四 再会(2)
翌日、俺は懲りずに踊り場へ入り浸っていた。
予期せぬ来訪者はいたが、そうそう好んで来ることもないだろう。
根拠ならある。一人になれるならともかく、ここには俺がいるのだから。他にも一人になれる場所はいくらだってあるのだから。昨日あんな風に逃げられて変な奴だと思われただろうから。
その予想は当たっていた。ホームルーム前の朝はもちろん、昼休み中も彼女は来なかった。だから、俺は彼女のことを忘れかけていた。
そうすると不思議なもので、予期せぬ事態が起こってしまうようだ。
放課後、やはり俺は日課として踊り場で音楽鑑賞を嗜んでいた。
今日のナンバーは重金属、つまりヘヴィメタルだ。ツインギターがそれぞれの役割を存分に発揮し、ベースがうねりながら基礎を支え、ドラムが激しく暴れまわる。
知識のない人が聞いたら騒音かと勘違いしそうなその音色を楽しんでいたせいで、俺は周囲の音に対して注意を払っていなかった。
加えて目を閉じて集中していたので、ふと目を開いたら密着するほど近くに彼女の顔があって、アニメのギャグキャラもびっくりなほどの勢いで後ずさりして顔をひきつらせてしまった。
まるで昨日の再現だった。そして、俺に学習能力がないことが明らかになった瞬間でもある。
「ふふっ、寝てるかと思っちゃった」
彼女がおかしそうに口元を押さえている姿に目を奪われながら、俺は震える手でイヤホンを外した。
どうしてだろう。彼女の声が聞きたいからイヤホンを外したのだろうか。今日は両方の耳にイヤホンが付いたままだったのに。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「え、えと」
彼女は質問しておきながら答えを期待している様子もなく、階段の縁に腰を下ろした。
「また来ちゃった。ここ、居心地がいいからね」
ちなみにそこは、さっきまで俺が座っていた場所である。
変に意識するようなことではないとわかっているのに、顔の熱は思い通りになってくれない。
「そんなとこにいないで、こっちおいでよ。今日は逃げないでくれると嬉しいな」
微笑みながら優しい言葉をかけてくれるが、なんだかそれに素直に従うのもこっぱずかしい。
でも、いつまでも不安定な格好でいるわけにもいかない。
そっぽを向きながら埃を払い、渋々といった体を装って彼女の隣に座る。
近過ぎる距離は苦手なので、もう一人くらいが間に座れるくらいのスペースを確保して。
「啓介くん、で合ってたよね」
たった一度、それも崩れた声で伝えただけなのに名前を覚えてくれていたことに感動した。まともに話すのが初めてなのに、名字ではなく名前で呼ばれたことも嬉しくなってしまう。
普段なら、そんな馴れ馴れしい態度は嫌なのに。
「あ、はい」
それでも俺の返事は相変わらず淡白だった。
「今日もここにいるんだね。この場所、好き?」
「ええ、まあ」
「そうなんだ。実はね、前は私もここによく来てたんだ。一人になりたい時とかね」
「へえ……」
そんな他愛のない会話。俺の答えは極端に短い単語がほとんどだったのに、彼女はしっかりとした文章で返してくれた。
それがなんだか申し訳なくて、情けなくて、俺はますます萎縮してしまう。
相手が年上で、なおかつ女性というのが一番の問題だった。
やはり俺は女性が苦手だと再認識させられる。これでも小学校の頃、クラスの女子に恋愛感情っぽいものを抱いていたことがあった。
あの頃は幼かったし、今も直っていない引っ込み思案もあって、俺はその子どころか他の女子とも、ろくに会話ができずにいた。
当然、クラスにはコミュニケーション能力に長けた奴がいて、そいつがその子と仲良くしているのを見ては何もできない自分が悔しくてイライラしていた。
そんな初恋は実るどころか芽吹くこともなく枯れ果てたわけだが、そういう経験があるってことは俺の恋愛対象は女だと言うだけの十分な根拠だろう。
そもそも俺も年頃の男らしい欲求はあるし、それなりの秘蔵ファイルは持っている。言うまでもないが、そこには女性の姿しかない。
女が好きだけど、女が苦手。完璧な八方塞がりの状況に置かれているのが俺だ。
そこから抜け出す唯一の手段は現実逃避。この踊り場でやっていることがいい例だ。
そんな俺にとって、今の状況はとんでもなく厳しい試練だということが理解してもらえるだろうか。
二人きりの空間で、年上の女性と並んで座っている。向こうが俺と会話をしようとしてくる。俺はそれに応じなければならない。
俺は間違いなく人生最大のピンチに直面している。
相手の顔なんて見れないし、でも視線は体の方に行ってしまい、変な所を見そうになって慌てて目を逸らす。
そんなことばかりしているから、俺は明らかに挙動不審な変質者になっている。通報されても文句は言えない。
「あ、そうだ」
彼女がはっとした顔になった。何か用事でも思い出したんだろうか。それなら早々に立ち去ってくれて構わない。むしろそうしてほしい。
「ごめん。私、まだ名乗ってなかったよね。えっと、三年二組で──」
と思っていたら、結論はそんなことだった。
確かに名乗っていないが、それでも問題はない。一方的ではあるが、俺は彼女のことを知っている。
「いえ、名前……知ってます」
三年二組の人気者といったら、たとえ学年が違っていても名前くらいは知っていてもおかしくないだろう。
新聞部の発行紙に「我が校期待の星!」なんて煽り文句と共に名前が載っていたこともあるし、一夜にして作り上げられたファンクラブが存在するなんて噂もあるくらいだ。
「あの、小池さん……ですよね」
小池宏美。それが彼女の名前だ。
俺ですら知っているのだから、校内の知名度は十割と言ってもいい。その辺にいる男子生徒を捕まえれば、誰もが知っていると答えるはずだ。
ミディアムカットで揃えられた髪が、小さな顔によく似合っている。柔らかな微笑みから逃げた俺の視線が辿り着いた体は歳相応に成長していて、とても直視できない。
なので、踊り場の隅へと目をやってしまうことにした。
「私のこと知ってるんだ? なんか嬉しいな」
横目でちらちらと見ていると、彼女の表情がころころと変わるのがわかった。
見ているだけで楽しくなるのが普通の感覚なんだろうけど、一秒以上の直視ができない俺にとっては毒にしかならない。
「えと、三年の教室にいるのを、前に見たことが……」
声だって途切れがちで、語尾がうやむやになっている。
顔は見れないし、だからって視線を落としたら胸とか腰とか太腿とかが見えてしまうので、目のやり場にも困る。
女性と話す時って、一体どこを見てたらいいんだ。
「なーんだ、見られてたんだ」
対する彼女は、やはり物怖じした様子もなく、ほとんど初対面の俺にも自然な声をかけてくれている。この差は一体なんなんだ。
「その時に私、何か変なこと言ったりしてなかった?」
「いや、別に……」
本当は、ただ通りかかった時に教室の中で喋っているのを見ただけなので、何を言っていたかなんて妄想で補完するしかなかった。
でも、彼女がヘマをやらかすなんてことはないだろうからそう答えた。
「啓介くんは、さ」
彼女が改まった口調になった。思わず俺も身構える。
「どうやってこの場所を見付けたの?」
まさに旬の話題だった。
今こそ俺が安住の地を見付けるに至った経緯を事細かく語る時だったのだが、思うように言葉が出てこない。
「あ、あの、色々と探して、それで……」
意味不明なほど簡略化された一部始終だったが、彼女は柔らかく微笑んでくれた。
「そっか。好奇心旺盛、なのかな」
不思議な言葉だった。
褒められているのだと気付くより先に、彼女が続ける。
「私の場合はね、ほんと偶然だったよ。こっちの方に用があって来た時に、階段の上から人が来るのを見ちゃったんだ。立ち入り禁止なのに、なんでだろうなーって気になってね。こっそり行ってみたらその理由がわかって、流れで居付いちゃった」
思い出話を楽しそうに語る彼女は、なんだか輝いて見えた。俺なんかとは違う世界にいる人なのに。俺なんかが近寄っちゃいけないような人なのに。
それなのに、なぜかその時だけは彼女がとても身近な存在に思えた。
まるでもっと昔から知り合っていた仲であるかのように。
「ここって、静かで落ち着けるもんね。私も毎日のように来てたなあ」
彼女はそう言って体を伸ばした。無防備に両手を上げるその姿に、俺はまたしても視線を逸らしてしまう。
だって、見方によっては脇が見えるような格好だったから。六月という半端な季節が生み出す夏服への衣替えが嬉しいような、恨めしいような。
「そう、ですか……」
表情筋が痙攣するような愛想笑いを俺が浮かべたせいか、会話がそこで途切れてしまった。彼女は踊り場に手をついて、体重を預けている。
とりあえず俺も同じ姿勢になってみよう。
そこで初めて、ずっと俺の背筋が丸まっていたことに気付いた。少し固まりかけているような気もする。緊張を解いて手をついたところで──床とは違う柔らかい感触があった。
なんだろうかと思って目を向けると、そこでは俺の指が彼女の手を侵略していた。俺の人差し指と中指が、彼女の手の甲へ無作法な接触をしている。
瞬間、真っ赤に色を変える俺の顔。
「あっ! す、すみません」
弾かれるように手をどけて、そのまま彼女から更に体一つ分離れた。
まずい。女性の手に触れるなんて、それこそ俺の知らない世界で行われるようなことじゃないか。
ああ、ダメだ。また変な汗が出てくる。
「ん、別にいいよ。そんな、大げさだってば」
年上の余裕だろうか。彼女は陽気に笑っているだけだった。やはりその笑顔が眩しくて、俺はまた小さく丸まってしまう。
彼女の言葉を思い出す。
前によく来ていた──過去系。つまり、今はもうここが必要ない人間になったということだ。
考えるまでもなく明らかなこと。そりゃそうだ。俺ですら顔と名前が一致するくらいの人気者なんだから、話し相手に困るはずがない。
彼女は一人ではない。俺とは違う。
きっと、今日ここに来たのだって特に意味はないんだ。なんとなく思い付いたから、というのが妥当だろう。
ここに来れば俺に会えるなんて、そんなことを考えてなどいない。
「あ、そろそろ行かないと。これからやることあるんだった」
休憩終わり、と付け足して彼女が立ち上がった。
スカートの裾からすらりと伸びた脚に目を奪われる。もちろん、一瞬しか見ることができないわけだが。
そんな俺の動揺を見透かしてか、微笑む彼女がとんでもないことを言い出した。
「ここに来ればいるんだよね? また話そうよ」
突然の申し出。
俺は言葉の出し方を忘れ、ただ頷くことしかできなかった。
「そっか、よかった。じゃ、またね」
手を振って去る若い女性を見送るなんて経験は、当然初めてのことだった。
俺にできるのは、ぎこちない動きで手を振ることだけだった。再開を誓う言葉すら出せない。
彼女の姿が見えなくなっても、すぐには体が本調子に戻ってくれなかった。
「──はぁ」
長い間まともな呼吸ができてなかったのか、とても深く溜息をついていた。
体中の力が一気に抜け、負荷をかけすぎていた関節が今になって鈍く痛む。
そしてまた、俺は彼女の残り香に悩まされるのだった。
それだけではなく、今日は声までも耳の奥で響いて離れようとしなかった。目を閉じれば、瞼の裏に彼女の姿が映し出される。
たった十数分のことだったのに、俺の中に彼女という存在が強く刻みつけられていた。
──とまあ、これが俺と彼女の出会いだ。
女友達ができたと喜ぶべきか、それとも俺の平穏な毎日を奪ったと嘆くべきか、その判断を当時の俺は下すことができなかった。
それは夏の気配が顔を覗かせ始めた頃のことだった。もちろん、この時は先のことなどまったく予想できていなかった。
約一ヶ月後、彼女はこの学校から姿を消してしまう。