらも、彼女の足取りは急いではいない。

 だが、最初から牛歩戦術を行使していた俺の作戦が功を奏し、彼女はすぐ横に並んできた。置いて行かれるはずがない、と彼女は自分に自信を持っているのだろうか。その思惑は見事に的中しているわけだが。


「あ、忘れないうちにこれを」


 そう言って映画のチケットを彼女に手渡した。

 不意を突かれたようなその顔を見て、作戦の成功を確信する。


「えっ、もう買ってあるの?」

「早めに席を取っておいた方がいいと思ったので」


 いくら俺でも理由なく一時間前に来たりしない。

 誤算だったのは、同じ考えを持って早く並んでいる奴が少なかったことだ。数分も待てばチケットをあっさり手に入れることができ、駅前で手持ちぶさたな時間を過ごすハメになった。


 日曜ということもあり、人は多かった。

 だが、そのほとんどが先日公開されたばかりの話題作を目当てにしていた。数年前に一大ブームを巻き起こしたハリウッド映画の続編で、製作費何億円とかいう壮大な宣伝用語と共に乗り込んできた作品だ。

 人気を見越してか、その映画のチケット専用の売り場が用意されていた。俺はそこから伸びる長蛇の列に少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、ろくに並んでもいない常設カウンターでこのチケットを手に入れたわけだ。


「じゃあ、チケット代払わないと」

「待ってください」


 財布を取り出そうとする彼女を、俺は反射的に制止していた。

 男気を見せるのがポイントアップとかいう、女性雑誌に載ってそうなフレーズが頭をよぎったのだ。


「いいですよ、これくらい」

「でも悪いよ……」


 彼女は鞄に入れた手の行方に迷っていたが、ふと名案が閃いたようで顔色が明るくなる。


「それなら、お昼代は私が出すよ。それでおあいこ」

「いや、それは……」

「いいの。それに私だって年上のプライドってものがあるんだから。啓介くんばっかりいい格好するのはなしだよ?」


 微笑みながら諭すように告げる彼女。

 これが年上の余裕というやつだろうか。何十歳という大きな差ではないのに、俺はその間を埋める何かを持ち合わせていないらしい。


「……わかりました」


 反論するのも違うと思い、そんなそっけない返事をしてしまった。

 昼食をどこで済ませるかを決める前に、すんなり奢るという言葉が出てくる彼女は、やはり俺には遠い存在なのだろうかと思ってしまう。


 今日は楽しいデートのはずなのに、俺の捻くれた考えのせいで先行き不安だ。せっかく最初はいい感じだったのに。気持ちを切り替えていかなくては。

 唯一の救いは、彼女が楽しそうにしていることだ。

 心の奥底ではどう思っているのかなんてわからないが、ひとまず及第点としておこう。






 映画館の中はそれなりの広さで、売店もほどほどに賑わっているようだ。

 昔は親と来るたびにポップコーンのキャラメル味をねだっていたものだが、それも今では懐かしい。そんな購買意欲も消えてしまった俺は、その感情を失わずにいる幸せそうな人々の姿を眺めている。

 そして、そのおめでたい人はここにもいた。


「うーん……ポップコーンは定番だけど、こんな時間に食べたらお昼が入らなそうだし、そもそも脂っこいのは最近体重が……」


 既に席を確保してあるので、俺は焦ることなく彼女が結論を出すまで待つことにした。

 こんなことで真剣に悩める彼女を観察しているだけで興味深い。得られるものは多そうだ。


「──よし、決めた」


 結論が出たらしい。が、売店に背を向けている。どうしたというのだろう。


「今回はパンフレットだけでいいや。啓介くんは何か買う?」

「特には」

「そう? じゃあすぐ買ってくるね」


 しかし、案の定彼女はパンフ以外にも並ぶ関係ない映画のキャラグッズに目移りしていたのだった。

 ああやって何かに熱中できるのは一種の才能かもしれない。俺にはとてもできない芸当だ。


 ふと見ると、人の流れができている。


「入場始まってるみたいですよ。行きましょう」


 受付に指示された劇場の中は、気が早い人々で賑わいの欠片を見せていた。

 どうせ早く入っても、何かの宣伝か撮影禁止の警告くらいしか流れていないというのに。


「えーっと、ここかな」


 チケットに書かれている座席は、劇場の中間地点に近い場所にある。後方最前列とでも言えるだろうか。席の前にあるのが通路のため、長身の奴が邪魔で映画が見えないという問題も起こりにくい。

 通はこの席を真っ先に狙うという意見を参考にした。出典は忘れた。


「いい席取るね。やるじゃん」


 俺の隣でスクリーンを眺めながら、彼女も満足しているようだった。

 それなりに人は入っているが、予想通り前方がしっかり見える。席ごとの段差もあって、仮に座高の高い人が前に来ても問題ないほどだ。

 おかげで繰り返し流れる館内設備の説明動画が、勝手に頭の中へインプットされてしまった。お得なカードを作るほど、残念ながらここに来る予定はない。


 周囲が徐々にざわついてくる。映画館という場所柄もあって抑えられてはいるが、その明確に聞き取れない雑音の集まりは俺を不快にさせる。

 ああいう風に俺も彼女と自然な会話ができたらいいのに。人目があるせいか普段のように話を切り出せない。


 どうするべきか迷っていると、照明が少しだけ落とされ始めた。それに比例して喧騒が消えていく。

 薄暗くなった劇場内に集まった全員が、前方にある唯一の光源に視線を注いでいた。そんなに集中しなくても、どうせ本編はすぐに始まらないというのに。


 ほら、今度上映する新作の宣伝が続いているじゃないか。それらしいロゴが映っては期待して、プロモ映像とわかって肩を落とす作業が繰り返される。

 そういうシステムの上に映画という事業が成り立っているのはわかるが、それにしても他にやり方はなかったのだろうか。

 彼女はどうしているだろうと思い、そっと隣に目をやってみる。


「……」


 俺の視線など気付かないほど熱中していた。どの作品を次に見ようか品定めするような真剣な目つきから、本当に映画が好きなのだと察する。

 俺とは違うその姿勢が、なんだか眩しい。劇場内はこんなにも暗いはずなのに。


 それ以上見ていることができなくなり、俺は視線を前に戻した。

 長い宣伝が終わり、ようやく照明がもう一段階落とされるところだった。さっきよりも本格的に暗くなり、映画の開始を静かに訴えている。

 周囲も「これから始まるね」みたいな囁きを交わしている。


 残念だが、その期待は少しばかり早い。

 ここから本編までには、更にもうワンクッションあるのだから。それとも、ひそひそ話をしている奴らはこいつの登場を待っていたんだろうか。


 期待を裏切ることなく、スクリーンでは映画の撮影や録音を戒めるお決まりの小芝居が繰り広げられる。

 この不思議な踊りを披露しているビデオカメラ型の人間を考案した人は天才だな。それがいいことなのかどうかは知らないが、一定の認知度は既に得ているわけだし。

 でも不思議なのは、それだけの人気を得ておきながら泥棒とかいう通称が定着していることだ。それともそれが正式名称でいいんだろうか。


 あ、一連の映像が終わった。やっと本編が始まるのか。

 さて、どんな内容なのか楽しませてくれよ。

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