2章 幻影 2 嘘と真(1)
2 嘘と真
机に置かれた孫子を、志麻は朝から睨みつけていた。
分からない、分からない、分からない。何がいけなかったのか、分からない。
お師匠が授業を取り止めてから、五日が過ぎていた。
「あー、ダメだわ」
志麻は大きく後ろに寝転んだ。仰向けになると天井が見える。志麻は天井にある板の木目を今度は睨んだ。
志麻の自室は八畳の畳敷き。南は障子が張られ、西は棚と小窓が据え付けられている。北に襖があり、東は壁だ。部屋は朝比奈の館の奥にあるため、ここまで入って来る者も稀である。お景はこの奥まで立ち入るが、十兵衛は立ち入らない。そういう場所である。
「志麻ちゃん、ちょっといいかしら」
襖の向こうから母上の声がする。志麻は起き上がり、居住まいを正した。
「はい、母上。どうぞ」
襖がスーッと静かに開く。母上の後ろには、母さまとお景が見えた。
志麻には二人の母がいる。まず、志麻が「母上」と呼ぶ方が養母である。公家の中御門家の出身で、父、朝比奈泰能の本妻になる。年は五十六。白が混ざった髪を長く垂らし、どことなく華やかで、公家の出なのだな、という雰囲気を醸し出している。通り名は遠中殿。遠江の朝比奈家に嫁いだ中御門家出身の夫人、という意味だ。
もう一人の母は、志麻が「母さま」と呼ぶ方で、実母になる。朝比奈家の分家の出身で、子を授かれなかった母上の差配で、父、泰能の別妻となったのである。年は四十。髪を後ろにでまとめ、こちらは打って変わって質実。如何にも武家の嫁との印象を人に与える。通り名は常盤局。実家の常盤万作の生け垣が見事で、それに因む。
母上が、おいで、おいで、と手招きをして志麻を呼んでいる。なんだろう、と志麻は思いつつ、それに従い母上の方に近づいた。
ガバッ!
母上が急に抱き付いてきた。
「何ですか! 母上、突然に」
「何って、抱きしめたいだけよ」
そう言って母上は志麻の頭をナデナデする。
「わたしはもう十五です! 子供じゃないんです!」
「十五だなんて、当然知っているわよ。あー、よしよし」
今度は頬をすりすりしてくる。
「だ、か、ら、わたしは子供じゃないんです!」
「いいじゃない、志麻ちゃん。別に減るものではないでしょう」
「あー、母さまもお景も助けてよっ」
わたしは必死の目と声で助けを求めたけれど、母さまはやれやれと首を振って呆れている。お景はただ声を殺して笑っているだけだ。何も今回が初めてではない。たまにあることなので、どうにかできるものでないと、二人は諦めているのだ。諦めるなんてひどいわ。
「母上、まさかわたしに抱き付きに、わざわざここまで来た訳ではないですよねぇ」
「そんな訳ないじゃない。志麻ちゃんは母を何だと思っているの?」
「なれば、用件をわたしに伝えなければいけないんじゃないですか!」
「あっ、そうだったわね」
母上はやっと頭をなでる手を止めた。もう髪はぼさぼさである。
「弥次郎が帰ってきたわよ」
「えっ! 兄さまが!」
「ええ、それで呼びに来たのよ」
兄、朝比奈泰朝は仮名を弥次郎と言い、受領名は左京亮である。受領名とは主君、この場合は今川義元、氏真父子によって名乗ることを許された官職風の仮名である。
「兄さまは、兄さまは今どこに?」
「まだ表で荷を解いているわ。さぁ行きましょう」
……。
「あの、母上」
「なあに、志麻ちゃん?」
「放してくれなきゃ歩けないわ」
「そうだわね」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。