十七 再会(1)
数週間前にも訪れた、彼女の姿を目撃した大学。
そこへ向かう途中にある公園は、子供たちの遊び場という役割の他にも、学生たちの通路という一面もある。俺も以前ここへ来た時は公園の真ん中を突っ切らせてもらったように。
その時には落ち着いて見ることができなかったが、隅の方に目を向ければ芝生が広がっていた。
様々な花が咲き乱れた一角もあり、夏の花はアジサイとヒマワリくらいしか知らない俺でも思わず近寄ってみたくなる。
ちょうど木陰に位置するベンチに腰掛け、都会の中にある自然に目を奪われる。
夏の午後は容赦ない日差しを繰り出しているが、そこから逃げてじっとしていれば時折吹く微風が心地良い。普段は耳障りなセミの鳴き声も今は交響曲にさえ思える。
何人かの幼児が草むらを駆け抜けている。我が子の勝手な行動を咎める母親の声。
カメラワークを駆使して、麦藁帽子が風に飛ばされる瞬間を捉えたら絵になることだろう。
使い古された表現かもしれないけどな。
「啓介くん。久しぶり」
そのドラマのような一場面を切り開き、聞き慣れた声と共に彼女が姿を現した。
鼓膜を揺らす心地良い振動が、俺の心を痛めつける。
俺が対峙する彼女は、紛れもない本物だ。
「二か月ぶりくらいですね。そっちはもう落ち着きましたか?」
平静を装えているかは不安だったが、逃げる考えは不思議と浮かんでこなかった。
ベンチから立ち上がり、ただ真っ直ぐに彼女──小池宏美の視線を受け止めることができた。
「まあね。やることは全部済ませたし、あとは結果を待つだけだよ」
「手応えはありそうですか?」
「うーん、どうだろう。少なくとも、私の全力はつぎ込んだよ」
彼女もまた、すべてを片付けてここに来たのだ。
それならば、やはり俺も真剣に向き合わなければならないだろう。
「ごめんね。こんなところまで来てもらっちゃって」
「いえ、いいんです。俺だって、小池さんに時間作ってもらっちゃったから」
「啓介くんが連絡くれたんだもん。予定くらい調節するよ」
なんと光栄な言葉だろう。これではまるで、彼女も俺と会いたがっていたみたいじゃないか。
「それで、話って何かな?」
「えっと、その前に……座りませんか?」
さっきまで座っていたベンチを彼女に勧める。
二人で座るのが精一杯なほど狭いベンチ。それでも彼女は嫌な顔一つせず隣に腰を下ろしてくれた。あらかじめ汚れを払っておいた甲斐があった。
以前ここを通り過ぎた時には、まさか今こうしているなんてこと思いもしなかった。
夏休みのど真ん中、惰性の大学見学へ向かう途中では湧き出る噴水に歓喜の雄叫びを上げる子供たちが大勢見られた。
それが今では、空間にぽっかりと穴があいたような静けさが満ちている。
今日は噴水を止めているようなのだ。
少し目を遠くにやれば、彼女の姿を追った大学がある。
思えば、そこで彼女を見てしまったから、俺は今ここにいるのだろう。人生の分岐点があそこにある。
「八月も終わりなのに、まだ暑いね。いつまでこんな陽気なんだろう」
なんでもないことを言って、彼女が牽制球を投げてくる。
その淡い笑顔の裏には、きっとすべてを見通す鋭さを隠している。俺の話そうとしていることもお見通しだろう。
だけど、いや──だからこそ、俺は話さなければならない。
様々な理由を作って逃げてきた、自分の気持ちを。
周囲には人目が少ない。走りまわる子供たちは俺らに目もくれず騒いでいるし、その保護者たちはママ友会議に花を咲かせている。
静けさとは程遠く、これから初めようとする話には似合わない。
だが、それが逆に俺らしくあるような気もする。日々を適当に過ごしてきたツケなのかもしれない。
「──小池さん」
「ん、なあに?」
浮かべる笑みは崩れない。
これが年上の余裕というやつだろうか。たった数年の違いがここまで大きくなるなんて。
「あの、俺……」
あれほど意気込んでいた俺の勢いはどこへやら。
威勢を張ったはいいものの、直面してしまうと動きが鈍る。喉は勝手に締まって声帯を塞ぎ、背筋に不快な緊張と汗が走り抜ける。
口の中が一気に渇き、錆びついたブレーキみたいな出来損ないの声しか出ない。
悔しいやら情けないやらで、瞼を強く閉じる。
必ず伝えるという決意を胸に、こうして彼女のところへ来たというのに。
セミの鳴き声がうるさい。騒ぐ子供たちがやかましい。何にウケたか不明な井戸端会議の甲高い笑い声がかしましい。
そうだ。あいつらが邪魔するから何も言えなくなってしまったんだ。
もっと静かな、落ち着いた場所なら言葉が出てくるはずだ。誰の目も届かない、俺だけの閉じた場所なら。
「啓介くん。どうしたの、難しい顔して」
優しい声に、ゆっくりと両目を開く。
照り返しを放つ芝生の緑が目に痛い。眩しさに目を細めながら顔を上げると、彼女が困ったように微笑んでいる。
「はっきり言ってくれないと、私も答えられないよ?」
その目は、俺が何を言おうとしているのか理解していると言っていた。
気のせいかもしれない。だが、俺にはそう思えた。
わかっているから、ちゃんと聞くから、言葉にしてくれと訴えているようだった。
「その、いきなりこんなこと言われて驚くかもしれませんけど……」
今はもう、ここが二人だけの世界だ。
彼女がいてくれれば、俺は逃げずにいられる。
「どんなことで驚かせてくれるのかな?」
「俺、小池さんのことが」
あと一歩。たった二文字でいいんだ。
俺が彼女をどう想っているのか、それを表す明確な言葉を。
「私のことが?」
ああ、やはり彼女は優しい人だ。
俺の途切れがちな言葉を急かさずに、ゆっくりと次を促してくれる。
そのおかげで、十分に間を取っても沈黙が苦ではない。
これなら言える。俺が初めて本気になれた、この熱い気持ちを彼女へ。
「──好き、なんです」
俺はそう言った。
だが、彼女にそう聞こえたかはわからない。
自分でしっかり言えたつもりでも、それは幻で実際は掠れた呟きになっているかもしれない。
彼女の表情は窺えないが、俺の顔をじっと見つめていることはわかる。
ついさっきまで耐えられた無言の時が重く感じられ、俺は自分でもわからぬままに口を動かしていた。一度踏み出してしまうと、止まらなくなってしまうようだ。
「初めて会った時はびっくりしました。でも、毎日のように会って話をしていくうちに、俺でも女性と会話できるんだって嬉しくなったんです。小池さんにとってはなんでもなかったかもしれませんが、俺にとっては大事件でした。その時にはもう、小池さんのことを意識するようになってました。その後も一緒に帰ろうって誘われたり、休みの日に遊んだりして……」
言葉と共に蘇る彼女との日々。
何がきっかけでも構わない。過程と結果が重要なんだ。
「本当は、あの時に告白しようって考えてたんです。でも言えなくて、そうしたら小池さんはいなくなっちゃいました。そうなることがわかってたのに、それでも言えなかったんです。あの時の俺は」
「それは、私のことを考えてためらったの?」
声色が読み取れない。純粋な疑問にも、俺を試しているようにも思える。
だから、正直な気持ちをぶつけるしかない。元より嘘偽りを述べる気もない。周囲の騒音も今では耳に入らない。
「それがなかったとは言いきれません。でも、今ならもう何も問題はないはずです。だから自分の気持ちを伝えることにしたんです」
「でも私は──」
何か言おうとする彼女を遮り、俺は決定的な一言を告げる。
「小池さんがどんな人でも好きなんです! それがたとえ教育実習生と生徒って関係でも、俺はこの気持ちを捨てたくなんてない!」
この夏、自分の母校へ教育実習をするため戻ってきた五歳年上の大先輩──小池宏美に、俺は想いのすべてを打ち明けた。




