2章 幻影 1 講義と試練のこと(2)
かなりの時間をかけて、中の巻を読み上げた。夢の世界には太陽がないものだから、時間感覚が狂う。二時は経ったかも知れない。
「どうかな。読んでみての感想は」
「意味の取れる箇所と取れない箇所があるわね。それにしても、曹操が批判されていることには驚ろいたわ」
「うむ。戦の達人ともなれば、いかに英雄と雖も足りない部分が見えてくるのであろう。では、細かく見ていこうか」
「はい」
「まず、太宗は兵法書の中で最も孫子が優れていると言っておる。これは我も同感だ」
「ええ、世間で孫子以外を挙げる人を聞いたことがないわね」
「まずおらんであろう。そして、その中でも虚実篇が最も優れていると言っておる」
「虚実篇は確かに興味深い所だわ」
「この虚実を知れば、主導権を取れるからな。李衛公も強調しておるが、『人を致して人に致されず』、つまり、相手を思うがままに動かしても、相手の思うがままにはさせない。これが最も重要である」
「孫子では『兵は詭道なり』もまた有名だけど、どちらが優れているのでしょう?」
「うむ。これは優劣の問題ではない。詭道とは相手を欺くこと。『兵は詭道なり』は『人を致して人に致されず』のための方法である」
「手段と目的の関係なのね」
「左様。どちらも重要であるが、目的が手段をも含んでいるとも言える」
「では、お師匠。敵が実であればこちらは正で対応し、敵が虚であればことらは奇で対応すると読めるのだけれど、これはどういうことでしょうか」
ここは読み始めて、すぐに引っかかったところだ。
「うむ。最初におさらいをしようか。虚・実・奇・正はそれぞれ何を表しておる?」
志麻は居住まいを正して答える。
「虚は戦力の手薄な状態、実は戦力の充実した状態、奇と正はいろいろな意味を含みますが、奇は奇襲、正は正攻法といった意味です」
「うむ。ひとまずそれでよいであろう」
「ありがとうございます。そうすると、戦力の充実している敵に正攻法で対応することになってしまい、味方の損害が大きくなるのではないかしら」
「なるほど。これは文の前後をもっと注意深く読み込む必要がある。初めに奇と正だが、これは互いに転化するものであることを見逃しておる」
「ええ、気が付けば孫子も李衛公もそのことを強調していたわ」
「そうだ。知識として奇正が互いに転化することを知っていても、それに則って思考することが出来ておらぬ」
「そうね。なぜ忘れていたのか、恥ずかしい失態だわ」
「いや、恥ずかしく思う必要はない。すでに学んだのであるからに。学問とはそういうものなのだ」
「はい」
「では、元に戻ろうか。太宗はこうも言っておる。相手がこちらを正であると認識したら、すかさず奇に転じ、相手がこちらを奇であると認識したら、すかさず正に転じる、と。これで姫は分かったであろうか」
「つまり、敵が実ならばまず正で対応し、敵がこちらを正と認識したら、すかさず奇に転じるという事なのね」
「そうだ。敵は正であると思っていたものが、いつの間にか奇に転じており、対応が後手後手に回る。我が方が奇正を操作しておるので、自ずと主導権は我が方が取れる、と言う訳である」
「腑に落ちました。物事を固定して考えてしまい、変化を忘れる危うさを改めて感じたわね」
「うむ。兵法は深い」
そう言うとお師匠は宙を見上げた。それは授業が終わりになる合図でもあった。
「そろそろ時間か。では、また明日」
「ありがとうございました」
志麻はそう言って座礼をする。その時、自然と目が閉じられるのだけれど、その閉じた目を開けた時には現実の世界に戻っていて、朝、自室の寝床の上である。
どういう理屈で夢の世界が出来ているのか分からない。夢の世界で頭を使いに使っても、翌朝目が覚めた時には体はもちろん頭もすっきりしている。真に不思議であり、ありがたいものであった。
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お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。