5章 初陣 4 采配(4)
「弥次郎殿、入りますぞ」
ズバッ、と襖が両に開かれ中に入ってきたのは、二十歳前後の美女。艶やかな紅い小袖の上に、白地に若い緑の新芽の柄が映える打ち掛けを纏っている。女性にしては背が高く、また整った顔立ちで、石炭のように真っ黒で艶のある髪が印象的だ。名は於清。周囲からは芙蓉殿と呼ばれている。今川一門の関口刑部少輔氏純の娘にして、松平元康の妻である。
芙蓉殿はスタスタと御屋形様に近づくと、懐から取り出した扇子を御屋形様の鼻先へ突き付けた。
「この痴れ者め。我が殿を、またもや連れ回しおって」
怒り心頭だ。芙蓉殿はその美貌のみならず、気の強さでも有名であった。
「芙蓉殿、元気そうで何よりだのう」
目の前の扇子が見えていないかの如く、御屋形様は鷹揚と応じた。
「話を逸らすでない。聞くところによると、賊退治に我が殿を連れ回したそうではないか。まるで一兵卒のような扱い。断じて許されぬ。我が殿が名も無いような小者と刃を交えるなぞ、殿の格に傷がつくわ」
「なに、次郎三郎はすでに初陣を済ませておるし、その時に、小者なぞいくらでもあしらっておろう。それに、冬青姫がよき策を出してくれての。次郎三郎は弓を射かけるだけで、刀は振るっておらぬ。加えてこの通り、誰も傷一つ受けずに賊を捕まえたでのう」
「それは結果論じゃ。我が殿を連れ出した時には、冬青姫の策はまだ出ておらなかったであろう?」
「なかなか勘が鋭いのう」
「ほれ、我が殿も黙っておらんで、ちぃとは言うてくだされ」
話を振られた岡崎殿は、
「そうじゃん。於清の言う通りじゃん。五郎はもっと俺を大事にすべきじゃんか」
と、意気揚々とまくしたてた。
御屋形様は大勢が不利と見てか、兄さまに自分に加勢するよう、目でしきりに合図を送りだした。けれど、兄さまはは気付かないふり。甘酒をずるずるとすすると、なかなかだな、だそうだ。
それを見た御屋形様は、今度はわたしに目線を向けた。
――えっ、わたし!? わたしが加勢するの? そんなの絶対に無理だわ。
芙蓉殿は、そのびしっと伸びた背筋に美しい立ち振る舞いで、若い駿府の娘の憧れの的であった。若い娘で芙蓉殿に加勢しようとする者は数多くいるけれど、芙蓉殿に対峙しようとする者は、ほとんどいない。志麻も例外ではないのだ。
志麻も慌てて目線を逸らすと、甘酒をすすった。
米の甘さが口に広がり、米の香りの向こうに果実を思わせる芳醇な香りが鼻を抜けていく。
「おいしいわね。兄さま」
兄さまと目と目で合図をし合い、御屋形様と芙蓉殿の争いから距離を取ることを確認し合った。
この様子に、当てを外した御屋形様は逃げに出た。
「おお、そうであった。これから正親町三条殿が館に来るのであった。こうしてはおられぬ。帰らねばならぬのう」
全く嘘くさい一人芝居。台詞が棒読み気味だ。御屋形様は立ち上がると、そそくさと部屋を後にしようとする。話は終わっておらぬ、と言う芙蓉殿の抗議は耳を塞いで聞こえないふり。そして、敷居の前で振り返ると、
「当分は冬青姫の策でまいろう。その後のことは追って話をしようのう」
と、言い置いて退散してしまった。取り残されたわたしたちは、鳩が豆鉄砲を喰らったように目を丸くしたけれど、芙蓉殿だけは扇子を開いて口元を隠し、ほんに五郎殿は困ったお人じゃ、と独り言を言うだけで泰然としている。そして、
「して、今日は何の集まりだったのじゃ?」
芙蓉殿が志麻に問いかけた。何の集まりかは知らず、場所だけ掴んだのでここまで来たらしい。
「捕らえた賊から背後を聞き出す算段について、話しておりました」
「そうか。ところで冬青姫、その甘酒は美味しいかえ?」
わたしと兄さまの会話も聞いていたようだ。
「はい、とっても」
「妾にも頂けるかえ?」
「ええ、もちろん。けど……」
志麻は芙蓉殿のお腹をちらりと見た。ほんの些細な一瞬であったけれど、その一瞬を芙蓉殿は見逃さなかった。
「判ってしもうたか。そうじゃ、二人目じゃ。竹千代の弟か妹となる子じゃ」
「やはりそうでしたか。そうではないかな、と御姿を見た時に思いました。おめでとうございます」
皆が口々に祝福の言葉を述べた。岡崎殿と芙蓉殿が、ちらりと目と目を合わせる姿など、仲睦まじくて素敵だ。
「かたじけない。冬青姫は、お腹の子にお酒は悪いと言いたいのじゃな」
「そうです。少しの量も、良くないと聞きましたので」
「志麻ちゃん、それなら大丈夫だわ」
外から声がして、見ると、敷居の外に母上と母さまがいつの間にか来ていた。母さまはお盆に湯呑を三つ載せている。
「今日の甘酒は米麹で作られているから、いくら飲んでも酔わないわ。だから、於清ちゃんが飲んでも大丈夫なのよ」
部屋に入った母上は芙蓉殿に座るよう促すと、母さまが湯呑に入った甘酒を差し出した。一口、芙蓉殿が口をつける。
「美味しい。これはどこで手に入れたのじゃ?」
「陽亀堂よ。最近売り出したの。於清ちゃんも行ってみてね」
母上が言う陽亀堂とは、わたしとセイが安倍川餅を食べたあの店のことだ。
それから昼過ぎまで、他愛もない話で花を咲かせた。子どもが産まれるのは春過ぎだそうだ。芙蓉殿と岡崎殿の子だから、きっとかわいらしいお子が産まれるだろう。産まれたら合わせてもらえる約束をした。春が待ち遠しい。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
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誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。




