6章 尾張遠征 3 寿桂尼(4)
「二割か。二割で今川は滅亡かの」
「いえ、そこまでは。最悪のことが起きても御屋形様はおりますし、今川は大大名であることに変わりはありませんわ」
御屋形様は懐から扇子を取り出すと、少しだけ開いた。
「今から扇子を開こうとしている。これが織田じゃ。皆、これから開かれるのを当然と思い、どのような絵が描かれておるか、ワクワクしておる」
今度は扇子を全部開いてから、少しだけ閉じた。
「これが今川じゃ。皆はこれから閉じられると思っておる。どちらに人は惹きつけられようか」
「領国の大きさではなく、勢いの差が重要だと仰るのですね」
「そうじゃ。して冬青姫はわしに、出馬せよ、と言いたいのであろう」
姫は両手を揃えて突き、深々と頭を下げて言う。
「はい、なにとぞ」
御屋形様は、しかしな、と言うと、腕を組んで何やら考え始めた。
しばらく経った時だった。
「五郎さま。五郎さまが心配しているのは、あたくしのことでしょう」
ハッと御屋形様が御前様を振り見る。そして、御屋形様は御前様ににじり寄ると、手を取った。
「そなただけが気がかりじゃ。わしが出馬すれば、駿河はもぬけの殻。何かが起きたら、そなたを護れぬ。それだけは嫌じゃ」
御前様は残りの手で御屋形様の手をなでると、
「あたくしは大丈夫ですわ。何がっても、この両の足で逃げ延びて見せますわ。行ってらっしゃませ」
僕は姫に、姫、と小声で声を掛けた。姫は僕を振り返ると頷いた。言いたいことは伝わったようだ。
「御屋形様、寿桂尼さまから伝言がございます。おばばはまだまだ元気であるし、ひよっこの尻拭いは昔から得意だ、とのことでございます」
「ほら、五郎さま。おばばさまも、やる気満々ですわ。あたくしは大丈夫。心配いりませんわ。今はお家の大事。なすべきことをなさいませ」
御屋形様はじっと目を閉じ、握った手を額に押しつけるかのようにして拝むと、目を見開いた。
「わかった。行って参る。そなたには心配を掛けるやもしれぬ。許せ」
御屋形様は再び中央に戻ると、服を整え、正俊殿を見た。
「じい、意見があったら何なりと言っておくれ」
正俊殿は握り拳の両手を開いて床につけ、落ち着いた様子で答える。
「拙者もお供させていただけると考えて、よろしゅうございましょうか」
「当然じゃ、嫌だと言ったら、馬に括り付けて連れて行こうと思っておったところだわい」
「有り難き幸せ。なれば、拙者に異存はござりませぬ」
御屋形様は正面の姫の方を向くと、その表情は先ほどと打って変わって勇ましいものになっている。
「改めて宣言しよう。冬青姫。わしは今川を救いに出馬する。これでよいな」
はっ、と言って深々と頭を下げた姫は、感無量といった感じだ。僕は御屋形様が全てをうまくやってくれるんだと思った。
御屋形様の心配は、駿府の守りがガラガラになってしまうこと。きっと道場の子供たちも臨時にお役目を言いつけられ、警護に当たるんじゃないかな。そうだとしたら、源太と見回りをすることになるかもしれない。それはそれで新鮮で楽しみでもある。兵がどこからか湧いてこない限り、このことは確実なような気がする。
……あっ。
口を挟んでいいかどうか、しばらく迷ったのち、僕は言うことにした。
「ちょっといいかな」
恐る恐る聞いた僕に、御屋形様が、
「何か良い案でも浮かんだかの?」
と気軽に応じた。正俊殿も咎める様子はない。勇気を振り絞って続ける。
「今川家って同盟国があったでしょ。北条家と武田家だっけ? 北条家と武田家に、今さら西の戦場に行って、と言っても無理だろうけど、もぬけの殻になる駿府を守ってもらうことはできないの?」
姫をはじめ、その場にいた全員が目を見張った。
「その考えはなかったわね」
「そうじゃの。砦や城であれば、同盟の軍勢に詰めてもらうこともあろうが、本拠地を同盟と雖も他家に預けるとは、聞いたことがないの」
「御屋形様、どうなさいます?」
「うむ、今川の若い当主は矜持がないのか、と罵られてしまうやもしれぬが、小田原の父上殿を頼ろうか。さすれば、駿府防衛の大将はお志寿の兄、助五郎しかおらぬな」
「あたくしも、父上に書状を書きますわ」
「そうか、頼む。書状が小田原までは行って帰って二日。わしが残りの兵を各地から集めて出発できるのは、丸二日かもう少しかかると見て間違いない。小田原から兵が到着するまで多少時間があるやもしれぬが、危険は格段に減る」
「決まりですね」
「うむ、さっそく書状を作らねばならぬ故、ご苦労であった。セイも良い案を出して大義であった。セイもここに呼んでよかったわい」
僕と姫はそろって頭を下げた。思い付きだったけれど、褒められてむず痒くなるほどうれしい。今日一日、雨の中を駆けずり回った甲斐があったというものだ。雨は少し弱くなってきた。明日は晴れて欲しい。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。




