第四話 帰らない英雄
父さんが消えて二日目の朝になった。
朝になれば、何事もなかったみたいな顔で帰ってくる。
どこかで、そんなふうに思っていた。
遺跡の魔物を倒して、怪我人を助けて、少し汚れた大剣を肩に担いで帰ってくる。
そんな場面を、何度も頭の中で勝手に作った。
最初はみんなも、父さんなら大丈夫だと言っていた。
魔王を討った英雄だから。
たかが遺跡の魔物くらい、どうにかして戻ってくる。
そう言っていた。
でも、そうはならなかった。
「アレン」
母さんの声で、俺は顔を上げた。
台所の椅子に座ったまま、ぼんやりしていたらしい。目の前のスープはほとんど減っていなかった。
「食べないの?」
「食べる」
「さっきからそう言って、一口も食べてないじゃない」
「……食べるって」
俺はスプーンを持ち直した。
でも、口に入れても味がしなかった。
母さんは何も言わず、ノエルの方を見た。
ノエルは俺の向かいに座って、パンを両手で持っていた。最初の頃よりは顔色がいい。まだ弱々しいけど、起きて食べられるくらいにはなっている。
「それ硬い?」
俺が聞くと、ノエルはパンを見たまま答えた。
「すこし硬い」
「嫌い?」
「わからない」
「わからないか」
「でも、最近はわかることもある」
「何が?」
「噛むと、減る」
「そりゃ減るだろ」
思わず笑ってしまったが、ノエルは真面目な顔でうなずいた。
「減る」
母さんも笑っていた。
ノエルは自分のことを何も覚えていない。
それだけじゃなくて、パンが減るとか、水を飲むだとか、当たり前のことも忘れてしまっている。
そのことが、どうしても引っかかってしまう。
「ノエル、この間の紙のことだけど」
ノエルが顔を上げる。
「あれ、やっぱり何も思い出さない?」
ノエルは少し考えた。
それから、小さく首を横に振る。
「読めない」
「そっか」
「でも、なんだか嫌」
「嫌?」
「あの紙を見ると、胸の奥が冷たくなる」
ノエルは自分の胸元に手を当てた。
「文字はわからない。でも、あれは……あまり、見たくない」
俺は黙った。
ノエルの言うことは、わかるようで、全然わからない。
けど、嘘をついているようには見えなかった。
母さんは、また何も言わなかった。
最近の母さんは、何も言わないことが多い。
「母さん」
「なに?」
「父さんがどこに行ったのか本当に知らないの?」
母さんは鍋に視線を落とした。
「……わからないわ」
何度聞いても、母さんの答えは同じだ。
俺は椅子から立ち上がった。
「ちょっと広場に行ってくる」
「傷は?」
「もう平気」
「まだ完全には塞がってないでしょう」
「平気だって」
母さんの返事を待たずに、俺は家を出た。
広場には、いつもより多くの人がいた。
怪我人のうち、動ける人たちは端の方に座っている。まだ動けない人は、村の空き家や倉庫に寝かされていた。
みんな、北の森の方を気にしている。
そこへ、昼過ぎになって、ギルドの増援が来た。
馬に乗った者が三人。
荷車が二台。
剣や槍を持った冒険者が十人ほど。
村の人たちがざわめいた。
先頭にいたのは、四十歳くらいの男だった。
背は高くない。けれど体が分厚い。短く刈った灰色の髪に、傷のある頬。たぶん、この人たちのリーダーなんだろう。
男は馬から下りると、村長と少し話をした。
それから、広場の真ん中に立って声を張った。
「冒険者ギルド、エルド支部の副ギルドマスターのダリオだ。負傷者の回収と、遺跡周辺の魔物討伐を行う」
低い声だった。
でも、よく通る声だった。
「まず負傷者を確認する。負傷者は荷車で支部へ送る。動かせない者は村で手当てを続ける。明日の朝、遺跡に入る。勝手に森へ近づくな。子供は特にだ」
最後の言葉で、何人かの視線が俺に向いた。
俺は顔をしかめた。
ダリオという男も、俺を見た。
「お前か。遺跡に入ったっていうガキは」
「そうですけど」
「勇敢なのは結構なことだが、勝手はするな。死んでからじゃ取り返しがつかないぞ」
これは怒られてるのか。でも、見た目の割に、優しい言い方をする。ちょっと父さんと似ている気がした。
「でも、帰ってきましたよ」
「運がよかっただけだ」
「魔物も倒しました」
「だからこそだ。天狗になった奴から命を落とす」
言い返そうとして、言葉が詰まった。
そんな俺を見て、ダリオの顔が少しだけ変わった。
「クロヴィス殿のことは聞いている」
「なら、俺も連れて行ってください。父さんを探したいんです」
「駄目だ」
「なんで」
「冒険者じゃないからだ。お前はギルドに登録されていない。連れて行って、もし万が一なにかあったら、支部ごと処罰されるかもしれない」
言い方は冷たいけど、たぶん間違っていないんだろう。
「明日の朝、こちらで調査する。お前は村に残れ」
ダリオはそれだけ言うと、村長の方へ向かった。
「くそ……」
なにも言い返せない自分に、無性に腹が立った。
外がすっかり暗くなった頃に家に戻ると、ノエルが窓のそばに立っていた。
外を見ている。
俺が入っても、すぐには振り向かなかった。
「何見てるんだ?」
「人が多い」
「ギルドの増援が来たんだ。明日、遺跡に行くらしい」
「遺跡」
その言葉に、ノエルの肩が少し震えた。
「怖い?」
聞くと、ノエルは少し考えた。
「わからない」
「そっか」
「でも、胸が冷たくなる」
ノエルはまた胸元に手を当てた。
紙を見た時と同じ仕草だった。
「遺跡も、嫌?」
「たぶん」
「たぶんか」
その時、遠くで鐘が鳴った。
最初は一度だけ。重い音だった。
俺は窓の外を見た。
また鳴る。二度。三度。
村の警鐘だ。
火事か、魔物か、盗賊か。何かが村に迫っている時に鳴らす鐘。
外で誰かが叫んだ。
「魔物だ!」
俺は反射的に剣へ手を伸ばした。
母さんが台所から飛び出してくる。
「アレン!」
「外見てくる!」
「待ちなさい!」
俺は扉を開けて外へ飛び出した。
広場の向こう、北の森へ続く道の方で、黒い影がいくつも動いている。
ギルドの冒険者たちが武器を取って走っていく。
村人たちは悲鳴を上げ、家の中へ逃げ込んでいた。
その中で、俺は見た。
この前、森で倒したグレイハウンドと同じ魔物。
その何倍もいる群れが、村へ向かって走ってきていた。
背後で、ノエルの小さな声が聞こえた気がした。
「……来る」
振り返ると、ノエルが玄関のところに立っていた。
顔色は悪いのに、その目だけが北の森を見ている。
俺は剣を抜いた。
手が震えているけど、足は前へ出ていた。




