1章 出会い 3 お師匠(7)
「あのう……」
「なんだ?」
「では、あなたがあの武経七書の持ち主なのですか?」
「そうだ。武経七書はかつて我の持ち物であった。また、注釈書は我が記した物だ。そして、今やそれらは姫の持ち物になった」
「どうして、わたくしに下されたのでしょう?」
「半分は偶然」
「ではもう半分は?」
「姫は、兵法書が何のためにあると心得る?」
「戦に勝つためです」
「うむ。正しいが、正しくもない。兵法書は皆、戦をしないため、戦を終わらせるために記されたものだ」
「はい」
「しかしな、記された目的とは逆さまに、戦を始めるためにも使える。兵法書を片手に戦が始まり、兵法書を片手に戦が終わるのだ」
「兵法書はない方がよいのでしょうか」
「いや。兵法書を焚いたところで兵法書はなくならぬ。人がいくら願ったところで戦がなくならぬのと同じだ。まず、戦があること、兵法書があることを認めねばならぬ」
「では、兵法書のある意味は何なのでしょうか」
「戦に規範を与え、無意味な戦を減らし、戦乱の終結を早める。つまり、我が兵、我が民、敵が兵、敵が民の損害を抑えることだ」
「わたくしの目指すところです」
「うむ。我は、我が武経七書が戦乱の世の間、書架の宝物としてただ眠り続けるを良しとしない」
「はい」
「だが、ゆめゆめ忘れるな。兵法書は人を呑む。魅入るとも言えるかもしれん。兵法書の戦を呼ぶ力は強力だ。だから兵法書に克つものだけが太平を創れるのだ」
志麻は正座し、姿勢を正して首を垂れた。
「わたくし、朝比奈志麻には師が必要です。どうか、我が師をお引き受けください」
二人の間に緊張が走る。
「引き受けた」
白蛇は、静かに、そしてはっきりと言った。
志麻は再び首を垂れる。
「ところで、わたくしは貴方様を何とお呼びすればよいでしょうか。お名前を教えていただけましょうか」
白蛇は少し考えた風に間を取ると、
「我のことは師匠と呼べばよい。名はそのうち分かるであろう」
白蛇改めお師匠は、名を教えてはくれなかった。確かに名はみだりに他人に教えるものでもないのだけれど、それ以外にも何か差し障る事情でもあるのかしら。
「かしこまりました。お師匠」
すると、お師匠と志麻の間の空間が、ゆらゆらと水に垂らした墨のように揺れ始めた。
「な、な、なんですか!?」
「まぁ、待っておれ」
お師匠はあくまで悠然だ。その態度から、お師匠が何かしたのだと志麻には分かった。
しばらくすると揺らめきは形を現し、武経七書となった。
「これは現実のものをこの夢の中に写したものだ。どれ、少しは読んだか」
「はい、少しだけですが」
志麻が武経七書の一つ、孫子に触れると、確かに少しざらざらとした感触がある。現実のそれと同じだ。寝る前に読んだ個所を開いてお師匠に見せた。
「では、そこから軽く先を読んでみようか」
本当に軽く読むだけで、お師匠は特別、口を挟まない。まずは、おおよそ何が書かれているか掴もうという事かしら。
半時ほど読み進めた時であった。お師匠が前触れもなく言う。
「今日はここまでの様だ」
「えっ」
「では、また明日の夢の中で」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「姫さま、姫さま、起きて下さいまし」
体を揺すられ、志麻は目を覚ました。
明るい。障子から優しい陽光が目に眩しい。もと居た部屋に戻ったのである。傍らではお景がこちらを覗き込んでいる。
「起きました? もう朝餉の時刻になりそうです。遅れないようにいたしましょう」
志麻はハッとして書棚に駆けつけ、武経七書の一つ、孫子を取りだした。
果たして、夢の中でお師匠と新たに読んだ個所は、そのまま現実の孫子にも書かれている。夢の中の記憶もはっきりしている。
「本当……だったのね」
志麻は驚き、それとともに天にも昇る気持ちとなった。
「姫さま、どうなされたのです?」
「いえ、何でもないわ、お景。朝餉に行きましょう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これより後、志麻は夢の中で白蛇のお師匠から教えを受けるようになった。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。