4章 世の理、人の理 1 月は照らす(3)
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その後、若さまは仕官の話をせず、姫の昔話をしてくれた。
一つ目は五歳の頃のこと。桜の花をとても気に入ったからと言って、木ごと持ち帰りたいと駄々をこねたという話。
二つ目は八歳の頃のこと。今度は柿を気に入り、たくさん食べたいと種を庭に植え、実が成るのを待ち続けているという話。まだその柿は実をつけていないそうだ。
その他にも、三年前、近くのお寺に女房狂言の一座、つまり女性の芝居の一座が来た時の話も聞いた。姫はその狂言を見て、すごく衝撃を受けたらしい。しばらくは、狂言師になろうかと真剣に悩んでいたそうだ。
どれも姫の口からは決して聞けそうにない話ばかりで、あっという間に時が過ぎた。
そのような訳で、若さまの部屋を出るころにはすっかり日は沈んでいた。
「お日様がないと、廊下はやっぱり寒いわね」
姫が襟元を押さえ、身を震わせて言った。
「そうだね。寒い。まだ、これからも寒くなるの?」
「これから、冬の終わりも終わりになるわ。そうしたらギュッと寒くなって、すぐに冬は終わりよ」
「ここは雪は降るの?」
「滅多に降らないわ。ほんのたまに風花が舞うくらいだわね。あとひと月で春だから、この冬は見れないかもしれないわ」
「あとひと月も寒いのかぁ」
「あら、セイはせっかちなのね」
「そうかな? ひと月は長いよ」
「寒いと長く感じるものよね。早く春が来ないかしら。セイ、春になったらお花見よ」
「若さまが話してくれたのにあったお花見だね。春だったんだ。僕も参加したいけど、早く王国に帰らないと。僕はここに、もうひと月もいるのだから」
「藤枝の長慶寺でひと月、この屋敷に越してさらにひと月経ったわね。そう思うと時が経つのは早いわね」
「えっ!?」
思わず驚きの声が口に出た。僕が数えた日数だと長慶寺で半月、この屋敷でも半月だ。合わせてひと月のはずだ。
「ねぇ、姫。僕はそんなに、ここにいたの? お寺で半月、ここで半月じゃないの?」
「セイを見つけた日のことは、よく覚えているわ。雪斎様の月命日の次の日だから、十一月十一日であっているわ」
「ちょっと待って、十一月って! 十一月なんてないでしょ。一年の終わりは六月だよ」
「こちらの一年の終わりは十二月よ。一年はだいたい十二か月。お月様が十二回満ちて欠けるわ」
「十二回満ちて欠けたら二年になっちゃうよ。季節だと二回繰り返しちゃう」
姫が怪訝な顔で、確かめるように言う。
「お月様が十二回満ちて欠けたら、季節が一巡するわ。セイ、あなたの国では、お月様は何日で満ちて欠けるの?」
「そんなの六十日に決まっているよ。当たり前でしょ?」
「いいえ、三十日よ」
血の気がすっと引いていく。
「僕の国では聞いたことがないけれど、こちらでは場所によって変わったりするの?」
「いいえ、そんなことはないわ。どこでもお月様の満ち欠けは三十日よ。これは天の理だわ」
「どういうことなの? ねぇ、姫、これはどういうことなの?」
「今、思い出したわ。わたしのお師匠が、セイは異なる世界から流れ着いたと言っていたわ」
「異なる世界……」
「ええ、そう。この世ではない世界よ」
「歩いても、馬に乗っても、船に乗っても、飛んで行っても、王国には帰れない?」
「お師匠は、こちらから向こうへ帰ったなんて話は聞いたことがない、と言っていたわ」
僕も聞いたことがない。異なる世界へ行って帰ってくる話や、そんなことが出来る魔法も、聞いたことなど一度もない。
「姫……、僕はどうしたらいい?」
姫は僕の問いには答えず、ただ首を横に振った。
「セイ、あなたは混乱しているわ。疲れてもいるわ。今日はもう休みましょう。ご飯も食べなきゃだめよ。明日、町に行ってみましょう」
姫はそう言うと、そのまま僕を離れの部屋に送り届けた。食事はほとんど喉を通らず、横になっても眠れる訳もなかった。
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明くる日、姫に連れられて駿府の町に出た。
商店が軒を連ねる大きな通りを、隅から隅まで話を聞いて回った。安倍川という大きな川の支流、水運で荷物を積み下ろす岸で働く男の人たちにも聞いて回った。
果たして、誰一人として王国を知らず、皆、月は三十日で満ち欠けし、一年は十二か月だと口を揃える。
藤枝の長慶寺でも、朝比奈家の屋敷でも、この駿府の町でも、知らないものばかりなのはそういうことだったのだ。
僕は決して帰れない。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
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誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。