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五 進展

 それから、彼女は予告通り踊り場に現れた。

 昼や放課後といった時間の差はあるものの、ほぼ毎日欠かさず。

 たまに来ない日があると、悔しいが心がぐらついてしまう。どうしたのだろうとか、やはり俺とは住む世界が違うのだろうか、なんてことをぼんやり考える。


 学校に来ていることはわかっている。校内を歩いていれば後ろ姿くらいは見かけるし、もし休んでいたら校内にその話が広がっているはずだ。

 だからこそ、踊り場に来ない理由はなんだろうかと気になってしまう。


「ごめんね。昨日はどうしても外せない用事があって」


 名も知らぬ心のざわめきは、彼女の一言で吹き飛んだ。

 来ない理由は単純明快、忙しかっただけなのだ。来たくても来られなかった。そのことをすまなそうな表情で告げる彼女を見ていると、俺の悩みが酷く自己中心的に思えてしまう。


「……いいですよ、別に」


 気の利いたことも言えない俺に、彼女は明るく返してくれる。


「よかったあ。啓介くん、優しいね」


 どうしてそんな誤解を招くようなことを言うのだろう。女性に免疫がない俺をからかっているのだろうか。彼女の目的がわからない。


「あの、忙しいなら、どうしてここに来るんですか?」


 正直な疑問をぶつけてみた。

 これにどう返してくるのか見当もつかないが、何かがわかるかもしれない。


「うーん、そうだなあ……」


 途端に彼女は顎に指を当て、考えるような仕草を見せる。斜め上方に向けられた目線は何かを探しているようで、とても無防備だった。


「ここの居心地の良さを思い出しちゃったから、かな」

「はあ、そうですか」


 よくわからない答えだった。

 一人になりたければ他にいくらでも場所があるだろうに。ここには俺がいるのに、なぜ?

 肝心な質問をぶつけることはできなかった。


「もしかして、私がいたらお邪魔?」


 突然何を言い出すかと思って見てみれば、彼女の笑顔に寂しげな気配が滲んでいた。まるで何かを悟って諦めたかのような表情に心が痛む。

 違う。俺はただ、こんなところで時間を無駄にしていいのかと言いたかったんだ。俺なんかと一緒にいるより、もっと有意義なことをしていればいいのに。


「いえ、そんなことはないですけど……」

「そう? ならここにいてもいいよね?」


 さっきまでのしょんぼり顔が嘘のように、ぱっと明るくなる表情。

 なんだこれ。俺をからかってるのか?


 俺は何も言葉を返すことができず、こっそりと溜息をついてみるだけだった。

 何が楽しいのかいつもニコニコしている彼女と、何がなんだかわからずオドオドしている俺。二人の奇妙な会合は今日も続く。






「ねえ、啓介くん」


 彼女と会うようになって早一週間。なんの変哲もない木曜の放課後のこと。

 最近の平日は他の誰よりも、彼女と共に過ごす時間が多くなっている。


「なんですか?」

「この前わからないって言ってた数学のことだけど、私が使ってたノート持ってきたから、よかったら参考にして」

「ありがたく使わせていただきます!」


 それだけの時間が過ぎれば、さすがの俺でもそれなりに日常会話ができるようになっていた。

 とりあえず、以前のように言葉が詰まったり頭が真っ白になったりということはなくなった。


 女慣れをさせてくれた彼女には、一応感謝の気持ちを送っておく。

 直接伝えるのもなんだか変な気もするので、心の中で思うだけだが。


「あっ、もうこんな時間」


 そうして訪れた下校時間。今日もまたしばしの別れが訪れるのだろう。

 そう考えていた俺に向かい、彼女はなんでもないことのように告げた。


「今日、これから予定ある?」

「えっ?」


 その言葉が何を意味するのか、俺の中に潜むズレた思考が瞬時に答えを弾き出す。

 しかし、理性はそれを更に超える速度で否定をする。


「べ、別に、何もありませんけど……」


 けど、なんなのか。

 期待などしてはいけない。いくらそう言い聞かせても、胸の緊張は鎮まらない。

 そんなはずない。彼女が俺を誘うなんてことが。


「そっか。じゃあ、一緒に帰らない?」


 そんなはず……あった。

 これは現実なのか? 俺が女性から誘われるなんて何かの間違いか、それとも一生分の運を使い果たしたかの二者択一だ。

 今までそういうことに縁がなかったので、どうにも自信が持てない。しかし断るのも違う気がする。

 だってこんな機会、二度とないかもしれないから。


「──はい」


 それだけを言うので精一杯な俺。

 この一週間積み上げてきた経験と自信が、その一瞬で崩れ去っていた。俯いた顔が上げられない。


「決まりだね。荷物持ってくるから、先に靴履き替えてて」


 それだけを言い残して、彼女は去ってしまう。困惑した俺一人を放置したまま。

 ……どうしよう。

 今の俺、自分でもわかるくらい顔が赤くなってる。口の中が渇いて、頭の中は真っ白。どうして視線が泳いでいるのかもわからない。なんだか、最初の頃の俺が戻ってきたみたいだ。

 でも、それは違う。俺がこんな風になってしまう、その原因が異なるからだ。前はただ緊張していただけ。そして今は──。


 っと。こんなことをしている場合じゃない。早く校門へ行かないと。

 相手を待たせるなんてもってのほかだし、何かと話題になる彼女のことだ。他人の目も気にしなければならない。誰かに気付かれない内に、さっさと去らなければ。

 そうして俺は、改めて小池宏美という女性の特別性を認識し、ほんの僅かなためらいを振り払って下駄箱へと向かった。






 急いだおかげか、彼女を待たせるという失態は免れた。


「私は電車なんだけど、啓介くんも?」


 歩き始めてすぐ、彼女が訊ねてきた。

 そういえば、俺か彼女のどちらかが徒歩か自転車通学だったらどうするつもりだったんだろう。初手から詰んでるじゃないか。

 まあ、俺も電車通学だから結果的には何も問題ないわけだが。


「そうです。赤砥駅で乗り換えるんですけど」

「え、そうなの? じゃあ方向も一緒だね!」


 どうやら、今日の偶然は俺に味方しているらしい。これで電車が逆方向だったら、駅の改札をくぐった瞬間サヨウナラだ。


 本条高等学校の通学路は、住宅街に走るメインストリートになっている。

 車の往来は割と多く、駅までにある二箇所の交差点では、よく小規模な渋滞が発生している。更にその先には踏切まであるので、運転手のイライラは募るばかりだろう。


 学校を出て最初の交差点には、全国チェーンのコンビニがある。そんなところに店を構えていたらどうなるかは明白で、うちの生徒がよく利用するおかげで繁盛しているらしい。

 俺も時々そこで昼食用のパンとかを買ったりする。少しやんちゃな奴は、学校を抜け出して買い食いしているらしいが俺には関係のない話だ。


 学校の指導もあって、このコンビニは溜まり場となるまでには至っていない。

 だから、変な奴が店先で座りこんでパックジュースを気だるげに飲んでいることもない。俺と彼女の姿を見つけて、ねちっこく絡んでくる奴もいない。

 完全下校時刻には少しだけ早いこの時間。大抵の生徒は帰っているし、残っている生徒はギリギリまで粘っている。だからこそ、今は人の姿が少ないのかもしれない。


 歩いて七分ほどで駅に着く。

 最近改装工事を盛んに行っているようで、受験と入学の時とで改札の場所が違ったのには参った記憶がある。二年も通えば当然慣れてくるもので、今では余裕で新しい改札を学割定期で通過できる。


 ホームに入り、程なくやって来た赤砥行きの各駅停車に乗り込んだ。

 こちらは時間相応に人が多かったが、満員というわけでもない。座席が全部埋まっているくらいだ。


 手すりの近くに並んで立つ俺と彼女。こんな女性と一緒にいるなんて、周りからどんな目で見られているのか想像もできない。

 不自然だとか、摩訶不思議とか思われているんじゃないだろうか。


 現に、さっきから斜め前に座っている大学生風の男がチラチラと見てくるのだ。

 きっとあの脳内では下世話な妄想を膨らませているのだろう。残念ながら俺たちはそんな領域にまで達していないわけだが。


 あんなのを視界に入れても無意味なので、視線をなんとなく彼女に向ける。

 彼女に変なところなんてないよな……と確認するつもりだったのだが、予想外に目が合ってしまった。


「赤砥で乗り換えってことは、下野方向?」


 周囲に配慮してか、彼女の声も抑え気味だ。


「そうですよ。家は古桐にあります」

「古桐なんだ。あそこ下町っぽくてノンビリしたいいとこだよね。お祭りの時期には何度か行ったこともあるよ。私は中岩に住んでるんだけど──」


 さっきから俺たちの会話にやたらと固有名詞らしき言葉が並んでいるが、それは全部駅名だ。

 特に重要なことでもないので、そういう場所があるという程度に理解してくれればいい。


 それよりも、少し説明が必要なほどにややこしいのが、俺達が今向かっている「赤砥」という駅だ。

 こんがらがる前に、あらかじめ言っておかなければならないことがいくつかある。


 赤砥というのはこの辺りでは大きめの駅で特急も止まるし、始発列車も多く出ているし、いくつもの店が入った駅ビルらしきものもある。それはまず基本的な情報だ。

 そして何より、色々とめんどくさい場所でもある。

 まずはその読み方。「アカト」という至極単純な読みなのだが、初見の九割は自信が持てずに口ごもる。もしかしてという期待を込めて読んでみても、過半数は「アカド」と濁ってしまい脱落する。


 続いてが表記揺れだ。駅名は今まで説明したように「赤砥」なのだが、住所としては「赤戸」という字を使うのだ。たとえば「あの店はアカト三丁目にある」という場合は赤戸の字を当てる。

 なぜ二種類の表記法があるのかは俺が知るはずもないし、どうせ知ってもたいしたことない行政上の理由とかだろう。こういうのは、大体お役所のせいにしておけば間違いない。


 とにかく、「赤砥」と書いてあれば駅名で、「赤戸」とあれば地名を表しているんだなと受け取ってくれたらいい。どうせあまり重要な区画でもないのだから。

 本当に重要ならば駅前にバスロータリーを整備するだろうし、タクシープールも路上の一車線を占有しているなんてことにはならないはずだから。すぐ近くを太い国道が走っているのにもったいないことだ。


 ──と、地域非難をしていたら、電車は当の赤砥に到着していた。

 車内に流れるアナウンスが、これから車庫に入るから乗客はさっさと降りろという旨の言葉を告げている。


「私は次の電車を待たないといけないんだけど……」


 そう言いながら俺に続いてホームへ立った彼女は、少し考えてからとんでもないことを言い出した。


「ちょうど赤砥止まりに乗っちゃったし、ちょっと寄り道してこっか。確か改札出たところに喫茶店あったよね」

「えっ?」


 男女二人がお茶をするなんて、言い逃れできないほどにデートじゃないか。

 どう考えたってそれはまずい。女性と二人で食事だなんて、何をどうしたらいいのか見当もつかない。

「どうしたの? 早く行こうよ」


 彼女は早くも階段を下り始めている。

 そんなこと言われても、どうしたらいいのかわからない俺は棒立ちを続けるしかなかった。


「あっ、もしかして今月ピンチ? 大丈夫、私が出すから気にしないで」


 気にするに決まってるじゃないか。

 いくら向こうが年上だからって、女性に全額負担させるのは俺でもよろしくないと思う。


「そんな、お構いなく」


 何を構わなくていいのか自分でもわからぬまま、そんなことを言っていた。


「ほら、早く来ないと置いてっちゃうよ?」


 彼女は愉快そうに微笑みながら階段を下りていった。

 ホームのど真ん中に突っ立っていても邪魔になるだけなので、俺は仕方なくその後を追う。


 改札を抜けると、左右へ道が分かれている。左側へ向かえば駅ビル内部を探索することができるが、今はそちらに用がない。

 ようやく彼女に追いつき、二人で右側へと歩を進める。


 駅前の広場へと下りる階段手前にあるその喫茶店は、カウンターとテーブル合わせて二十人ほどが入れる広さだ。

 まあまあかな、と思えるくらいの混雑具合で、二名と伝えて通された席は都合良く壁際の目につきにくい場所だった。

 ろくにメニューも見ず、目立つように書かれた「本日のおすすめ」というブレンドコーヒーを注文する。彼女もそれに乗ってきたので二つ。


「ここ、前から来てみたいなーって思ってたんだ」

「そうなんですか」


 嬉しそうに店内を見渡す彼女と、謎めいた居心地の悪さを散らすように視線を泳がせる俺。

 初期のように不揃いな二人の姿は、カウンターに座るお一人様たちにはどう映っているのだろうか。


「啓介くんは喫茶店って好き?」

「ええ、まあ」


 日常会話ならできるという自信はどこへやら。

 あるかどうかもわからない周囲の視線に晒されて、すっかり縮こまってしまった。


「私は好きだよ。雰囲気のある喫茶店とか憧れちゃう。コーヒーメーカーみたいな機械を使うんじゃなくて、ちゃんとお湯から沸かして抽出するようなところだとポイント高いね。あとはマスターがヒゲを生やして蝶ネクタイ着けてたら最高」


 彼女の勢いは止まらない。

 自身の趣味にここまで熱中できるのは、ある意味才能と言えるのではないか。俺とは正反対のベクトルに圧倒され、適当な相槌を打つことしかできない。


「お待たせしました。ブレンドコーヒーでこざいます」


 運ばれてきたコーヒーに一旦彼女は言葉を止めたのだが、それをブラックのまま一口飲んだら情熱が再燃してしまったらしい。


「この味……やっぱりこんなところに店を出してるんじゃこの程度ね。路地裏の細道を抜けた先にある、一見さんお断りみたいなところじゃないと」


 俺も真似して飲んでみたのだが、どうにも苦味しか感じられない。そこに彼女の言う深味や情緒を見出すことはできなかった。

 適当に砂糖を入れて味を変えながら、彼女の話に耳を傾ける。


「──だから、きっと啓介くんの近所にもいい喫茶店はあると思うんだ」


 そう言ってようやく彼女が落ち着きを取り戻したところで、俺はこんなことを切り出してみた。


「あの、こんなところにいていいんですか?」


 彼女にも立場というものがある。俺なんかと一緒にいるところを誰かに見られたら問題だろう。


「んー……学校から離れてるし、いいんじゃないかな?」


 もの凄く楽天的な言葉だった。悪く言えば無責任。

 いくら離れてるとはいえ、この辺りは十分に通学範囲内だ。いつ誰の目に入るかわからない。こんな性格で大丈夫なのかと心配になる。

 それとも、こんなだから逆に人気者になれるのだろうか。


「それならいいんですけど……あの」

「前から気になってたんだけど」


 俺の言葉を遮って、彼女がずいっと顔を向けてきた。

 なんだかちょっと不機嫌な雰囲気を醸し出しているような気がする。


「啓介くんって、私のことをちゃんと呼ばないよね」


 ギクリとした。図星を突かれ、思わず体が強張ってしまう。


「あの、とか、えっと、とかさ。なんだかそれって寂しいよ。名前とまではいかなくても、せめて名字で呼んでほしいな」

「えっと、それは……」

「ここは学校じゃないんだし、変な気遣いとかしなくていいよ。普通に名字にさん付けで構わないからさ」


 そういうものなのだろうか。

 いくら学校を離れていても、相手の立場は変わらないし、俺が別段偉くなるわけでもないのに。

 けれど、そんな逃げ道も彼女の視線が塞いでしまう。

 どうやら、素直に従うしかないようだ。


「あの、それじゃ……小池、さん」

「ん、なあに?」


 ありったけの勇気を込めて呼んだのに、彼女の返事はひどく簡素だった。

 それが普通だとばかりの返事が少し悔しい。自然と続く言葉も弱気になる。


「俺なんかといて、退屈じゃないですか?」

「全然。なんで?」

「理由はないですけど……」

「もっと自信持ちなって。啓介くんって、きっと聞き上手なんだよ。色々と話してるけど、そうしてると私いつも楽しいもん」


 この言葉を素直に受け取るべきかどうか、答えを出すのは簡単だった。

 けれど、そうするのはなんだか恥ずかしい。


「そう、ですか」


 俺はまた、こんな気のない返事をしてしまうのだった。

 今日も部屋に帰ったらやり場のない気持ちを抱えたまま転がることになりそうだ。

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