袖蛍
蛍の季節にぴったりの新作です。
続きもありますが、まずは冒頭部分を短編として。
続きは、追々書いていこうと思います。
目を閉じなくても真っ暗な闇の中に居た。
つい今し方歩いてきた畦道も既にあやふやで、街灯もない田圃の暗闇にすっかり溶け込んでしまっている。
6月も半ば頃、ここ近年はこの時期も大分暑くなってきたけれど、夜はまだ少しひんやりしていて、甚平の半袖短パン姿では隙間から流れ込んでくる風が少しだけ寒かった。
サラサラと、すぐ側に流れてる用水路の僅かな水流の音が聞こえるが、それを上書きするように蛙の合唱が鳴り響いていた。
ケロケロだったり、グワッグワッだったり、思い思いに鳴いてる蛙たちの声は、大きな塊となって耳の中に入り込んでくる。
蛙の合唱とはよく言ったもので、それぞれ鳴き方も違って、タイミングも示し合わせてる訳ないのに、折り重なって一つの大きな調和となっていた。
でも、それがこの真っ暗な闇の中では怖かった。
すぐ側にたくさんの蛙たちがいて、僕を取り囲んでじっと様子を伺ってる。
そんな想像をしてしまって、淋しさと一緒に恐怖が込み上げてきた。
あとで思い返すと、蛙が苦手になってしまったのはこの時のせいじゃないかと思う。
「……なっ」
声を出そうとしたけど、喉に張り付いて上手く声が出ない。
この暗闇の中で下手に声を出してしまったら、自分の居場所がバレてしまって一斉に襲い掛かってくるんじゃないか。そんな想像までしてしまっている。
怖くて、ギュッと目を閉じてしまいたかったけど、そしたら本当に何も見えなくなって、それはそれでもっと怖い。
だから、朧げに見える目の前の道と、隣に広がる森と夜空の境をただただ見つめていた。
ガサガサ!
その時、突然隣の茂みが大きく音を立てて、思わずビクンと身体が跳ねた。少し遅れて、ドクンドクンと物凄い速さで心臓が早鐘を打ち始めた。
さっき、変な想像をしてしまったからだ。
隣の茂みから、大きな何かが飛び出してくるんじゃないか、と想像しかけて止めた。これ以上の想像は、したくない。
しかし、身体は正直で恐る恐るその音のした方向に目が行ってしまう。
そして、
「ワッ!」
「うわー!!」
尻餅をつかなかったことが、残されたなけなしの自分の小さなプライドだった。
でも、みっともなく悲鳴を上げながら、身体はカエルみたいにピョンと飛び上がっていた。
「あはははは!」
それを、目の前の少女は本当に楽しそうな声を上げて笑っていた。
白い浴衣姿は、暗闇の中でぼんやりと見えていて、所々に描かれている紫陽花の花模様がユラユラ揺れている。顔はよく見えないけど、きっと、いや絶対大きな口を開けて満面の笑顔だ。
「……どこ行ってたの」
暗闇で顔が見えてないのを良いことに、思い切りブスッとした顔をして精一杯声で不満を主張した。
「うんー?」
しかし、そんなのは意にも介さず少女の声はとても楽しそうだ。
「健人君を脅かそうと思って、隠れたの」
そして、平気でそんなことを言ってくる。
「…なっちゃんが、迷子になったかと思って心配したのに」
声が小さくなってしまったのは、嘘と恥ずかしさが入り混じったからだと思う。
心配したのは本当だった。でも、このおてんばな女の子、なっちゃんのことだから、自分のことを脅かそうと急に何処かに消えてしまったことも、一応想定内だ。(そう思っても、怖いものは怖い)
だから、声が小さくなってしまったんだ。
「ふーん…?」
顔は見えないはずなのに、なっちゃんは下から覗き込んできた。その頃は、なっちゃんの方が身長はほんの少し高かったけど、こんな風にしてくるのはわざとだ。その証拠に、声はあからさまに楽しんでいた。
なっちゃんに、きっとそんな嘘はお見通しだった。
「来て」
短く言うと、なっちゃんは突然僕の手を取った。さっきとは違う意味でビックリして、思わずなっちゃんの顔を見た。
なっちゃんは、既にこちらは見てなくて、僕を引っ張ってどこかに歩き出そうとしていた。
「えっ…なに?なに?」
何の説明もなく歩き出すので、流石に戸惑った。しかも、結構な速さなので、慣れない草履だと、少し足がもつれそうになる。
「いいからいいから」
しかし、なっちゃんはちゃんとした回答はせず、その声はとても楽しそうだった。
ーーいつもそうだ。
こうして手を繋いでないと、この子はどんどんどこかに行ってしまう。
だから、僕は離れないように、でも必死だと思われたら恥ずかしいから、小指だけ外して、「仕方ないなぁ」をアピールする。
変わり映えしない道をしばらく歩いて、なっちゃんは突然何もないところで茂みに向かって方向転換した。
「えっ?えっ?」
ガサガサという音が聞こえて、なっちゃんは躊躇いなく茂みの中に入っていった。といいつつ、手を繋いでいるからすぐにそれに巻き込まれて茂みの中に足を踏み入れた。曝け出していた素足に葉っぱが擦れて少しの痛みとこそばゆさが走った。
しかし、生い茂っているように見えた茂みの向こうは、人が普通に通れるけもの道になっていた。周りは生い茂った草木が広がっているのに、その道だけは踏み慣らされていて、土の地面はコンクリートよりも草履の足には歩きやすかった。
「どう?秘密の抜け道みたいでしょ?」
なっちゃんは、ほんの少しこちらを振り返って自慢げに言った。
しかし、僕は戸惑いの方が大きくてロクに返事もできず、せいぜい小さく頷くくらいしかできなかった。
そもそも、抜け道と言ったけどどこに向かっているか分からないし、そもそもどこか向かう先があるのかどうかも分からない。
でも、なっちゃんは迷いなく先へ先へと暗闇の中を歩いていく。僕から見えているのは、なっちゃんの白い背中だけで、周りは森に覆われていて朧げな木々の輪郭しか分からない。ほとんど何も見えていないだろうに、怖くないのかなと思ったけど、慣れた感じだし、なっちゃんのことだから全然こういうのも平気なんだろう。
「……あっ!」
なっちゃんの弾んだ声が聞こえたと思ったら、突然なっちゃんは足を止めた。突然の急停止に、つんのめってぶつかりそうになるのを、必死に両足に力を込めて、何とか耐えた。
「もう、急に何?」
流石に、さっきから気まぐれが過ぎると、本気の抗議の声が出た。
しかし、「しーっ…」となっちゃんは唇に指を当てる仕草をして、僕の抗議をすぐさま諌めた。みっともないけど、それをされて僕の抗議もすぐに萎んだ。
何かいるのかな?と背伸びをしてなっちゃんの向こう側を見ようとしたら、なぜかそれをなっちゃんは遮ってきた。
「見ちゃダメ」
見ちゃダメとは?そう言われたら、気になって仕方ない。
「健人君は、このまま目を閉じてて」
周りを雑木林で囲まれて、ただでさえほとんど見えてない暗闇の中で目を閉じてとは、何とも無茶なお願いだ。
「なんで?」
「いいからいいから」
分かっていたことだけど、やはりなっちゃんは何も教えてくれない。
「大丈夫、今度は勝手にどこかに行ったりしないし、ちゃんと手も繋いでてあげるから」
見えてなくても、なっちゃんがニヤニヤしていることは分かった。
でも、確かにこの暗闇の中で目を閉じてと言うのだから、それくらいはちゃんと守ってくれないと本当に困る。
「…本当に、勝手にどっか行ったら流石に怒るからね」
結局、素直に従ってしまう自分がほとほと情けないけど、目一杯、不服そうな声で言った。
「ちゃんと、目閉じた?」
「閉じたよ」
正真正銘真っ暗な中、繋いでるなっちゃんの手の温もりだけが分かった。
「…よし、本当に閉じてるみたいだね」
どうやって確認したのか。何だか、目の前で何かが横切ったようだが、それを確認するのは何となく怖い気がするのでやめておく。
「よし、じゃあ行くよー」
呑気な声を出して、なっちゃんは歩き出した。目を閉じていることを少しは配慮してくれているのか、足取りは少しゆっくりだった。
本当に何も見えない中で、草を踏み締める音と微かな風の音だけが聞こえる。
流石に、完全に目を閉じて外を歩くのはとても怖かった。少し歩いたくらいで、まともにまっすぐ歩けているかどうかも曖昧で、身体も不安定でぐらついてた。
それでも、思ったほど不安じゃないのは、なっちゃんがちゃんと手を握ってくれて、その手がとても温かかったからか。
「着いたよ」
なっちゃんの静かな声が響いた。
歩いたのはきっと、ほんの少しだけだった。でも、そのほんの少しの時間とほんの何十歩の歩みがその時はやたらと長く感じた。
なっちゃんに手を引かれて、横並びになるように誘導される。まだ目を閉じていたので、少しつっかえながら何とかなっちゃんの横に並んだ。
「目、開けて良いの?」
「いいよ」
なっちゃんの声は、嬉しそうだった。
そうして、目を開けた。
--僕たちは、星空の中に居た--
すぐ目の前に、点滅する光が無数に飛んでいた。それは、ゆらりゆらりと空を漂っていて、何も見えない暗闇に光を灯していた。
辺りはやけに静かで、微かに水の匂いがした。
「…ほたる?」
目の前の光景に圧倒されて、ようやくその言葉だけが漏れ出た。
「うん、蛍」
なっちゃんの声は、とても嬉しそうだった。
この辺りは蛍が有名な地域で、町おこしとして「ほたる祭り」というのも行われていた。しかし、それは限られた場所だけの話で、それ以外の畦道では歩いていても時たま蛍を見ることはあっても、一つ,二つくらいの小さな光の粒で、ちょっと先に進んで振り返るともう見えなくなるくらい頼りない光だった。
でも、今目の前に広がっている光景は、全く別物だ。
それはまるで、
「天の川みたいでしょ?」
そう、天の川みたいだ。
視界を埋め尽くすほどの蛍の群集。
目の前は、小さな池になっていて、水面に光を映しながら音もなく沢山の蛍が舞っていた。
それは、夜空をそのまま目の前に降ろしたような光景だった。
ゆったりと目の前を漂う流れ星。空から落ちてきた星たちが、来たこともない場所に戸惑って、ただフワフワと辺りを彷徨っているような、そんな光景。
でも、目の前にいるのは全て紛れもなく生き物たちで、それぞれが意思を持って今この場を照らしている。
それは、とても幻想的で、そしてどこか儚い風景だった。
「これをどうしても見せたくてね。夏希ちゃんのサプラーイズ」
そう言って、なっちゃんは悪戯っぽく笑って、手を離した。
手が離れると、繋いでた手はジンジンと少し痺れていた。握っていた時は気付かなかったけど、結構強い力で握られていたみたいだ。
そのせいか、手を離されてもまだ少し温かい。
「どうして、こんな場所知ってるの?」
蛍がよく見えるエリアからは少し離れた場所なので、こんなに沢山の蛍が集まっている場所なんて、両親にも聞いたことはなかった。
「ふふーん、スゴイでしょ?前に、お父さんに教えてもらったの」
まるで、自分が見つけたかのようになっちゃんは偉そうだ。
「そうなんだ。お父さんと一緒に来たの?」
「小さい時に一度だけね。正直、ほとんど場所覚えてなかったけど、ここ歩いてたら何となくこの辺りじゃないかと思って来てみたら、ね」
そんなあやふやな感覚であの暗闇の中を一人で突き進んでいたのかと思うと、素直になっちゃんの度胸に感心する。
でも、
「危ないから、一人で森の中に入っちゃダメだよ」
こんな暗闇の中で、しかも森の中で迷子にでもなったらそれこそ取り返しがつかない。
「あー、せっかく私が勇気出してこの場所見つけたのに、むしろ感謝してよね」
そして、プイとそっぽを向かれてしまった。しかし、「勇気を出して」とポロッと出たなっちゃんの本音が垣間見えて、思わず頬が緩んでしまった。今の顔を見られたら、今度はそっぽでは済まずにきっと平手が飛んでくる。
会話が止まって、二人で目の前の光景に見入った。
本当に、こんなに沢山の蛍が目の前を飛んでる光景は初めてだった。こんなにあちらこちらで光っていると、「飛ぶ」というより「舞う」という形容がこの風景には相応しかった。
「本当に、天の川みたいだね」
さっき、なっちゃんに言われたことを口に出してみた。
「そうだね。と言っても、私は天の川って見たことないけど」
それはそうだ。田舎に住んでると星空はよく見るけど、いわゆる天の川というのはなかなかお目に掛かれるものではない。
「僕も、写真でしか見たことない」
「私も。きっと、すごく綺麗なんだろうなー」
なっちゃんの声は、どこか遠くを見ているように響いた。
--後で思い返すと、自分が何でサラッとそんなことが言えたんだろうか。
きっと、ここに連れて来てくれたことのお返しがしたかったんだと思う。
「じゃあ、今度は天の川を観に行こうか」
その時、気のせいか蛍の光が少し強くなったように思えた。
少しだけ強く灯った光の中で、僅かになっちゃんがこちらに顔を向けた気がした。
「えっ…?」
なっちゃんは、小さく驚きの声を上げた。
「どこで見れるか分からないけど、きっと中学生になったら観に行けるよ。電車とか乗って」
田舎に住んでる僕たちは、電車に乗ったことも数えるくらいしかなかった。だからこそ、電車に乗ってどこかに行くというのは、それだけで大冒険だった。
今より大きくなったら、電車に乗って天の川を観に行く。
それは、とてもワクワクする提案に思えた。
「……」
なっちゃんは、正面に向き直って何も言わなかった。
でも、ふと袖を引っ張られる感覚があった。
「……約束だよ」
さっきまでの元気な声とは打って変わって、消え入りそうな声でなっちゃんは言った。
キュッと僕の袖を遠慮がちに引っ張りながら、でもその手は何だか小さく震えているように感じた。
それは、さっき僕を森に連れて来たような強引さはなく、か弱い女の子の手だった。
「うん、約束」
それでも、なっちゃんは袖を掴む手を離さなかった。
そして、それ以上なっちゃんは何も言わずに目の前の蛍を見続けていた。
僕も同じように目の前の蛍を見つけた。
それはやっぱり、ずっと見てても飽きない幻想的な風景だった。
その中で、なっちゃんは袖を掴む手を離さなかった。
さっきまでは普通に手を繋いでいたし、急にどうしたんだろうと少し戸惑ったが、すぐに合点がいった。
強がっていたけど、きっと改めて夜の森にいることが怖くなってきたんだろう。
そう思うと、さっきまでは散々振り回されてここまで連れて来られたけど、今は少しだけ僕の方が勝ったような気がして、誇らしく暗闇の中で小さく微笑んだ。