2章 幻影 1 講義と試練のこと(1)
2章 幻影
1 講義と試練のこと
初めは上も下もない真っ白な空間だった。光がどこから射しているのか判然としないけれど明るい。音はなく静かで、暑くも寒くもない。風もないものだから、自分がどこを向いているのかさえ、分からなくなる。
そのようなところであったので、志麻には落ち着かないものであった。それを見たお師匠が、まずは地面を、次には板敷きの床を作ってくれた。続いて机や紙、筆も現れ、なんとか学問ができる状態になった。
夢の中で紙に書き付けたところで、現実の世界に持ち出せはしない。けれど、理解したことを書き出すことで格段に理解が深まる。
志麻はこのひと月弱、充実した夢生活を送っていた。
「あっ、お師匠、こんばんは」
志麻は目覚めて挨拶をした。目覚めて、と言っても現実の志麻は寝ている。夢の空間の中で目を覚ましたのだ。
「うむ、来たか。現実では駿河の館に帰ったようだな」
お師匠が近づいて来て言った。今はもう後光が射していない。以前不思議に思って聞いたら、志麻が眩しそうだから消した、とのことであった。
「ええ、ひと月も実家を空けることがなかったものだから、帰ったら母上がわたしにべったりで参ったわ」
「そのようだな」
「もうわたしは十五才なのに、ああもされては恥ずかしいわ」
「そなた、それでも嬉しいのであろう?」
「まーそうとも言えますけど」
「では良いではないか」
「わたしにも世間体というものがありますっ」
「誰も見ている者はおらんだろうに」
「そうです……ね?って、お師匠、なんで『そのようだな』って知ってるんですか?」
「……」
「お師匠っ」
「そなた、ひと月前はこんなではなかった」
「だって、お師匠があまり堅苦しくしなくて良い、と言ったじゃないですか」
「そうであった。畏まった態度では本心が分からぬから。だがこのようにせよとは言うておらん」
「えー今さらですか。でも改めた方がいいかしら」
「なに、そなた、まだ間に合うと思うてか。このままでよい。それよりか、そろそろ始めようか」
「はい、お師匠、お願いします」
「うむ、今日から李衛公問対の中の巻に入るか」
「はい」
李衛公問対は武経七書の一つで、別名を唐太宗李衛公問対と言う。唐の二代皇帝、太宗と号した李世民と、衛公に封ぜられた重臣の李靖、すなわち李衛公との兵法談義が綴られている。お師匠が言うには、この二人の会話を直接書き留めるということはあり得ないので、後世の何物かが二人の英雄に仮託して書いたものだという。それでも二人の英雄が語っていてもおかしくない高い水準の議論が書かれており、兵法書の最高峰、武経七書に数えられているのだ。
「では、参ろうか。太宗曰く、朕諸の兵書を観るに、孫武に出ずるもの無し。孫武十三篇は虚実に出ずるもの無し。それ兵を用うるに虚実の勢を識れば、則ち勝たざる無し」
続けて志麻が復唱する。
「太宗曰く、朕諸の兵書を観るに、孫武に出ずるもの無し。孫武十三篇は虚実に出ずるもの無し。それ兵を用うるに虚実の勢を識れば、則ち勝たざる無し」
こうやってお師匠が先に読み上げ、志麻が続けて読み上げる。これを中の巻を通して行うのだ。細かいことよりも先に大枠を識ろうということなのである。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。