2章 幻影 2 嘘と真(4)
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兄さまに対するセイの初顔合わせが終わった。
初め、わたしが今までの経緯を説明し、兄さまはそれを、うん、うん、と聞いていた。一通りの説明が終わると、兄さまはセイを呼び、じっと視線を合わた。言葉の通じない相手でも、目を見ればいいヤツかそうでないかは判るものらしい。わたしは、セイがいい人間だと信じていたけれど、少しドキドキしながらその様子を窺った。
しばらくすると、兄さまはセイから視線を外し、わたしの方に顔を向けた。そして、いいヤツに違いない、と宣言した。続けざまに、体が動くようになるまで屋敷に置けばよい、とも言ってくれた。
さすが兄さま。話が分かるわね。
こうして、わたしにとっての気がかりの一つが前進した。
これが昨日の夕方の話。今は昼を過ぎたころである。
今もまた、志麻は孫子と睨めっこをして、あーでもない、こーでもない、と唸っていた。こちらがもう一つの気がかりで、一向に解決の目途が立っていない。
最後の授業の内容を思い返してみる。
セイのことを雑談し、授業を始めてからは主導権の獲得について教えを受けた。ここでお師匠を呆れさせるような受け答えはしていないはずだ。
続いて、戦いたいか、とお師匠に問われ、わたしは古典を引用して答えた。
「兵は凶器」は『国語』を始めとして多くの古典で言及されている。「兵は不祥の器」は『老子』からだ。
この格言は唐の国の兵法の大前提であり、間違えようのないほどの常識と言っても過言ではない。
志麻は、何度繰り返したか分からないこの問答を、今日も繰り返した。
同じ考えが頭の中を、ぐるぐる、ぐるぐる、と駆け回る。あまりによく空回りするものだから、本当に目が回りそうだ。
「んー、気分転換が必要だわね」
背伸びをして独り言を口にすると、志麻はセイの様子を見に行くことにした。
セイの部屋は、志麻の部屋のある棟と渡り廊下でつながった隣の棟にある。机の前から離れて少し歩くだけでも、気分は違うはずだ。
部屋を出て廊下を歩く。突き当りが渡り廊下へ通じる引き戸だ。
志麻は引き戸を開け、渡り廊下へと出た。
緩やかに流れる風の冷たさが、凝り固まった頭に気持ちいい。渡り廊下は板敷きの床と屋根だけで、壁はない。
庭を見ると、小さな池のほとりにある松が、水面に映っている。松の本体は揺れていないのに映った像だけがゆらゆらと揺れていて、志麻は水面が嘘をついているみたいだと思った。
「偽りを映す水鏡ね」
ひとしきりその水面を、ぼーっと眺めていた志麻は、急に寒さを感じた。
今は師走であるから、ほとんど外である渡り廊下に長くいれば当然である。
「寒いわね。行こうかしら」
いそいそと渡り廊下を進み、隣の棟の戸を引き開けて入った。
戸を閉め向き直る。廊下の突き当りの角。そこから現れた見覚えのある姿を見て、志麻はぎょっとした。
藤色の直垂(上級武士の装束)に見えるは、丸に二つ引きの家紋。それを纏うは……。
「お、御屋形様!?」
細身で引き締まった体格。優美な立ち姿。気品ある顔立ち。御屋形様と呼ばれるこの男は、今川家当主、今川氏真である。
「冬青姫ではないか。ちょうどよいところにいた」
御屋形様は軽く片手をあげ、あたかも道端でばったり出会ったかの如く歩み寄ってきた。御屋形様の後ろには、朝比奈の家の者が二人、あたふたと慌てた様子で追いすがっている。
「御屋形様、どうしてこちらに?」
「それはだな……」
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
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誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。