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二 目撃

 二年に進学しても、俺は相変わらずその場所で適当に時間を潰していた。

 六月前半。この場所を見つけて一周年記念なんてこともせず、そんなことすら忘れていた、何も起こるはずがない平日のこと。


 その日は定期的な大掃除をすることになっており、生徒だけでなく教職員までもが一丸となって校内の清掃に励んでいた。

 自らの居場所を清潔にすることで精神を浄化しましょうとかなんとか、そんな理念があるらしいが正直どうでもいい。終業式前日というわけでもないのにご苦労なことだ。わざわざジャージに着替えるという手間もあるし。


 クラス内でもいくつかの持ち場が割り当てられ、俺たちの班が担当したのは、渡り廊下と体育館周りという隙間産業の極値みたいな場所だった。

 といっても、体育館が大きいのもあって掃除は存外大仕事になった。箒で掃けば砂埃が山のように集まるし、折れた枝や落ち葉といった校庭特有のゴミも多い。

 これで吸殻の一本でも出てきたら問題になったんだろうが、この学校とは無縁の長物である非行の証が現れることもなく、あってはならない物は特になかった。

 つまり、大きなイベントもなかったということだ。


 だから、俺も気を抜いて安心しきっていたのだろう。何も起こることなく不変の日々が続くはずだ、なんて根拠のない自信を持って。

 清掃を手早く終えて、俺はいつものように踊り場で読みかけの本を開いていた。

 他の場所ではまだ掃除が続いているらしく、何やら話し声が飛び交っている。うるさいというほどではなく、何を言っているのか聞き取れるギリギリといった程度だ。

 今日は掃除が終わり次第の自由下校となっているのだが、まだ他の奴らが掃除しているのを横目に帰るのはなんとなく気が引ける。

 そんな理由をつけて、俺はここで時間を潰すことにしたわけだ。


 どれくらい読み進めた頃だろうか。

 目が疲れたので本を閉じ、何気なく天井を見上げていた。いつの間にか校内のざわめきも小さくなっている。

 そろそろ帰るとするか。なんて考え始めた俺の耳に、不穏な音が聞こえてきた。


 安らいでいた気持ちが一気に緊張して収縮する。

 床と靴が触れる音。確実に近付いてきている。向かう先は……そう。ここに違いない。聞こえる音がそれを強く示していた。

 まさか、見回り? まだ下校時刻まで時間はある。抜き打ち検査ってやつだろうか。いや、今は大掃除の最中だから、ここを片付けに来た可能性も……。


 とにかくまずい。

 都合良く近くには段ボールの山がある。隠れるには絶好の場所と考え、裏側へ体を滑り込ませた。

 物陰から顔を出し、訪問者の姿を確認しようとする。教師か、生徒か、それとも用務員か。

 何をしにここへ来たのだろう。大きな不安の中に、わずかな興味があったのは否定できない。こんなところへ来る奴は、一体どんな顔をしているのか。


 カツン、と上履きが床を叩いた。俺はゆっくりと視線をそちらに向ける。

 見えたのは、本条高校指定のジャージだった。

 上下藍色で揃えられた、味気ない男女共通の体操服。けれど、体の線から来訪者が女性だということがわかる。平均的な身長だなと思いつつ、ふっくらとした部分につい目が引き寄せられる。控え目ではあるが嫌いじゃない。

 ……違う。今はそんなことを考えている場合ではない。どうしてこんな場所にそんな女性がいるんだ? あまりにも場違いではないか。


 いや、待てよ。確かあの人は。

 よく見れば、その顔には見覚えがあった。

 廊下ですれ違ったこともあるし、通りかかった三年二組の教室にいるのも見たことがある。その美貌も手伝って有名な人だから、俺でも名前くらいは知っている。


 しかし、だからといって疑問が解消されたわけではない。むしろ謎が増えて逆に混乱してしまう。

 何よりも一番の疑問は、あんな格好をしている理由だ。


 その女性が身に着けているジャージは、これでもかと言わんばかりに汚れが目立っている。何日もアイロン掛けをサボった結果みたいなシワがいくつも刻まれているし、散らかったカーペットの上でも転がったんじゃないかってくらい埃が付き放題だ。

 そんな奇妙な姿をした謎の女性。すぐに立ち去るかと思っていたが、なんと踊り場にしゃがんでいるではないか。まさか、このまま居座るつもりなのか?


 あ、床を指でなぞってる。その指先を見つめて顔をしかめる……って、こんな場面どこかのテレビドラマで見たことあるぞ。ナントカさんったら掃除が行き届いてないですね、ってやつ。

 彼女は立て掛けてある箒に迷わず手を伸ばし、床を掃き始めた。俺だって自分の場所を作るために最低限の掃除はしたつもりなのに、どうやらそれだけでは許せないらしい。せっせと踊り場を綺麗にしていく姿を見つめる。


 そうか。きっと彼女はここの掃除をするように言いつけられてきたんだろう。そうでもなければ、ここに来る理由なんてない。

 一人で、というのが気にはなるが、こんな狭いところに大勢を駆り出すこともないか。他にも掃除するところがたくさんあるからな。


 ……と、彼女が来た理由は想像できた。それはいい。

 当面の問題は、ここから俺はどうすればいいのかということだ。段ボールの向こう側では彼女が楽しそうに掃除を続けているし、その間ずっと俺は動けない。


 てか、見つかったらどうなる?

 どう考えたって気まずいに決まってる。

 それに、相手は女性だ。人と話すのなんて元々得意じゃないし、女相手なんて未知の領域だ。考えただけで変な汗が止まらない。


 ここだけの話、俺は女性と話すのが苦手だ。誤解される前に言っておくが、別に男色の趣味はない。ただ、俺の育った環境が特殊だっただけの話だ。

 俺の家系には若い女性がおらず、女慣れをすることができなかったのだ。

 ちなみに近しい親族で最年少の女性は母親の妹で、今年で四十七歳になる。春休みに会った時、その叔母はふくよかな体型になっていた。


 ただ女性というだけなら、身内にも豊富にいた。祖母も父方母方共に健在だし、父と母の姉妹もさっきの叔母以外に合わせて四人いる。

 だが、彼女らの子が皆揃って男なのだ。最近そんな従兄の一人が結婚して子供が生まれたが、やはりそれも男だった。


 さて、息子を立派に育て上げて人生の荒波を乗り越えてきた中高年のお姉さま方が集まって話すことといえば、海外ドラマかベテランバンドか温泉のことだと相場が決まっている。少なくとも俺の周囲ではそうだった。

 やたら大きな声で誰それのライブに行ってきた自慢話をしながら、その模様を収録したブルーレイを携帯プレーヤーで再生して実況する。海外俳優の名前が刻まれた携帯ストラップを揺らしながら、来るのが遅い息子に急げと電話する。

 これは親戚一同が家に集う正月の日常風景だ。


 俺の父親は末っ子なのだが同時に長男でもあるため、何かと集まる行事の時には我が家が選ばれてしまう。そうして似たような光景が繰り広げられるわけだ。

 一度火が付いた彼女たちを止めることは男の俺たちにできるはずもないので、そっとおせち料理を摘まんで自然鎮火を待っている。


 そんなわけで、俺の家系は何かの呪いでもかかってるんじゃないかってくらい華がない。もし俺に娘ができたら親戚一同で盛大なパーティーが開かれることだろう。

 まあ、そのためにはまず相手を見つけなければならないわけで、前提からして無理な話だ。女性関係なんてものとは無縁な生活を送ってきた俺だから言える。こんな男を貰ってくれる人はいないだろう。

 親に孫の顔を見せるのが最高の孝行だって言うけど、じゃあそれができない俺はなんなんだろう。今から暗いこと考えてるなんて、どうかしてるよな。


 こんな世界、消えちゃえばいいのに。


 ──って、何くだらないこと考えてるんだ俺は。

 俺が一人で無駄な脳内シミュレーションを繰り返している間に、彼女は掃除を終えていた。

 狭い場所だったし、床を掃くだけなら数分もあれば片付けられて当然だろう。段ボールにはノータッチだったのが幸いした。


 満足気に去っていく彼女の背中を秘かに見送って、ようやく狭い隙間から抜け出した。身を乗り出して階下を確認するが、もう誰の姿もそこにはない。ただ遠くから雑音に等しい話し声が届くくらいだ。

 それでようやく一人になれたことを確信し、踊り場に腰を下ろした。深く溜息をつき、その勢いで深呼吸をする。騒いだ心を落ち着けるにはこれが一番だ。


 ──いい香りがした。


 落ち着いてなんかいられなかった。

 香水の種類には疎いので詳しくはわからないが、おそらく何かの花をイメージして作られた香りなのだろう。発生源は明らかにさっきまでここにいた彼女だ。


 つい、また深呼吸を繰り返してしまう。

 鼻孔を貫く芳香は、親戚のおばさん達が放つ形容しがたい匂いとは異なっていた。今まで嗅いだこともないようないい香りだ。

 それに気付くと、なんだか急に照れ臭くなって──俺は荷物を掻き集めてその場から走り去ってしまったのだった。

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