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六 問答(1)

 六月も半分が過ぎた頃の日曜日。そろそろ強大な敵である月曜日が顔を覗かせ始めた夕方のこと。

 俺は自室にこもり、別のことで頭を悩ませていた。


 机に頬杖をつき、窓の外に広がる中途半端な夕焼けを眺める。

 赤と白と青を混ぜたような空の色は、夏特有の不安定な大気が生み出す色彩なのだろうか。あと二週間もすれば七月になり、瞬く間に夏休みになってしまう。

 それは一つの区切り。俺は何かを成し遂げて残せたのだろうか。

 その当てもなく、今日何度目かわからない溜息をこぼす。


 俺がこうなっている原因は、他ならぬ彼女のことだ。

 ある日突然俺の前に現れた小池宏美という女性。ほとんど毎日のように会っては話し、そのたびに明るい笑顔を向けてくれる。

 その奥底に彼女がどんな思考を秘めているか知らないが、元々女性に免疫がなかった俺にとっては効果抜群だった。


 白状しよう。俺は小池宏美という女性に好意を抱いてしまっている。

 ちょろいにも程があるが、好きになってしまったものは仕方がない。そもそも人を好きになることに理由なんて必要ないはずだ。


 ──と、知った風なことを考えてしまうから俺はダメなんだろう。

 ろくに経験もないくせして、どこかで聞きかじった理論だけを積み上げている。


 そんな俺が彼女と釣り合うはずもない。

 考えるまでもなく、それは明らかなことだ。彼女は人気も高く、立場だってある。お互いのためにならないと、周囲の誰もが口を揃えるだろう。


 仮に俺と彼女が交際したとしよう。

 二人は相思相愛で、仲の良さは見ている方が恥ずかしいくらいだとする。

 しかし、それを直視して否定的な言葉を投げかける奴がきっと出てくる。聞きたくもない、認めたくもない言葉たち。

 その正論が二人の仲を切り裂く。

 そうなれば互いに二度と会うことはできず、その胸に深い後悔を刻み付けられたまま生きていくしかない。


 これは決して過剰な推察ではない。

 人間は自分が理解できない物事や道を外れた存在を否定し、遠ざけてしまうからだ。それは本能にも近いことだから仕方ない。


 そう。仕方ないのだ。

 俺が彼女に惹かれてしまうのも、それが叶わないことも、彼女が手の届かない高嶺の花であることも。俺一人がどうにかできる問題じゃない。

 まったく、どうして俺は無難な恋ができないのだろう。いや、無難な恋など存在しないのではないか──。


 また悪い癖が出た。いい加減答えの出ない堂々巡りはやめておくべきか。

 ふと時計を見れば、そろそろ夕食が出来上がる頃だった。呼ばれる前に自分から居間に下りてしまおう。

 悩みがあっても腹が減るのは、これもまた仕方のないことだ。






 こうやって悩んではみたものの、何度も言うように俺にはどうしようもない。ただ流れに身を任せて、なるようにしかならないことをやっていくだけの人間でしかないのだから。

 だから何が変わるわけでもない。


 放課後、いつものように俺は踊り場に向かっていた。

 その道中、職員室の前を通りかかった時のこと。


「あっ、啓介くん」


 ちょうど中から出てきた彼女と遭遇した。何かしらの用事を済ませてきた、といったところだろうか。


「一仕事やってきた感じですか?」

「まあね。高田先生に頼まれちゃって」


 高田というのは三年二組の担任だ。何年も前から本条高校に勤務している古株で、生徒の間では守護神と呼ばれていたりする。

 PTAの会長が愛用してそうな眼鏡と、中にテニスボールでも入ってそうなほどのお団子ヘアー。そんな外見もあいまって、守護神というあだ名が一層リアルさを帯びている。


「今日はもう帰っちゃうの?」

「いえ、またあそこに行こうかと」

「じゃあ、私も行っていい?」


 こう言われてしまうと断ることが無理になる。

 これが惚れた弱みなのだろうか。彼女の仕草すべてが俺の心を痛めつける。それが苦しくもあり、気持ち良くもある。


 まあ、校内という範囲なら彼女と一緒にいるところを誰かに目撃されてもセーフだろう。

 学校という場所は、それ自体が一種の隔離された聖域のような扱いになる。


「別に……いいですよ」


 選択肢を奪われた俺の隣を、彼女が歩いている。今日やるべきことから解放されたからなのか、その表情は晴れやかだ。眩し過ぎて直視できない。

 これじゃあ、最初の俺に逆戻りじゃないか。

 あの頃と比べて多少は変われたが、本質は同じだ。相手の目を見られずに、そっけないことしか言えなくなる。ある程度は繕えるのだが、ふとした拍子にボロが出る。お手上げだ。


「今日は何かしないの?」

「えっ?」


 踊り場に着いて腰を下ろした途端、彼女がそんなことを訊ねてきた。

 何か、なんて漠然としたことを言われても困る。


「ほら、前は本読んだりとか音楽聞いてたりしてたじゃない。最近してないからどうしたのかなーって」

「それは」


 小池宏美という目の前にいる相手と会話して同じ時間を共有したいからなのだが、やはりこれも言えるはずもない。

 それでは相手を意識していることがバレバレだ。


「今、いいのがなくて」


 適当な言い訳。

 真っ直ぐに向き合えることができたら、俺は変われるのだろうか。変わる必要があるのだろうか。

 変わるとしたらどんな風に?


「そっか。じゃあ、どんな本が好き?」


 向けられる何気ない好意が痛い。

 深い意味なんてない、ただの決まり文句なのだろうけど、どうしても素直に受け取れない。これが一般的な女性というものなのだろうか。


「なんでも読みますよ。最近だとミステリ系とか、SF系とか」

「SF好きなの? 私もこの前買った本ではまっちゃってさ。なんか女の子が異世界に消えちゃうお話で──」


 期せずして、そこから今までに読んだ本の話になった。

 彼女は最近買ったというその本について力説し、引き合いに出した本のタイトルを俺が拾ってその内容を語る。

 一見すれば悪い雰囲気ではないと言えるだろう。


 だが内面はそうではない。

 こうして話している間も、俺は形のない自己嫌悪にまとわりつかれている。自分が今どんな表情を彼女に見せているのか。その確証と自信がどうしても持てない。


 だからだろうか。一歩踏み込んだ言葉が出てこない。無難なことを言った後で、ああ言えば良かったと悔やむ。

 そんなに面白い本なら貸してくださいとか、今度一緒に本でも買いに行きましょうとか、それらの言葉が浮かばなかったわけではない。


「──あっ、もうこんな時間」


 彼女の声をかき消すように、完全下校五分前を告げるチャイムが鳴り響く。


「帰ろっか。明日も学校だし」

「そうですね……」


 その音に、どこか安心している自分がいた。

 これで一区切り。彼女と距離が置ける。明日という猶予ができる。逃げることができる。先延ばしにできる。


「あ、そういえば」


 彼女が何かに気付いたような顔をしている。それもいい方向ではないようなことに。


「どうしたんですか?」

「ごめんね、私これからもう一回職員室に行かないと」


 どうやら、用事はまだ済んでいなかったらしい。

 おそらく、守護神高田に頼まれたことが残っていたのだろう。踊り場に来てくれたのは気分転換のつもりだったのだろうか。


「それなら急がないとダメじゃないですか」

「そうする。またね!」


 手を振りながら、彼女は慌ただしく階段を下りて行った。

 あんなに音を立てたら、逆に誰かが見咎めるんじゃないだろうか。


 そして、一人取り残された俺。

 気付けば安堵の溜息をついていた。一仕事終えた後のような、深く長い吐息。


 今日は一人で帰りたい気分だった。こんな心理状況で、彼女とこれ以上居続けるのは無理だったから。

 想いが伝わらないのなら、いっそすべてから逃げ出したくなる。

 早く帰って今日を終わらせたい。明日になれば、また考えをリセットできるだろう。






「よっ、啓介。今ヒマか?」


 翌日の放課後、いつものように踊り場へ向かおうとした俺を引き止める声があった。

 しかし発生源はクラスメートではない。そんな親しい友人もいないしな。


「先輩、どうしたんですか」

「ちょっとな。この席借りるぜ」


 俺の前にいる中野という男子の椅子に腰を下ろした先輩は、鞄に手を突っ込んで探し物をしているようだ。いつものように面白い本でも見付けてきたのだろうか。

 そんな谷澤先輩とは中学からの付き合いだ。

 当時入っていた委員会で仕事を教えてもらった縁で、それ以来何かと面倒を見てもらっている。俺のことを弟代わりにしている先輩は一人っ子で、秘めた欲求をぶつけてきているんじゃないかと少し心配になるような人だ。


 だが、悪いことばかりじゃない。

 先輩はサブカルやミリタリーなどの知識が豊富で、特にSFの話は一度始まると止まらないほど熱中している。

 様々な小説の読者でもある先輩とは趣味が合い、そのおかげで見付けた掘り出し物も多かった。


「あったあった。これもう読んだか? 先月発売だけど、まだまだ新刊だぜ」


 先輩が出したのは、ハードカバーの小説だった。

 奇妙なグラデーションで飾られた表紙に記されたタイトルには、どこか覚えがある。


「いえ、読んでませんが……」


 そこまで言って思い出した。

 これは昨日、彼女が話していたSF小説だ。簡単な内容しか聞いていないが、平行世界を扱った作品だと言っていた気がする。

 言葉の途切れを期待と勘違いしたのか、先輩は「実はな、これ」と含みを持たせた声になる。


「平行世界ものなんだよ。こういうのとかループものって、今の流行だろ? 俺もつい乗せられちまったんだが、読んでみたら大当たりってわけさ」


 俺の机に本を置き、表紙に指をトントン当てている。

 既に評論家モードへと変わっているようだ。こうなった先輩は自分の気が済むまで話をやめない。


「内容だけど、基本は簡単だ。主人公が、消えてしまった恋人を探すってお話だからな。それだけなら王道の恋愛作品だけど、その消えた恋人ってのが──」


 自己流のあらすじを披露する先輩の声は、右から左へと抜けていく。

 過度なネタバレをせずに見所を紹介するその話術は尊敬できるが、別に聞かなくても読めばわかることだから気にしない。やがて満足すれば勝手に話を終えてくれる。

 それが、この先輩と長く付き合いを続けてきた俺が学習したことだ。


「──ってわけで、主人公もどうにかして会いに行こうと試行錯誤するわけなんだが、これがまた波乱の連続でな。って、おい。聞いてるか?」


 こう言われた時に返す言葉も知っている。


「ええ、聞いてますよ」

「そっか。ならいいんだ」


 この趣味に没頭している先輩を嫌っているわけではない。

 人と人との関係には様々な種類があるというだけだ。


「とまあ、そういったわけでヒロインが平行世界に飛んでっちまったわけだ。しかも、主人公以外は誰もそのことに気付かないんだ。まるでそんな女性は最初からこの世にいなかったみたいに、忽然と消えちまってさ。だからこそ、主人公も後を追って平行世界に飛ぼうと試行錯誤するわけで──」


 先輩をここまで熱く語らせる本も珍しい。自然と目がそちらへ向いてしまう。

 見るからに重量感があり、持ち運びには不向きだろう。ページ数も多そうだ。見た感じで予想するなら五百ページ前後といったところか。


「俺はもう一気に読んじまったから、お前に貸してやるよ。ネタバレは読み終わるまで待ってやるから、早く読めよ? いつもみたいに感想を熱く語り合いたいんだからさ」


 本を俺の方へ押し、先輩は「じゃ俺、部活行くから。またな」と去っていった。

 いつもながら台風みたいな人だ。そこが魅力でもあるわけだが。


 渡された本を手に取って、目次を開いてみる。

 全十章という構成だが、プロローグとエピローグを合わせればもう二章増えることになる。ページ数は五百どころか六百に近かった。普段は文庫本を読んでいるから、観察眼が狂ったのかもしれないな。


 もう一枚めくると、扉ページに印刷されたタイトルが現れた。

 いかにもSFらしさを連想させる言葉が、こう記されている。


『パラレルパラドックス』

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