十五 渇望(1)
八月も中盤に差し掛かり、暑さはますますその勢力を強めている。
ニュースによれば暑さの代名詞とも言える地区が、またしても歴代最高気温を更新したらしい。体温以上なんですよ、とキャスターが鼻息を荒くしていた。
そんな暑苦しさ満載の光景を、俺は冷房で快適になった居間で眺めていた。
時刻は朝八時、父親が出勤して暇になった母親と朝食を共にしている。
適度に焼いた四枚切りの厚いトーストにクリームチーズを塗ってかぶりつく。たったそれだけの単純なトッピングでも、なかなかどうして侮れない。
サックリとした食感の奥から、クリームチーズの柔らかくも芳醇な味わいが染み出してくる。パン派ご飯派が争う理由がなんとなくわかった気がした。
ちなみに俺はどうでもいい派だ。
あれ以来、彼女の姿に悩まされることもなくなった。対処法なら知っていたし、数日もすれば単なる記憶として片付けられた。
よく考えたら気に病むようなことじゃないしな。ただそれらしい姿を見たってだけなんだから。
それでも、あれは確実に小池宏美本人だったという確信もあるのだが──。
いや、やめておこう。
それより今はやるべきことがある。そろそろ宿題を済ませないと泣きを見ることになりそうだからな。
少しずつ片付けてはいたのだが、どうやらペースが遅すぎたらしい。ここらで一気に蹴散らしておくべきだ。
部屋へ戻り、今日の敵を再確認する作業に移る。
獲物は英語の課題。教師お手製のプリント数枚と、教科書と一緒に買わされた問題集の半分程度。いまいち英語に得意なイメージが持てないので、つい後回しになってしまったわけだ。
そうして一念発起した俺は英語に立ち向かおうとしたのだが。
「……ない」
机や鞄のどこを探しても見当たらない。
それどころか、英語という教科に関する一式がないのである。もちろん誰かに貸した記憶もないし、こんなものを盗む人間はいないだろう。
そうなると、考えられる可能性は一つ。学校に置いたままだということだ。
置き勉派の俺は、夏休み前に少しずつ必要な物を持ち帰るようにしていたはずなのだが、どうやら凡ミスをやらかしてしまったらしい。
考えてみれば、ロッカーに入れたままだったような気がする。
出鼻をくじかれた形になるが、自分のミスなので鬱憤を晴らす相手がいない。自分を殴っても痛いだけだし、ここは面倒だが取りに行かなければならないだろう。
我が校には登校日という制度もないので、俺の自主性が試されるというわけだ。
休み明けと宿題の提出までに時間差があることを利用する手もあるが、それはなんだか必死さが滲み出てるのでいただけない。そんな小細工は中学生で卒業するものだ。
そうと決まったら早めに行かないと。午前は別の課題をやるとして、午後にでも行くか。ずっと冷房の部屋にいたら体壊しちゃうからな。
あ、学校行くから制服着なきゃいけないのか。面倒だなあ……。
他に手段もないし、着るけど。
そして午後、俺は言葉通りに高校の門をくぐっていた。
部活で登校している生徒がそれなりにいるようで、グラウンドから威勢のいい声が飛んでくる。セミの鳴き声と混ざり合い、まさに夏の風物詩って感じだ。
およそ一か月ぶりの校舎だが、特に懐かしいという気分にはならない。
当然か。学校が恋しくなったら、それはもう一種の病気じゃないだろうか。
別に嫌いというわけではないが、俺は自分の部屋で適当に過ごしている時間の方が好きだ。
そういった意味でも、踊り場は学校にある安らぎの場所として役立っていた。誰にも邪魔されない自分だけの聖域が、俺の健全な学校生活を助けていた。
時にそこでは彼女との会話に花を咲かせることもあったわけだが……。
いけない。また思い出してしまった。
やはり完全に忘れるなんて無理ってことか。これでは、いい思い出に変えることもできないんだろうな。
ではどうすればいいか、なんて問われると答えに詰まる。決定的な一歩が踏み出せない。
教室へと向かう階段には、外の喧騒があまり届かない。
俺の足音だけが響き、それは時折ゴム底が擦れる高い音へと変わる。窓から差し込む日光が漂う埃を照らす。
なんとなくそこを通る時は呼吸を止めたくなるけど無意味な抵抗だ。
去年の夏はこんなつまらないミスをしなかったから、人の気配がない校舎を歩くのは初めての経験だ。
朝早い時間も静かだと思われるかもしれないが、教師や用務員が色々と作業をしているせいか、意外とそれなりのざわめきが飛び交っている。そんな雰囲気も悪くはないけどな。
教室が見えてきた。扉は前後共に閉まっている。
一人くらいは中にいるかと思って覗いてみるが誰もいない。荷物や着替えなどが置かれている机があるが、あれはきっと部活に来ている生徒が置いていった物だろう。
多少不用心ではあるが、男が脱いだシャツをどうにかする人間はこの学校にいないと信じたい。
人目につかない教室といえば、パカップルがイチャイチャしてるくらいのイベントはあってもよさそうだが、現実的には無理な話らしい。
実際そんな場面に遭遇したら俺は逃げる自信がある。そういうことする奴らは変に自意識過剰だから、見つかったら因縁をつけられるに決まってる。触らぬ神に祟りなしってやつだ。
同じく誰もいない廊下へと視線を戻し、教室の壁沿いに備え付けられているロッカーへと向かう。
出席番号順に割り振られたそれには施錠機能がなく、生徒が自分で南京錠なりダイヤル錠なりを買ってきて付けなければならない。
経費削減なのか自主性尊重なのか知らないが、何かと面倒なロッカーなわけだ。
ただし、律儀に施錠している奴はあまりいない。俺のクラスだと二十人くらいか。
多いと感じるかもしれないが、その半数近くが鍵を付けっぱなしだったり解錠番号のまま放置していたりと管理がずさんである。それでも今のところ盗難は発生していないようだ。
俺も最初の頃は鍵を買おうかと思ったが、別に財布や携帯とか貴重品を入れるわけではないので妥協した。
結果的にそれは数百円の得になったわけだ。
ロッカーを開けると、すぐに目的の本たちが出迎えてくれた。
あまりにも簡単過ぎて、ないぞないぞと多少は探すだろうなと覚悟してきた俺の決意をどうにかしてほしい。
とりあえず鞄に詰め込んで、これからどうしようかと考える。時間にしてまだ五分もたってない。
たったそれだけのために来たのかと思うと、今になってだるさが顔を出してきた。
このまま帰っても損した気がするので、とりあえず校舎を歩き回ってみることにする。
ついでとばかりに隣の教室を覗いてみるが、同じくもぬけの殻だった。むしろ誰かいる方が異常ってことか。どうせ人がいても声なんてかけられないし。
「……それってさぁ、あの……だよね」
適当にうろついていたら、どこからか話し声が聞こえてきた。
なんとなく足がそちらへと向かう。この先にあるのは和室だ。学年教室の真正面という変な位置にありながら、通常の授業ではまったく使われない謎の部屋。
そこから女子たちの澄んだ声がこぼれていた。
そっか。ここでも部活やってるんだな。
華道部か茶道部あたりが青春を謳歌しているんだろう。いい時間だし、おやつでも食べてるのかもしれない。
女子ってどんなことを話すものなんだろうか。声は聞こえるけど、会話の内容まではわからないんだよな。
ちょっと聞き耳でも立ててみようか。
「昨日も……あたしがさ、言ったわけよ……」
「えーっ、キツいなあ……けどさ」
「まあ、今考えるとさ……何やってんだろうって」
──ホントだよ。何やってんだ俺。
誰もいないからいいものの、目撃でもされたらこの学校にいられなくなるぞ。
それに、話の詳細を知ったところで一体どうなる?
急に気分が冷めてしまった。
扉の向こうで談笑を続ける部員たちに、ご苦労さまと心の中でつぶやいてから俺はその場を離れ、再びあてのない歩みに没頭した。
その道中で化学室や家庭科室の前を通ったが、例外なく楽しそうな声がする。
なんだこれ。夏休みの学校ってこんなに賑やかだったのかよ。
まるで知らない世界に迷い込んだみたいだ。こんな新発見したくなかったぞ。
自然と足がいつもの方向へと動いていた。この学校で唯一安らげる、あの踊り場へ。
薄暗い足場でも難なく歩けるほどに慣れた階段を踏みしめ、見上げる先に待つ変わらぬ場所を目指す。それなりに整えられた段ボールと、人の立ち入った形跡がない床が懐かしい。
指先で軽く撫で、ゆっくりと腰を下ろした。
以前なら本や音楽に没頭していたのだが、今は何をするでもなく視線を宙に投げていた。
さっきまで鼓膜に張り付いていた楽しげな声は消え、変わって普段よりも強い静寂が耳を鳴らす。
前触れもなく日々の記憶が浮かんできた。
彼女と出会った時から、一つの区切りを迎えるまで。目を閉じなくても、それらは明確な形を持って脳裏を飛び交う。
たとえばそれは、最近の流行曲をどこかで聞いた後、頭の中で勝手にサビが再生される現象に似ている。
そして同時に浮かぶのは後悔の念。
あの時ああしていれば違う結果になったかもしれない。そこで行動を起こしていれば──記憶の数と同じだけ、悔やんでは無駄だと気付かされる。
そのすべてが叶うことなどない。過去を変えるなんて不可能なんだから。
それこそ、平行世界に飛ぶなんて芸当をしない限りは。




