第十七話 帰る場所を背に
朝になっても、頭はあまりはっきりしなかった。
眠れたのか、眠れていないのかもよくわからない。
目を閉じていた時間はあったと思う。
でも、夢を見た気もするし、ずっと起きていた気もする。
布団から起き上がると、すぐ近くでノエルが座っていた。
膝を抱えて、窓の方を見ている。
「寝てないのか?」
俺が聞くと、ノエルはこっちを見た。
「少し寝た」
「ずっと座ってた?」
「途中から」
「起こしてくれたらよかったのに」
「アレン、寝てた」
「寝てたのかな」
「たぶん」
「たぶんか」
ノエルは小さくうなずいた。
今日も朝が来た。
昨日あんなことがあっても、朝は普通に来る。
相変わらず、家の中は騒がしい。
俺は壁に立てかけた剣を見た。
少しだけ手が止まる。
でも、取らないわけにはいかない。
俺は剣を手に取った。
昨日までより、ずっと重く感じた。
「アレン」
ノエルが立ち上がる。
「大丈夫?」
「……うん」
「ほんとに?」
「大丈夫だよ。昨日よりは」
ノエルは俺をじっと見ていた。
疑っているというより、確かめている顔だった。
「私も行く」
「うん。一緒にいこう」
そう言うと、ノエルは少しだけ安心したように見えた。
居間に行くと、食卓にはもう朝食が並んでいた。
昨日の残りのスープと、焼いたパン。
それから、薄く切った干し肉。
ニルがパンに手を伸ばし、ミラに木のヘラで手の甲を叩かれている。
「ノエル、おはよう」
「おはよう」
みんながノエルにあいさつをしている。
ノエルは少しだけ遅れて返した。
「おはよう、は朝に言う?」
「そうだよ」
「覚えた」
「すぐ覚えるね」
エナが嬉しそうに笑う。
その隣で、リザは椅子に座っていた。
顔色は昨日よりましだが、腹をかばうように少し体を傾けている。
「リザさん、大丈夫ですか?」
「あたしを誰だと思ってるんだよ。無敵のリザ様だ。こんなの飯食って寝たら完全に治ったよ」
「でも、今すこし気にして――」
「うるさい! さっさと座りな!」
リザはいつもの調子で言った。
でも、声には少し疲れが残っていた。
ダグさんは壁際に座って、水を飲んでいた。
俺たちを見ると、静かに言う。
「で、どうするか決めたか?」
昨日の続きだ。
ギルドの人たちが来る。
ここに残るか。それとも去るか。
「……」
「その様子じゃあ、まだ決めてねえみたいだな」
「……ノエルにとって、このまま旅を続けるほうがいいのか、ギルドに行くのがいいのか分からないんです」
食卓の空気が、少しだけ変わった。
「たしかに難しい問題だな。このまま旅を続けて、昨日みたいな危険な目に遭うかもしれない。かといって、ギルドの連中に預けたら、実験動物みたいに扱われるかもしれない」
「……はい」
「でもなアレン。大事なのは、ノエルの気持ちなんじゃないか?」
「え?」
ダグさんがノエルを見る。
「ノエル。お前はどうしたいんだ?」
「どうしたい?」
「ああ。アレンと一緒にいたいか。それともギルドに保護されたいか。どっちだ?」
「ちょ、親父。そんなはっきりと……」
リザが慌てている。
そんな表情もするんだ。と思った。
俺もなぜか心臓の音がいつもより大きく聞こえた。
なんでだろう。
手から汗が噴き出してくるような感覚だ。
「……アレンは」
少し間が空いて、ノエルが口を開いた。
「一人だと、あぶない」
ミラがパンを持ったまま、ノエルを見つめている。
エナとニルも、口にパンを詰め込んでノエルを見ている。
「そう。あぶないか。たしかにね」
リザが笑っている。
「うん。だから、アレンと行く」
俺はどうしていいかわからなかった。
昨日、あんなことがあった。次いつ、ああいう状況になるかわからない。
「ノエル。このまま旅をしてたら、また昨日みたいなことがあるかも」
「うん」
「また殺されかけたりするかもしれない」
「……うん」
「父さんの手掛かりはまだ見つかってない。だから、どのくらい旅が続くかわからないんだよ」
「うん」
「うん。ってほんとに――」
その時、ダグさんが割って入った。
「あー、がたがたうるせえな!」
俺は、その声に思わずびくっとしてしまった。
「アレン。ノエルが行くって言ってんだ。わかるか?」
「で、でも」
「でももクソもねえ! 男なら、女が決めたことにケチ付けんじゃねえ!」
「……!」
「もし危ないとか思ってるなら、お前が守ってやればいいじゃねえか。ノエルには指一本触れさせないように。お前がな!」
何も言い返せなかった。
守る。
昨日もそう思った。
その結果、俺は人を殺した。
それでも、ノエルはここにいる。
目の前で、自分の意思で、俺と行くと言っている。
「……ノエル」
「うん」
「本当に、俺と来るのか?」
「行く」
迷いのない返事だった。
「アレンが危ないから」
「そうなのかな」
「うん」
ノエルは真面目にうなずいた。
少しだけ笑いそうになって、でも笑えなかった。
「わかった」
俺は息を吐いた。
「一緒に行こう」
ノエルは、ほんの少しだけ目を細めた。
それが笑ったように見えた。
「うん」
「はいはい、話はまとまったね」
リザがパンをかじりながら言った。
「じゃあ、あたしも行く」
食卓が、今度こそ完全に静かになった。
「……え?」
俺の声と、ミラの声が重なった。
リザは平然としている。
「え、なにその顔」
俺が言葉に詰まると、ミラがリザを睨んだ。
「リザ姉、本気?」
「本気だよ」
「昨日帰ってきたばっかりなのに?」
「うん」
「また行くの?」
「うん」
ミラの顔が、くしゃっと歪んだ。
「……ずるい」
その声は、小さかった。
でも、食卓の全員に聞こえた。
リザは何も言わなかった。
「いつもそう。帰ってきたと思ったら、またすぐどこか行く」
「ミラ……」
「あたしたちのこと、心配じゃないの?」
リザの顔から、いつもの軽さが消えた。
エナも黙っている。
トールは何か言いたそうにして、結局口を閉じた。
ニルは状況がよくわかっていないのか、パンを握ったままリザを見ていた。
リザは少しだけ息を吐いた。
「心配に決まってるでしょ」
「だったら――」
ミラが言葉を止めた。
リザは自分の皿に残ったパンを見て、それから家族を見た。
「野盗の頭は死んだし、残りは捕まえた。ギルドが来れば、村はしばらく大丈夫だろう。親父もいるし、村の大人たちもいる」
「でも、リザ姉がいなくなる」
「あたしは元々、ずっと村にいたわけじゃないよ。ギルドの依頼を受けて、金稼いで、またあんたの飯を食いに帰ってくる」
「それは知ってるけど……」
「それにね」
リザは少しだけ笑った。
でも、いつものからかうような笑い方じゃなかった。
「あたしには、帰る場所がある」
誰も何も言わなかった。
「ここがある。親父がいる。ミラたちがいる。だから外に出られるんだよ」
ミラは俯いたまま、膝の上で手を握っていた。
「……だったら」
少し間を置いて、ミラが言った。
「ちゃんと帰ってきてよ」
リザは、今度ははっきりとうなずいた。
「いつも通りね」
「絶対?」
「絶対」
「リザ姉、たまに嘘つくじゃん」
トールがぼそっと言った。
「トール。せっかく姉ちゃんが格好つけたのに邪魔しないでくれる?」
「リザ姉がまた怒ったー!」
「怒ってないよ!」
リザが睨むと、トールはミラの後ろに隠れた。
でも、食卓の空気は少しだけ緩んだ。
ミラも、泣きそうな顔のまま少し笑った。
「じゃあ、約束だからね」
「うん。約束だ」
ダグさんが大きく息を吐いた。
「リザ」
「なに、親父」
「お前のことだ。心配はしてねえが……」
「わかってるよ」
「この子らを頼んだぞ」
「……わかってるって」
ダグさんはそう言って、今度は俺を見る。
「アレン」
「はい」
「リザは口が悪いし、無茶もする。だが、自分をしっかり持っているやつだ。頼っていい」
「はい」
「ただし、リザに頼りきりになるな。自分で考えて、自分の道を歩け。いいな」
重い言葉だった。
「……はい」
俺はうなずいた。
朝食が終わると、ミラが小さな布袋を二つ用意してくれた。
パンと干し肉。
水筒。
それから、替えの布。
「少しだけだけど」
「十分です。ありがとうございます」
「ノエルも、ちゃんと食べてね」
「食べる」
「熱かったら、ふーってするんだよ」
「覚えてる」
ノエルが真面目に答えると、ミラは少し笑った。
エナはノエルの前に立って、両手を握ったり開いたりしている。
「ノエル」
「なに?」
「また来る?」
ノエルは自分で考えて、小さくうなずいた。
「来たい」
エナの顔が明るくなる。
「じゃあ、また髪見せてね」
「髪?」
「うん。きれいだから」
ノエルは自分の髪を少しつまんだ。
「わかった。見せる」
約束としては、少し変だった。
でも、エナは嬉しそうだった。
トールは俺の方へ来て、小さな声で言った。
「兄ちゃん、リザ姉のこと頼むな」
「……うん。いや、はい。任せてください」
「なんで敬語?」
「いや、なんとなく」
「変なの」
トールは笑った。
ニルはリザの服を掴んでいた。
「リザ姉、肉買ってきて」
「帰ってきたらね」
「大きいやつ」
「はいはい」
「はいは一回」
「……はい」
ミラがそれを見て、少しだけ笑った。
出発の準備はすぐに終わった。
俺とノエルは、元々ほとんど何も持っていない。
リザも荷物は少なかった。
短剣とナイフ。
小さな袋に水筒。
それだけだ。
家の外に出ると、ラトム村は朝の光の中にあった。
昨日焦げた小屋はまだ黒い。
壊れた柵も全部は直っていない。
倉庫の前には見張りが立っている。
それでも、村は動いていた。
人が水を運び、木材を運び、声をかけ合っている。
昨日までの俺なら、それをただ「村」だと思ったかもしれない。
でも今は、少し違って見えた。
誰かが残って、直している。
誰かが守っている。
誰かが帰ってくる場所を、ちゃんと残している。
リザはそれを一度だけ見回した。
「さあ、行くよ」
「はい」
「うん」
俺とノエルはうなずいた。
村の外れまで、ダグさんたちが見送ってくれた。
ミラは最後まで何か言いたそうだったけれど、結局言わなかった。
代わりに、リザの背中を軽く叩いた。
「痛っ」
「痛いの?」
「今のは心が痛かった」
「嘘だね」
「ばれたか」
ミラは少し笑った。
それから、小さな声で言う。
「帰ってきてね」
リザは振り返らずに手を上げた。
「行ってくる」
その言葉は、軽かった。
でも、きっと軽いだけじゃなかった。
俺は隣を歩くノエルを見た。
ノエルも、村を振り返っていた。
「どうした?」
「帰る場所」
「うん?」
「リザには、帰る場所がある」
「そうだな」
「アレンにもある?」
ルーエ村。
母さん。
父さんのいない家。
思い浮かべると、胸が少し痛んだ。
「ある、と思う」
「思う?」
「うん。たぶん」
ノエルは少し考えた。
「私は?」
その言葉に、すぐには答えられなかった。
ノエルには記憶がない。
家族も、自分の名前も、本当の帰る場所もわからない。
でも。
「これから探そう」
俺は言った。
「ノエルの帰る場所も。父さんのことも。全部」
ノエルは俺を見た。
「一緒に?」
「うん。一緒に」
ノエルは小さくうなずいた。
リザが前から振り返る。
「二人でいい空気出してるところ悪いけど、ちゃんと足元見な」
「えっ」
言われた瞬間、俺は大きい石につまずきかけた。
「危なっ」
「ほらね」
「言うの遅くないですか?」
「転ぶ前に言ってあげたでしょ」
リザはにやっと笑った。
ノエルがぽつりと言う。
「アレンは転ぶ」
「転んでない」
「今は」
「今はって言うなよ」
リザが笑う。
ノエルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ラトム村が、少しずつ遠ざかっていく。
俺たちは南へ続く古い道へ入った。
ギルドが来る前に。
父さんの手がかりを探すために。
ノエルを、誰かのものにさせないために。
そして、リザは帰る場所を背に、俺たちと同じ道を歩き出した。




