1章 出会い 3 お師匠(4)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
長慶寺に帰り着いたのは、昨日の昼過ぎである。
早速、承然に事の次第を報告した。美形の僧についても尋ねてみたけれど、心当たりはないと言う。さらに恵進こそが名実ともに遍照光寺の最高位にあって、それに勝る者はいないとも言う。志麻の困惑は一層深まった。
午後はセイの看病で離れに詰めた。特に手がかかる訳でもなく、いつものように論語や老子を読んで過ごそうかと思った。ところが文章が頭の中で上滑りし、全く身が入らない。
一晩経った今も、心は締まりのない感じを残している。
「姫さま」
寺から宛がわれている志麻の部屋の外から、お景の声がした。
志麻は両手で頬をビシビシと叩き、気合を入れ直す。
「どうぞ」
志麻が声をかけると襖がスーッと開き、お景が遍照光寺から使いが来ていることを告げた。
急いで使いが待つお堂に向かい用件を聞くと、遍照光寺まで来てほしいとの事であった。
「用件が何か、聞いているかしら」
使いは少し困った顔をして首を振った。
「いえ、私はただお連れしろ、としか聞いてはおりません」
「そう、わかったわ。すぐに支度をするから待っていてちょうだい」
セイの看病をお景に頼み、志麻と十兵衛は支度を整え、使いとともに遍照光寺へ向かった。
遍照光寺に昨日と変わった様子はない。あの美形の僧も見渡す限りではいなかった。
昨日、お景に美形の僧の話をしたら、
「あら、姫さまから殿方の容姿の話が出るなんて! いつもならば誰が戦で手柄を立てただとか、誰それの弓はよく当たるだとか、むさくるしい話ばかりなのに! 気になるのですわね。えぇ、これは恋だわ。でも相手がお坊さまでは困ったわね。若さまに頼んで還俗させましょうか。偉いお坊さまなら元の家柄も問題なさそうね。姫さま、わたくしに任せて下さいまし」
なんて浮かれていた。
兄さまに他所の家の人を勝手に還俗させる力はないし、そもそもわたしは恋なんてしていない、と言ったら、
「えぇ、えぇ、大丈夫でございます。初めは本人も、恋を恋と認識できないもの。若さまならば、御屋形様にも話を付けられます。きっと、姫さまの恋は実りますとも」
と。
これには付き合いきれない。今日はセイの看病にかこつけて置いてきたけれど、ブーブー文句を言っていた。たぶん、お景は噂の美形の僧を見たかったんだわ。
お景はわたしの乳母にして教育係で尊敬もするし大好きなのだけれど、浮いた話に目がない所は困りものよね。
使いはわたしたちを本堂に連れて行き、そこで待つように言った。
しばらくすると、恵進が平包みを携えて現れた。相変わらず巌のような大男なのだけれど、歩く仕草は清流のように静かだ。
恵進は志麻の前に座り、じっと志麻の目を見つめる。
……。
「あのう……」
堪りかねて志麻が声をかけた。
「いや、失礼しました。拙僧も、まだまだ人を見る目がないな、と思いまして」
「はぁ」
事情が分からず、志麻は曖昧な相槌を打った。
「昨夜のことになります。拙僧の元に兄さん、と言っても実の兄ではなく、兄弟子なのですが、その兄さんが突然いらっしゃったのです」
「はい」
「二十何年ぶりでしょうか。昔と変わらぬ姿にとても懐かしく、当時受けた御恩の数々を、つい昨日のように思い出しました」
「はぁ」
話が分からない。いや、話は分かるのだけれど、この話がどこに向かっているのか見当が付かず、志麻は戸惑った。
それにしても二十年経って姿が変わらないのはすごいことだわ。恵進さまの兄弟子なので、今は、四、五十かしら。すると昔は二、三十なので少し無理がありそうだわね。ということは、元々お爺さんで、今もお爺さんになる。そうでなければ辻褄が合わないわね。
「その兄さんがおっしゃるんです。姫様にこれをお渡しせよ、と」
そう言うと、恵進は隣に置かれていた平包みを志麻の方に差し出した。
「拝見してもよろしいでしょうか」
「もちろんですとも。これは、すでにあなたの物ですから」
平包みを開いて、志麻は我が目を疑った。
「武経七書じゃないですか!」
昨日、見せて欲しいと頼んで断られた武経七書。どうやって信頼を得て見せて貰おうかと悩んだ武経七書。
「それは元々、兄さんの物なのです」
「そんなものを、本当に頂いてしまってよろしいのですか」
「ええ、兄さんがそれを譲ると決めた。となれば、その意を実行するのが寺の者の本望です。お納めいただきたい」
「ありがとうございます」
志麻の頭は自然に下がっていた。
「それと姫様、師が欲しいと仰っていましたね」
「はい」
「兄さんが言うには、今日の夜半に行くから待っておれ、とのことです」
賢いと評判の恵進の敬愛する兄弟子であれば、師にうってつけである。志麻に断る理由はない。
「かしこまりました、とお伝えください」
「は、はい」
恵進が曖昧な返事をしたのは、もう『兄さん』が寺にいないからかもしれない。
その後、志麻は重ねてお礼を述べて遍照光寺を後にした。今夜どのような人物が師として来てくれるのか、胸を躍らせていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。