6章 尾張遠征 2 出陣(3)
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松平元康出陣の二日後、永禄三年五月十二日。泰朝を含めた今川軍本隊が、駿河を出立をしようとしていた。
総大将は太守今川義元、朱色の漆を塗った輿に乗り、その周りを、小鹿、瀬名、関口、新野といった一門衆や、三浦、朝比奈、葛山、岡部、庵原、由比、蒲原、牟礼、久能、藤枝といった家来衆が固めている。朱塗りの輿は、特別に幕府より認められた者のみが乗ることを許されるもので、敵である織田家との格の違いは誰が見ても明らかだ。沿道に見物に来た町人たちが、目の前を通る塗輿を観て一様に感嘆のため息を漏らしたのは言うまでもない。
その晩、志麻は夢の中で目を覚ました。今日見た塗輿の話を、早くお師匠にしたい。
「こんばんは。お師匠」
うむ、とお師匠が応じる。
「お師匠は見たのかしら? 太守様の行列を。あんな威風堂々とした塗輿なんて見たことがないわ。絢爛豪華とは違うけれど、遠くからでも存在感があって、そうね、威厳があるというのかしら、見ている人たちは、皆、もう言葉にならないって感じで、おーともあーとも言えない声を漏らしてたわ。改めてわたしも付いて行きたかったと思ったわ。あの塗輿の太守様の一員になれたら、どんなに誇らしいことか。どんなに心強いことか。そう思わない武将はいないでしょうね。そう思うでしょ、お師匠?」
「……うむ。見た」
お師匠が、どのようにして「見る」のかは分からないけれど、見たそうだ。それにしては、反応が薄い。薄すぎる。
「お師匠、今日は何か変ね」
お師匠、白蛇の表情は相変わらずないし、その瞳も深いだけで、何かを読み取れる訳でもない。けれど、何となくだけれど、志麻はお師匠の空気を読めるようになってきていた。
「そうであるか。そなたには、そう見えるか?」
「ええ、何か問題があるのなら、教えてちょうだい」
「うむ。まぁ、言うても良いか。卦が悪いのだ」
け、といわれてすぐに意味が出てこない。志麻は頭を回転させて字を探した。
「卦? 八卦とか六十四卦の占いの卦?」
「そうじゃ。その卦じゃ。何度やっても、良くない卦が出る」
「お師匠、武経七書は基本的に占いには否定的だわ。李衛公が、愚か者を操る術として利用するくらいだわ」
「そうであるな。それは、占いが当てずっぽうで意味のないものであるからじゃ。しかしの、我もそなたもここに居る」
確かにそうだ。怪しげな術に騙されるな、と武経七書は警告するけれど、わたしたちはここにいる。全てのそれを否定してしまえば、自分の正気も、お師匠の存在も、両方を否定するようなものだ。
「そうだわね。その卦は、意味があるのね」
「うむ。あくまで占いなのじゃが。あるかもしれぬ、というところか」
「では、あるとして考えてみましょうか?」
「そうじゃな。弥次郎殿はこの出陣について、何か言うておったか」
もちろん志麻は、兄泰朝を捕まえて、あれやこれや聞き出そうとしたことは言うまでもない。言えないこともあろうが、言えることは全て聞き出せたはずだ。
「そうねぇ、前々から準備をしていた。境目の城が包囲され、城にある兵糧の問題で、この夏を期限に救援に向かわなければならなかった」
「自由に選択できた出陣ではなかったのじゃな」
「言われてみればそうね」
「承芳殿が出馬することに関しては、何か言っておったか?」
この「承芳殿」には、一瞬考えてしまう。栴岳承芳。太守様の僧侶時代の法名だ。
「太守様自らが出馬なさるということで、出兵の規模が増したそうね。そもそも太守様が出馬するのは、塗輿に乗る姿を見せて織田家との格の違いを見せつけるためだそうよ」
「織田弾正忠家は、守護の下の守護代、さらにその下の三奉行の一つに過ぎなかったからな。視覚的にその格の違いを喧伝するためか。じゃが、これだけの出兵じゃ。威圧するだけで終わろうか?」
「兄さまは何て言ってたかしら……。立て籠った城からも、悠然と動く塗輿が見えるだろう、格の違いに兵たちの士気も落ち、戦わずとも降伏するかもしれない。そこまでうまくはいかないとしても、兵の士気を落とすことに利はあっても損はない、かしらね」
「今さら織田家の者が、塗輿を見たからと言うて士気を落とすものだろうか。あの家は尾張守護を軽んじておる。他国の守護に恐れをなすとは思えぬな」
確かにそうだ。織田家が、信長が幕府の秩序を重んじるのなら、未だに守護代の下の三奉行の一つに過ぎないはずなのだ。
「そうね。言われてみれば、そう……だわ」
「他に弥次郎殿は、何を言っておったか?」
「ええと……、この戦に勝てば、海路が開くから物流も楽になる、だったかしら」
「海路、と言うたか?」
「はい、海路と言いました。織田弾正忠家は津島がもともと根拠地。織田を滅ぼせば、津島が手に入ります」
「津島のあれは、海路とは言わぬであろう。言うなれば渡し、か」
「おかしいわね……、何か、わたしは勘違いをしているのかもしれない……」
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
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誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。




