三 再会(1)
そんなことがあった記憶すら数日であやふやになっていた。まさに、喉元過ぎればなんとやら、というやつだ。
あれ以来俺の踊り場生活は平穏が続いていたし、あんなイレギュラーは一度きりだろうと思っていた。
実際、その日以来目立った変化もなかった。あの女性が再び来るにしても、その理由が思い浮かばなかったし。
まあ、こんな風に語っているわけだから、文脈を汲めば今後の展開は簡単に推測できるだろう。
ご明察。俺に平穏なんて訪れなかったのだ。
その日は厳選したプレーヤーの曲を楽しみながら、この前図書館で借りた小説を読んでいた。
冒頭でいきなり主人公が殺人の罪を着せられ、濡れ衣を晴らそうと奮闘するのだが、最後に驚きのどんでん返しが待っているらしい。事前にネットでそこまでの情報は得ている。
オチがどうなるかは知らないので、純粋に物語を楽しめているのだが……これがなかなか面白い。
無実を証明しようと駆けずり回る主人公が、手がかりを得るたびに自分が殺したのだという証拠が固まっていく。これは罪から逃れたくて主人公が演技しているんじゃないかと思うくらいだ。
その予想こそが作者が仕組んだミスリードなのかもしれないと考えると、また捻った見方をしたくなる。しかしそれは……と考え直して深みにはまっているのが今の俺だ。
耳はイヤホンから流れるギターのアルペジオに聞き惚れ、目は小説の文を追い続けている。誰かが近付いてきても、気付かなくて当然だった。
本の文字に目を落としていた俺の視界に、明らかな異分子が入り込んできた。
白く弧を描く先端。目だけを動かして確認すれば、そこからすらりと黒い物が伸びている。
そこでようやく、それが靴とハイソックスに包まれた人の足だということに気付いた。それも女性。普通なら男がこんなもの履いてるはずがない。
「んなっ、あ、えと」
読みかけの本を勢いよく閉じ、そのまま俺は固まった。耳元で流れ続ける曲はサビに入っており、エアギターをしたくなるほどの盛り上がりになっている。
だが、もちろん俺にそんな余裕はない。
その人物は首を傾げ、微笑みながら目を合わせようとしてくる。逃げようとする俺の視線は瞬く間に絡め取られ、図らずも相手の顔をまじまじと見つめてしまう。
それでようやく気付いた。今俺を見下ろしているのは、この前ここに来たあの女性だということに。
なんだ、なんだこれ。なんでこんなところに来るんだよ。意味がわからない。
思わず後ずさりをする俺。その拍子にイヤホンの片方が外れた。モノラルになった曲はなんだかスカスカで、聞いているのが苦になってくる。俺は残ったイヤホンを自分で取り去った。
突然のことにどうしていいかわからずに硬直する俺と、興味津々といった様子で踊り場一帯に視線を泳がせている彼女。
イヤホンからこぼれる小さな騒音が、奇妙な対峙を彩っている。
やがて、彼女の視線が俺に固定された。
「キミ、どうしてこんなところにいるの?」
女性は相変わらずの表情でそんなことを訊いてきた。どうしてって落ち着くからだけど、そんなこと正直に言えるはずもない。
「いや……なんとなく」
寝起きの第一声みたいな掠れた声。カラッカラの喉では、これが精一杯だった。ぎこちないのは自分でもわかっている。
でも仕方ないじゃないか。
女性に耐性がないのに、こんなに接近されたらまともな精神状態じゃいられない。手と背中に変な汗が滲んでくるし、目は気持ち悪くなるくらい泳ぐし、喉の奥がきゅっと締まる感じがして苦しいし……どうにもならない。
「キミ、学年と名前は?」
「二年の、新山啓介……です」
出来損ないの声が、反射的に正直な受け答えをした。厳しい口調で訊ねられたわけでもないのに、俺の体は竦み上がっている。
「もうすぐ下校時間だよ? こんなところで一体何を──」
言いながらどんどん近付いてくる。距離が詰められるにつれて、なんだかいい匂いもしてきて、先日の記憶が蘇ってきて、顔が熱と共に赤く染まって、視界が霞みながら揺らいで──。
俺の脳はパンクした。
「し、失礼します!」
荷物を抱えて、俺は彼女の横を走り抜けた。その勢いを残したまま階段を駆け下りて、下駄箱で靴を履き換える。
そうしたらあとは駅に向かって猛ダッシュ。周囲の目なんて気にしていられない。
走り去る直前、彼女が何かを言っているような気がしたが、今ではそれも遥か遠くのできごと。
細く長く追ってくる芳香を振り払うように、俺はひたすら走り続けた。