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十二 消失(1)

 週明け、俺は昨日のことを思いっきり引きずりながら登校した。

 あんなに盛り上がったはずなのに、結局自分の気持ちを隠したままだった。

 今考えれば、打ち明けない方が変だったのかもしれない。きっと俺に幻滅しただろう。


 いや、むしろそれが正しいんだ。

 元々あんな完璧ヒロインな彼女には、俺なんて不釣り合いだったんだ。身の程をわきまえろ、俺。


 いつものように授業を聞き、昼休みには踊り場へ。

 予想通りというか、わかりきっていたことだが、そこには誰の姿もなかった。来るはずがない。俺自身もわかっていたし、当然のことだ。


 それでも、やはり今まで身近にいた存在が消えるということは悲しかった。会いたいという気持ちも、当然そこにある。

 だけど、今更どんな顔をして会えばいいのかわからない。どうせ会っても何を話したらいいかわからなくなって、間の悪い沈黙が続くだけだ。

 それならいっそ会わない方がいいだろう。俺はこのまま、今まで通り一人の時間を過ごしていくだけ。何も変わらない。


 その日、もちろん彼女は踊り場に現れなかった。

 その姿を幻視しては、それが虚像だと気付かされる。その繰り返しだった。






 金曜日。彼女が来なくなった月曜が昨日のようにも思えるが、早くも週末が顔を覗かせている。

 人間は慣れを覚えてしまう生物らしく、俺は以前と変わらず踊り場で趣味を楽しみながら本を読んでいた。


 昼食後の五時限目は教師の都合で自習になっている。

 変にふざけた生徒がいないこの学校だからか、自習だというのに監視役の教師がいない。

 別にいなくても他のクラスに迷惑をかけるような馬鹿騒ぎをすることもないし、ほとんどが静かに勉強なり読書なりをしている。


 教室にいない生徒もちらほらいるが、図書室にでも行って分厚い本をしきりにめくっているのだろう。

 将来は国公立の大学へ進んで、一流企業の社員やキャリア組の公務員になるという大層な夢を抱えた奴も多い。彼らは普通の学習法では満足できないのだ。


 俺はというと勉強する気も起きず、そのご立派な奴らに紛れて教室を抜け出していた。

 向かう先はいつもの踊り場。何をするでもなく、ただ壁に寄り掛かって放心している。


 ふと、彼女と過ごした日々が記憶に蘇ってきた。

 止めようと意識するほどにそれは溢れ、幻聴が俺を捕縛する。

 啓介くん、と呼んでくれた柔らかな声。白い歯が眩しい笑い声。そしてその表情。年齢は違えど、身長はほぼ対等だった。どちらが上ということもない、真っ直ぐな視線。


 不意に喉の奥が痛む。

 つん、とした鋭さに目を見開き、続いて口元を押さえた。苦しさに後押しされて息を吸い込むと、見える世界が歪みだす。

 指の隙間から奇妙な掠れ声が零れ、肩が震えて体は勝手に泣く準備を始めてしまう。


 なんで。もう乗り越えたはずなのに。

 前は埃っぽかったこの踊り場が、今も彼女の残り香を漂わせていることだって受け入れたじゃないか。もう忘れるんだって決めただろう。


 頭ではどうにかして止めようとするのに、体の方は背中を折り曲げて丸まろうとしている。

 徐々に思考も浸食され、周囲に誰もいないんだからと背中をぐいぐい押してくる。視界はとっくの昔に霞んでいるが、瞼に溜まった潤みはこぼれることなく溜まっていた。

 いっそ思うまま泣けたらいいのだが、あいにくそんな勇気もない。

 中途半端なその姿は、俺という人物にぴったりじゃないか。


 なんだよ。俺は一体どうしたいんだよ。

 彼女ともう一回会って話をしたいのか。もう叶うはずもない願いをまだひきずって、現実を見ろというのか。


 わかったよ。ならその望み、引き受けてやるよ。


 今は授業中だ。三年二組の教室でも、移動教室や体育などでなければ何かしらの授業が行われているはずだろう。外から覗けば教室内の様子はわかる。目当ての人がいれば、すぐに見付けられるだろう。

 もちろん、そこに彼女がいないことはわかっている。

 けれど、俺の中にその事実を受け入れられない部分があるらしい。そいつが訴える希望を潰すために、改めて彼女がいないことを知らなければならない。


 俺は一旦落ち着いてから、崩れた表情と姿勢を直した。

 冷静になれ。何事にも動じない精神を持て。万物に対して傍観者であれ。


 静かな廊下を三年二組へ向かって進む。

 教室の前を通過するごとに、教師が授業をしている声が届く。一年生の授業内容なら、二年なんだからさすがになんとかわかる。

 しかし理系科目はからっきしだ。物理や数学は勘弁してほしい。


 そして目的地へ辿り着く。

 幸いというか当然なのだが、三年二組では普通に授業が行われていた。どうやら日本史の授業中らしい。

 執権がどうしたとか、北条なんとかがどうなったとか、そんなことを日本史担当の守護神高田が板書している。


 中の生徒や教師に気取られないよう、慎重に室内を観察する。

 クラス全員が出席しているようで、空席は見当たらない。一列が六人で作られていて、それが計六つ並んでいる。

 窓際の方は二人少ない四人の列で、三年二組は総勢三十四人であることがわかる。そんなことは誰が見ても一目瞭然だ。だから問題ではない。


 そして再認識したことがある。

 それは、この教室内に小池宏美という女性が存在しないということだ。


 生徒たちは後ろ姿しか見えないし、唯一視線が合う可能性がある教師を避けながらの観察だが、それは明らかだった。

 彼女のことは俺もよく見てきた。たとえ見えたのが頭部の端っこだけだったとしても、それが小池宏美であると見抜くだけの自信がある。

 それなのに、今この教室にいる人物どれを見てもその直感が働かないのだ。


 つまり、この教室に彼女はいない。

 その事実と直面し、俺の心に静かな衝撃が走り抜けた。

 だから見に来たくなかったのに。ずっとあの踊り場にいればこんなことにはならなかったのに。


 あと数分で五時限目が終わる。俺は近くのトイレに入り、洗面台の鏡と向き合った。

 酷く歪んだ自分の表情は、授業終了のチャイムといやに親和性が高かった。まるで体育の授業で体力を使い果たしたような顔だ。


 次第に廊下が騒がしくなってくる。いつまでもここにいるわけにはいかない。

 トイレから出ると、先ほどまで授業をしていた高田先生とすれ違う。なんとなく、軽い会釈を交わしておいた。

 その特徴的な眼鏡のために独特の雰囲気を持つ高田先生であるが、生徒指導に熱心に取り組んでおり、各方面からの信頼は厚い。

 進路指導にも力を入れており、悩みを親身になって解決へと導いてくれるらしい。俺もそろそろお世話になる時期だ。


「おう、啓介じゃないか」


 教室前の廊下を通り過ぎようとしたら、慣れ親しんだ声が聞こえてきた。

 ここで俺を呼ぶのは一人しかいない。手招きに誘われて谷澤先輩のもとへ向かう。廊下側の一番後ろにある席は、学年が違う俺でも紛れやすい。


「珍しいな。お前がこっちに来るなんて」


 会いにきたわけではないのだが、無駄に波風を立てることもない。ここは話を合わせておこう。


「たまにはいいかなと思いまして」

「そうか。ところで、貸してやった本はもう読んだか?」

「ええ、それなりには。半分以上は読み終えてます」


 と言うのは建前で、実際はあまり進んでいない。

 彼女と会う約束を取り付けたり、その計画を立てたりで色々と忙しかったせいだ。

 しかしそんな理由を先輩に言ってもしょうがないので、ある程度は読んでいることにしておく。


「なかなか面白いだろ? そのうち引き込まれて一気読みしたくなるから身構えとけよ」


 もちろん、それは先輩の性格をよく知っているからこその手段である。

 今回のように自分が本を勧めた場合、俺が読み終えるまで物語の核心に触れる話は決してしない。楽しみは後に取っておくタイプなのだ。

 だから、本当に読んでいるかを探るようなことはしない。


「そうそう。あれを原作にした映画も今やってるし、読み終えた後にでも見に行ってみるといい。小説の設定をうまく使って映像化してるから見応えは十分あるぞ」


 既に見てしまったのだが、なんとなくここは黙っていた方がいい気がする。


「文章の表現を動きでどうにかしようとすると、どうしても心理描写が不足して話が薄っぺらくなりがちなんだが、あれは見事に演出でカバーしてるから素晴らしくてな──」


 いつもの論説が始まった。

 内容自体は興味深いことなので、俺は適当な相槌を打って流れを止めないようにする。きっとこの休み時間を使いきるまで続くだろう。


「──っと。この辺にしておくか。話の途中で悪いが、ちょっとやることやらせてもらうぜ」


 そんな予想に反して、先輩は机の中から何かを取り出した。教科書よりも大きな本で、紫色の表紙が目立っている。


「なんですか、それ?」

「ああ、日直ノートだよ。今日の日直俺でさ。毎回授業ごとにコメント書かないといけないから面倒なんだよな」


 三年になるとそんなイベントがあるのか。それともこのクラス特有なのだろうか。担任があの高田先生だから、十分に考えられる可能性だ。


 先輩が色々と記入しているページを、こっそりと見せてもらう。

 日付と天気、時間割や一日の反省を書く欄が用意されているようだ。ご丁寧に担任のコメントを書くスペースまで作られている。

 きっと、このために体裁があらかじめ整えられたノートなのだろう。これも業務用品の一種というべきか。


「──さて、こんなとこか」


 顔を上げた先輩と目が合った。なんとなく気まずくなって視線を泳がせるが、先輩は小さく鼻を鳴らして「見るか?」とノートを差し出してきた。

 普段の行動が原因なのか、観察眼の鋭さはいつもながら感服させられる。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 パラパラと適当にめくってみる。

 やはり、他のページも同じような作りになっていた。赤字で書かれた担任からのコメントが鮮やかに踊っている。

 あの外見からは想像できないような砕けた言葉も使っているようだ。数年後に見返したら精神的ダメージが大きいのではないか。


 本を手に取った時の癖で、巻頭と巻末をチェックする。

 最後の方には何もなかったが、表紙裏の扉ページには三年二組の生徒一覧表があった。教員用名簿をコピーして張り付けているだけの簡素なものだ。

 出席番号順にノートを渡しているようなので、その時に活用するのだろう。


 当然の事実だが、名簿の中に小池宏美という名前はどこにも書かれていなかった。


「ありがとうございました」


 これ以上見るものもないのでノートを返した。同時に立ち上がり、先輩に別れを告げる。

 そろそろ自分の教室に戻らないと、次の授業に間に合わなくなりそうなのだ。


「悪かったな、引き止めちまって。感想を語り合えるの、楽しみにしてるぜ」


 親指を立てて送り出されたので、俺も同じように返した。

 勢いはだいぶ落ちていたけど。


「では、また」

 廊下の喧騒に包まれながら、なんとなく気分が楽になったことを自覚する。

 先輩のおかげだろうか。あんな性格でも、俺とつるんでくれるんだからありがたい。

 面と向かって感謝なんかできないが、先輩の希望を叶えることならできる。


 借りた本、週末使って読破するか。

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