十三 消失(2)
翌日から始まる週末の土曜、俺は部屋にこもって読書に明け暮れていた。読んでいるのは先輩から借りて中途半端に積んでいた例の本だ。
平行世界を扱っており、特殊な装置を使って世界を渡り歩く本格SF。それでいて自身の抱えた想いに苦悩する姿は生々しく、恋愛小説としての一面も兼ね備えている一冊だ。
平行世界。そんなものが現実にあるはずない、普通の精神なら信じるどころかそれ以前の問題だ。
けれど、彼女の消え方はこの話に出てくるケースとほぼ一致している。違うのは俺の恋人じゃないことくらいか。
──恋人。
俺は、彼女にとってどんな存在だったのだろう。どうして彼女は俺とあの踊り場で一緒にいてくれたのだろう。六月最後の日、俺と遊び歩いたのはどうしてだろう。
答えなんて出ない。わかりきったことなのに、俺は無意味な思考を止められない。
誰かと遊ぶ予定も宿題もない俺には、時間は掃いて捨てるほどある。週末をまるごと読書に費やすのも悪くない。
昨日先輩が早く読めと催促してきたことだし、俺も話の先が気になり始めてきた。
俺は何かの救いを求めるようにページをめくり続けた。
移り変わっていく小説の場面は、ヒロインが姿を消してしまう序盤の山場に差し掛かっている。ようやく取り付けたデートを満喫し、別れ際に想いを伝えようと主人公が苦悩している。
読んでいる俺にはヒロインが主人公に好意を抱いていることがわかっているのだが、当の本人はそれを知らずにウジウジと御託を並べて逃げてしまう。俺にも思い当たる節があるからよくわかる。
そう。よくわかるのだ。
ここまで読み進めてみると、不思議な偶然として片付けるわけにもいかなくなる。この一か月で俺の身に起こった出来事と、物語の主人公の行動に似通った点が多過ぎる。
踊り場で出会ったとか、積極的にリードされるうちに意識し始めたとか、デートプランに苦心したりとか、挙げ始めればきりがない。
主人公は結局ヒロインに好意を打ち明けられず、その日は別れてしまう。後悔しながら登校した翌日、彼はヒロインが消失してしまったことを知る。
その一部始終までも、俺の顛末とそっくりだった。
そして日曜の夕方。俺は先輩に借りた本、パラレルパラドックス五八二ページを読破した。
何度か休憩を挟んで息抜きをしながらだったが、読み進めるうちに内容の濃さに引き込まれてしまい、先が気になってたまらなくなったのだ。
大筋の内容は既に映画で見たものと同じだった。
ただ、ヒロインが平行世界へ行ってしまった理由や、物語の結末など細部が映像での表現に合わせて変えられていた。それがどんなものだったかというと──。
いや、止めておくか。
どうせ感想文が苦手な俺が説明しても、小説ならではの臨場感や心理描写の深さを伝えられないだろう。せっかくの感動を自分の手で壊す理由などない。
こうして読み終わったことだし、今は物事を整理しよう。本の内容もそうだが、消えてしまった彼女のことも。
まずは、小池宏美という女性についてだ。
出会う以前から何度か姿を見たり噂を耳にしたりというのは、前に語った通り何度かあった。
そんな手の届かない向こう側の存在だったはずの彼女は、あの日俺の前へと現れた。彼女が奇妙な姿をしていた時は俺が隠れていたから、本格的な対面はその次だ。
不意打ちにも似たあの瞬間は、今でも強く記憶に刻みつけられている。決して幻なんかじゃない。
小池宏美という女生徒が、かつて本条高等学校に在籍していたのは間違いない。
しかし、先日三年二組へ行った時に再確認したように、彼女の名前はどこにもなかった。
教室へお邪魔したついでに机の数も数えてみたが、生徒数に対して多かったり少なかったりもしていなかった。そもそも不自然な空席があれば嫌でも誰かが気付くだろう。
そして、彼女が消えたことを誰一人として不思議に思っていない。
先輩と話したあの時、多少は話題に出ても良かったのではないかと思うが、それさえもなかった。
まるで、小池宏美という女性など最初から存在しなかったかのように。少し薄情ではないかとさえ思う。
けれど、それも仕方ないことなのかもしれない。結局は俺一人が慌てふためいて騒いでいるだけなのだから。
確かなことは、小池宏美という女性は俺の前から消えてしまったということだけ。
携帯電話を見る。数度の操作で彼女の連絡先を呼び出す。デートの約束を取り付けた時、メールアドレスと一緒に交換した番号。
この番号を呼び出してみたら、どうなるのだろうか。頭の奥では制止する声が響いているのに、俺の指は勝手に発信ボタンを押していた。
味気ない呼び出し音が鳴り続く。
生唾を飲み込みながら無機質な音を聞き続け、やがてそれが途切れた。わずかな間を挟んで声が届く。
「お客様のおかけになった電話──」
機械音声を最後まで聞くことなく電話を切った。
そのまま携帯の電源も落とし、俺はベッドに倒れ込む。
なんだか、今までの人生で一番疲れた。
単に動き回って疲労したというのではなく、体の奥底から燃料を抜き取られてしまったような気分だ。
空腹に胃袋が悲鳴をあげており、こんな時にも衰えない食欲が憎らしい。
そろそろ夕食ができたと親が呼びに来る頃か。形だけでも食卓に向かわなくては。
でも、今はもう少しだけこのままでいたい。
親の声で制限時間の終わりが告げられるまでに、不自然な様子がないように顔色を作らなければならない。こんなことで悩んでいる姿を親に見せたら何を言われるかわからない。
なんで、どうして、なぜ。
疑問符ばかりが思考回路を埋め尽くし、存在しない答えを求めて迷い続けていた。
週明けの月曜日、先輩に本を返すことになった。
昨日のうちに読み終わったことをメールしたら、早速語り合おうとイキイキした返事が来たのである。
「おっ、ちょうどここ空いてるじゃん。端っこの方だし、じっくり語れそうだな」
昼時の食堂は混雑しているので、俺は今までほとんど利用してこなかった。わざわざ来なくても教室で親が作ってくれた弁当を食べればいいだけの話だ。
それなのに俺がここにいる理由は、先輩がこの場所と時間を指定したからだ。
食事しながら喋るのはあまり得意ではないのだが、どうせ向こうから一方的に語りたいだけなので妥協する。
「やっぱりさ、起承転結の中にもう一個小さな起承転結がある構成がいいよな。単なる一本線の話じゃないってとこに作者の筆力を感じるよ」
どこかで買ってきたであろうカレーパンをかじりながら、早くも先輩は評論家気取りの意見を述べていた。
俺も同じような感想を持っているのだが、変に水を差すと不機嫌になる可能性があるので、意見を求められるまで適当な相槌を打って相手の話を促すことにした。
「それもしっかり区切りをつけて、前半と後半の両方に仕掛けてるんだもんな。簡単そうに見えるけど、緻密なプロットが必要不可欠だと思うよ」
そうですね、とほうれんそうのソテーを食べながら頷いておく。
前半というのは主人公がヒロインと出会い、色々と仲を深め合うイベントをこなし、それでも決定的な一歩を踏み出すことができず、突如ヒロインが消えてしまい失望するまでの起承転結のことか。
素人目の判断だが、主人公の成長具合と心情の揺れ動きがよくわかった。
一連の展開は王道を外れないものだが、だからこそ出てくる面白さもあったように思う。素材をうまく料理したって感じだな。
中盤は物語の根幹に関わる展開が待っている。失意の底へと沈んだ主人公は、あてもなく街を歩いていた。
すると、ヒロインに瓜二つの女性を見つける。まさかそんなはずは、と思いながらも後を追うのだが、曲がり角で見失ってしまう。
その後も時と場所を変えて何度か同じようなことが起こり、ヒロインに会いたいという欲望を募らせていく。
結末としては、主人公とヒロインが再会して共に暮らしていくという普遍的なものだ。
しかし、そこに至るまでには紆余曲折が多い。中盤の終わりに決意した主人公は準備を整えて平行世界へ飛び、終盤の初めであっけなくヒロインと再会を果たす。
だが、そこからがまた一波乱あって飽きさせない。
幻影を見たことをヒロインに話すと、それは元々その世界にいた自分なのだと言う。異分子であるヒロインが平行世界に移動したから、元来あるべきはずだった存在が出てきたということらしい。
世界の均衡を保つために働く自衛機能がそうさせるとか、そんな感じの設定だった。
その面倒な法則のせいで、二人は更に別の平行世界へ飛ばなければならなくなる。
一緒にいたいという願いは共に持っている。しかし元の世界へ連れ帰るのも、このまま留まるのも、元々その世界にいない存在といる存在が交わることになってしまう。
そうなれば、世界の自衛機能によって二人とも存在を消されてしまうらしい。
それならば、元々二人が存在しない新たな世界へ行けば解決するのではないか。そう考えた二人は、理想の世界を求めて時空旅行へ踏み出すことを決めたのだった。
いつ終わるかもわからないが、手を取り合って進めれば挫けることはない。
かなり大雑把だが、パラレルパラドックスという小説はそんな流れの話だった。
映画版もそのストーリーに沿った構成になっており、ヒロインの心情や裏舞台を補完するようなエピソードが要所に差し込まれていた。
あの映画を見たのが、かなり前のように思えてくる。
まだ十日も経過していないというのに。
あの楽しかった一日は、もう戻ってこない。これからもきっと同じような日はやってこない。
いけない。また彼女との記憶を反芻してしまう。
抑えつければ、それだけ反動が強くなるのは明らかなのに。
思考を強引に切り替える。
あの本はSFという一見取っ付きにくいテーマを扱っているが、難解な説明はわかりやすいように噛み砕かれている。文系気味を自称する俺でも世界観や設定が理解できるくらいだ。
文のテンポが良い上にスラスラと読める文体もあって、量のある長編なのに読むのが苦ではなかった。
それでも集中力が続かずに気分転換した時もあったが、それは俺自身の問題だから作品がどうのということではない。
「この主人公はさ、自分の意思をはっきり持ってる奴でいいよな。好感持てる。啓介、お前はどう思った?」
ようやく先輩の話に区切りがついたようだ。
おそらくこの質問も形式的なもので、少しの言葉を繋ぐだけで再び一人討論が始まるのだろう。
俺も自分のことを考えていたからお互い様なわけだが。
「そうですね。ヘタレキャラよりもいいと思います」
「だろ? そういうのを否定する気はないけど、こっちの方が読んでて楽しいよな」
カレーパンを食べ終え、続けてジャムパンを美味しそうに頬張りながら先輩が続ける。
「あのラストもな、きっと賛否両論あるだろう。だけど俺はあれでいいと思ってる。続編が書けなくもない終わり方だが、逆にあの続きが出たとしたら……なんつーか、カタルシスが吹っ飛びそうなんだよな。わかるだろ?」
「なんとなくわかります」
物語の最後、主人公とヒロインは二人で未来を決めた。
そこで綺麗に終わるからこそ、変な引き延ばしもなくなって、スッキリした終わり方になっていた。
ある程度予想できる結末ではあったが、だからこそ心の中にストンと落ち着いたのだと思う。
「とりあえず、これはハズレじゃなかったな。読む価値のある本だ」
先輩にとってはそうなのだろう。
だが、俺にとってはどうだろうか。何かヒントらしきものでも得られたらと思って読んだのだが、なんだか余計に頭の中がこんがらがった気がする。
どうせ似てる所が多いなら、俺もこの主人公みたいにハッキリした人間になれればいいんだが。
帰ったら、また考え直してみるか……。
「はあ……ってか、もうすぐ期末試験だよな。だりぃ。啓介、お前どうよ?」
「ぼちぼちですね」
受験も控えているであろう先輩の脱力した表情を見ていると、なんだか俺までどうにかなりそうだった。
少なくとも、先輩の中で本の話は終わってどうでもいいものになったことは確かだろう。
今は試験という現実に立ち向かわなければならない。学年問わずに迫る、避けては通れない苦難の道だ。
それが終われば、まとまった時間も確保できる。動くとすれば、夏休みがベストだろう。
最適にして最後のチャンスを掴み取れる可能性がある時期だ。




