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雲間は晴れているか

作者: 柊夕
掲載日:2026/06/09

 この世界には、もしかするともう一人の私がいるのかもしれない。

 こうして公園のベンチに腰掛けてふと顔を上げると、向こう側にも同じ姿勢でこちらを見つめる私がいるような気がする。

 たとえ同じ世界を見ていたとしても、その視点はきっとまったく違う。

 私は片側から遠くの未来を眺めていて、もう一人の私は反対側から過去を振り返っている。

 どちらも互いにあまり関心を持たないまま、未来への空想と過去への沈潜の中で日々を過ごしている。

 私はいつも俯いて歩いていた。

 周囲の声は確かに聞こえているのに、人々の表情だけは一度もはっきりと見たことがない。

 灰色の世界は単調かもしれない。

 けれど私にとってそれは、安心であり、救いでもあった。

 もしかすると存在するのは未来と過去だけで、「今」というものは存在しないのかもしれない。

 今だと思った瞬間にはすでに過去になり、次の瞬間には未来へと遠ざかっていく。

 私が「現在」を持たないと思っていたのは、たぶんそのせいだった。

 ある日、一匹の猫に出会った。

 真っ白な毛並みを見れば、野良猫ではないことくらいすぐに分かる。

 猫は顔を上げていて、私は顔を伏せていた。

 その視線が、偶然交わった。

 不思議なことに、その猫は逃げもしなければ鳴きもしなかった。

 ただ静かにこちらを見ていた。

 普通なら、そのまま立ち去るべきなのだと思う。

 実際、そうするつもりだった。

 けれど身体は動かなかった。

 視線も逸らせなかった。

 その瞬間、未来を見続けていた私と、過去を見続けていた私が、初めて同じ場所を見たような気がした。

 言い換えるなら――

 私たちは初めて、お互いの存在に気づいたのだ。

 現在という名の場所で。

 私はそっと手を伸ばした。

 どんな未来へ続いているのか知りたくて。

 私はそっと手を伸ばした。

 どんな過去を抱えているのか知りたくて。

 伸ばした指先が触れ合った瞬間、未来と過去は静かに溶け合った。

 不思議な感覚だった。

 指先から伝わる温もりが、驚くほど鮮明に「今」を教えてくれる。

 灰色だった世界に、ふと色が差し込んだ気がした。

「……にゃあ」

 気づけば、私は笑っていた。

 猫はずっと私のあとをついてきた。

 そのまま家へ連れて帰り、「雲」と名付けた。

 母は反対しなかった。

 ただ、「どこで見つけたの?」とだけ尋ねた。

 私はありのまま答えたが、母はそれ以上何も言わなかった。

 そうして、平凡で退屈だった毎日に、小さくて軽やかな足音が増えた。

 私たちの間に抱擁はなかった。

 寄り添うこともなかった。

 思い出になるような特別な触れ合いも、ほとんどなかった。

 私は相変わらず同じ日常を繰り返し、雲もまた、少し離れた場所で眠ったり、こちらを見つめたりしているだけだった。

 それでも、一人と一匹はいつの間にかいつも一緒にいた。

 雲が歩いた場所には、なぜか色が生まれるような気がした。

 その色に導かれるように、私は少しずつ世界を見られるようになっていった。

 たまに家へ帰ってきて、部屋に雲の姿が見当たらないと、世界のどこかがずれてしまったような気分になる。

 けれど、しばらくして姿を見つけると、

 ああ、これでいいんだ。

 そう思えた。

 未来を見ていた目と、過去を見ていた目は、ようやく「今」の美しさを知り始めていた。

 同じことの繰り返しでしかないはずの日々が、なぜだか愛おしかった。

 数か月後、雲の飼い主が現れた。

 やはり私が思っていた通りだった。

 雲は野良猫ではなく、高価な血統猫だった。

 飼い主は涙を流しながら、何か月も探し続けていたことを母に語った。

 母は特に何も言わなかった。

 ただ、雲を返しなさいと言った。

 私も何も言わなかった。

 ただ頷いた。

「雲」

 小さく呼ぶ。

 部屋から出てきた雲は、いつも通り私を見上げた。

 私はその身体を抱き上げる。

 そして飼い主へ渡した。


 ――それが、初めて雲を抱いた瞬間だった。


 平行線は本来交わらない。

 どんな理由であれ、一度だけ交差し、やがて元の場所へ戻っていく。

 それは当たり前のことだと思っていた。

 だから受け入れられないわけではなかった。

 もちろん、それは理屈の話だ。

 感情は別だった。

 私は分かっていた。

 きっとまた「今」を失うのだろう。

 そして再び、未来と過去のあいだを彷徨うのだろう。

 雲がくれた色も、やがて灰色へ戻っていくのだろう。

 母は私に尋ねた。

「悲しくないの?」

 私は笑った。

 だって、生きていくしかないのだから。

 母は同じ種類の猫を飼おうと言った。

 私は首を振った。

 もともと猫を飼う趣味なんてなかった。

 それでもしばらくして、母は一匹の白猫を連れてきた。

 雲と同じように真っ白な猫だった。

 名前はすでに決まっていた。

 母はその子を「曦」と呼んだ。

 曦は雲とは違って、人見知りだった。

 けれど慣れてくると、とても甘えん坊になった。

 私が何かを書いていると突然机へ飛び乗り、本を読んでいると膝の上で眠る。

 夜には枕元で丸くなることも多かった。

 雲がいた頃、私はほとんど世話をしていなかった。

 けれど曦のことは、ずいぶん気にかけた。

 きっと懐かしさだったのだと思う。

 私は私なりの方法で、雲を埋めようとしていたのかもしれない。

 不思議なことに、消えてしまうと思っていた色は残ったままだった。

 雲がくれた色を借りながら、私は少しずつ周囲の世界と向き合えるようになっていった。

 ほんの少し顔を上げるだけで、人の表情がこんなにも豊かなことに気づく。

 喜び。

 幸せ。

 怒り。

 悲しみ。

 母はそれを理解していた。

 だから今度は、自分が曦の世話をするようになった。

 そしてやがて、その猫は父のもとへ送られていった。

 気を紛らわせるための小さな試みは、流れ星のように記憶をかすめ、そのまま静かに消えていった。

 一年ほど経ったある日。

 私はふいに母へ言った。

「雲を、そばにいてほしかった」

 母は少し驚いた顔をした。

「どうしてあのとき言わなかったの?」

 そうだ。

 どうして言わなかったのだろう。

 どうして黙って受け入れてしまったのだろう。

 今でも答えは分からない。

 あの出来事は変えられないものだった。

 そうなるのが当然だった。

 私はずっとそう思っている。

「だって……私が決めていいことじゃなかったから」

 そう答えるしかなかった。

 雲も曦もいなくなり、生活は少しずつ元の姿へ戻っていった。

 それでも私は生きている。

 かつて、

 雲をそばにいてほしい。

 そう叫びたかった私も。

 今は雲のいない世界を受け入れながら生きている。

 たとえ時間が巻き戻ったとしても。

 私はきっと、その言葉を口にできない。

 元の飼い主にも。

 母にも。

 雲にも。

 そして自分自身にも。

 だから許されることがあるとすれば。

 それは、ただ懐かしむことだけなのだろう。

 それから間もなくして。

 母がぽつりと教えてくれた。

 雲は家へ戻った数日後、再び姿を消したらしい。

 そして今度は、見つからなかった。

 雲のような家猫は、外では生きていけないだろう。

 野良猫と争ったかもしれない。

 犬に追われたかもしれない。

 怪我をしたかもしれない。

 食べるものもなく、眠る場所もなく。

 あの真っ白な毛並みも、きっと世界の汚れに染まってしまっただろう。

 そう考えると胸の奥が少し痛んだ。

 けれど、私には何もできない。

 何も変えられない。

 だからこそ、不思議と諦めもついた。

 私と二匹の猫の退屈な物語は、たぶんここで終わる。

 胸を躍らせるような出来事があったわけでもない。

 長い年月を共に過ごしたわけでもない。

 それでも。

 あまりにも小さく、ほんの一瞬だったその出来事は。

 棘のように心へ残り続けた。

 わざと何本か電車を見送り。

 私はようやくベンチから立ち上がった。

 駅へ目を向ける。

 行き交う列車。

 急ぎ足の人々。

 誰も、世界が一瞬で姿を変えることなど気にも留めない

 列車と列車の隙間。

 向かい側のホーム。

 互いに反対方向へ進んでいく運命の人たち。

 私はスマートフォンを取り出した。

「……もしもし、母さん」

 しばらく黙ったあと。

 私は言った。

「少し話したいことがあるんだ」

「うまく言えるか分からないけど……」

「これからは、雲の面倒は私が見る」

「もう母さんには頼らない」

 受話器の向こうで母が戸惑う。

『でも、雲はもう――』

「わかってる」

 私は遮った。

「理由なんてない」

「ただ、私がそうしたいだけなんだ」

『でも……』

 その言葉を最後まで聞かなかった。

 ずっと言えなかった言葉が。

 ようやく喉の奥からこぼれ落ちた。


「私は――」


「雲に、そばにいてほしかった……!」


 母の返事を待たず、通話を切った。

 そんなこと、私自身が一番分かっている。

 雲はもう帰ってこない。

 あれはただの子どもじみた告白だった。

 けれど。

 今の私に言えることも。

 今の母が受け止められることも。

 きっと、あれが限界だった。

 帰りの電車に乗る。

 沈みゆく太陽の方角へ。

 逆光の中では、何も見えない。

 そのときだった。

 視界の端を、白い影がよぎった気がした。

 どこからか。

 軽やかな足音が聞こえた気がした。

 だけど私は見なかった。

 もし今ここで。

 再び視線を下ろしてしまったら――

 私は。

 もう一人の私と。


 再び出会えるのだろうか。

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