1章 出会い 3 お師匠(3)
唱え終え目を開けると、隣に一人の僧が立っていた。
恵進さまより何か言伝でもあって、遣わされたのかしら?
それにしても、いつからそこにいたのか、全く気付かなかった。
「冬青でございます。恵進さまから何かありましょうか?」
『冬青』とは志麻の通り名で、自室から見える庭に植えられた冬青の樹に因む。
「ほう、これは奇なことよ」
僧はそう言うとまっすぐ志麻を正視した。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋、キリリと薄い唇。こういうのを美形と言うのだわ。坊主頭であるけれど、駿府の町でもこれほどの者を見たことがない。
「あの、何かおかしなことでもありましたでしょうか」
美貌に呑まれかけたのを振り払い、何とか返事をした。
「いや、何でもない。そなたは朝比奈の姫、か」
「は、はい」
わたしを「姫様」ではなく「姫」と呼ぶからには、少なくとも今川の重臣階層以上の家の出身なのだわ。しかし、そうであれば噂くらい志麻の耳に入ってもよさそうなものよね。
寺は戦国の世において情報が交わるところであり、決して武家と遠い存在ではない。けれど、このような僧がここにいるとは、聞いたことがない。
「範氏公と氏家公だ」
今川範氏は二代目の当主、今川氏家は三代目だ。
「範氏公は遍照光寺の開基でしたね」
「うむ、姫は学問がしたいか?」
承然さまの手紙にその旨が書かれていたのかもしれないわね。それを恵進さまから聞いたのかしら。
「わたくしは未熟者ですから、まだまだ学ばなければなりません」
「師が欲しいと」
「わたくしには必要です」
「そして、内には大いなる願望があると」
承然さまの手紙に、軍師を目指すことまで書かれていたのかしら。未熟者が大それた願望を抱く者よ、と笑われそうで、顔が赤くなる。
「はい、仰る通りでございます」
志麻にはそう答えるしかなかった。何の実績もない小娘が、今川の軍師になりたいと言えば、噴飯ものだろう。しかし、知られてしまった以上、嘘は付けない。
「笑わないで下さいませ」
「なに、笑わぬ。姫は軍師になって何を成す」
「今川家……、いえ、日ノ本に太平をもたらします」
「戦の無い世を作る、と?」
「その通りにございます」
「しかし、そのためには戦が必要だが」
「はい。結果的に最も流血が少ない道を探します」
「今川家が天下を取れぬことで太平の世が作れるのであれば、如何にする」
「太平を取ります」
志麻は即座に答えた。
「それと同時に、今川が滅ぶようなことにはさせません」
「それでも今川が一番ではないと申しておる。今川に対する忠義に悖らぬか?」
「悖ります。されど、太平は譲れません」
「なるほど、よく解った。恵進も頭が固い」
「えっ」
恵進さまを当然の如く呼び捨てにしている。目の前の僧は実質的に恵進さまよりも上の立場だったのかしら。
「ところで姫は雪斎のようになりたいと考えている、とか」
うぅ。承然さまはそこまで書かれていたのか。
「その通りでございます」
「姫は雪斎を何と心得る」
「今川家の偉大な軍師にして、お味方の窮地の数々を救った賢者にございます」
「左様か。まぁこれはどうにかなろう。今言うても仕方あるまい」
それはどういうことかと聞こうとした志麻に、僧は言い放つ。
「それ、長慶寺の使いの者が本堂から出てくる、行きや」
有無を言わさぬ勢いに促され、志麻は一礼した後、もと来た細い砂利道を戻っていった。すると果たして、使いの者が本堂より出てくるところであった。
本当に不思議な人だ。美形もさることながら、その所作、佇まいまでもが美しい。誰かに似ているような気がするけれど、誰かしら。
そんなことを考えていたら、今更に気付いた。相手の名を教えて貰っていない。
長慶寺への帰り道、使いの者に美形の僧について聞いてみたけれど、知らなかった。志麻はモヤモヤした気持ちで長慶寺に戻ったのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。