8章 桶狭間山 1 今川義元という男(1)
8章 桶狭間山
1 今川義元という男
雨が降った。尋常ならざる雨であった。
突然、空が黒き雲に覆われ、雹混じりの大粒の雨が容赦なく麾下を襲い、突風が吹き荒れた。
四半時ほど経った頃、何の前触れもなく雨が上がった。供廻りの者共がやれやれと濡れた顔を拭き、そして晴れ上がった空を見上げた時、物見が叫んだ。
「敵襲!!」
誰もが北の谷に目をやった。この桶狭間山に陣を敷いた直後に襲ってきた二百騎ばかりの武者は、そこから攻め寄せたのだった。しかし今回は違った。敵は西から来たのだ。
気づいた時には、敵の第一波である騎馬が我が陣の防御柵に飛び掛かり、柵を薙ぎ倒した。
そこにいた誰もが祟りや呪いを疑った。あまりにも出来すぎている。丸で神の御業が敵の接近を隠すがの如きだ。
「穴を塞げ! 押し戻せ! 敵は少数ぞ!」
しかとは見えねども、あの雨の中で大軍を纏められるわけがない。少数による奇襲以外に考えられぬ。
しかし、我の号令に遅れて信じられぬ言葉が耳に飛び込んできた。
「甲府が逃げた!」
あり得ない。確かに奇襲は受けているが、我が本陣にいる兵の方が多いに決まっている。一ヶ所柵を食われども、さりとて一ヶ所だ。その他は崩されておらず、柵を利用して守る側が圧倒的に有利である。加えてここは小高い山の頂だ。第一波の衝撃さえ凌げば、坂を上る敵は勢いを維持できない。負ける要素はないのだ。
ところが、瞬く間に兵に動揺が広がっていく。
「気合を入れよ! 敵は少数ぞ! 逆襲じゃ!」
我が号令を張り上げようとも、兵の動揺は落ち着かない。
「義元、討たれたり!」
どこかで誰かが叫んだ。このような偽情報は戦場に付き物だ。だから、真に受ける者は本来いないはずである。ところがこの空気は何だ。この空気は、櫛の歯が欠けるように兵の逃亡が広がる、あの空気だ。
「我はここぞ! 我の下に集え!」
兵の逃亡を防ぐには、大将である我の近くに引き寄せる他ない。敵に居場所を教えてやるようなものだが、味方に我の存在を示さなければ軍勢の崩壊は止められない。
追い込まれている。
掌で踊らされているような、蟻地獄に落ちた蟻のような有様だ。
「我はここぞ! 我は倒れぬ! 我、今川義元は健在である! 我の下に集え!」
数度号令をかけたが、集まったのは三百騎ばかりだ。元は二千を超えていたのが嘘のようである。
敵も我の居場所を完全に突き止め、集結し始める。数は我が方より幾分か多い。その敵が襲い掛かってくる。
打ち寄せては引き、切り合っては引きを三度繰り返した時には、こちらは百騎を切ろうとしていた。向こうも減ったが、百五十騎はいようか。
四度目の襲撃を押しのけ、五度目の襲撃に至った時、我の目前にまで敵は達した。
「服部小平太が、その御命、頂戴仕る」
一人の若武者が名乗りを上げると、槍を突き刺してきた。
その向かってくる穂先を愛刀左文字で切り落とし、間髪を容れず小僧の膝を横一線に切り捨てた。
止めを刺そうと左文字を振り上げる。すると、視界の左端から新手の若武者が槍を構えて突っ込んできた。
若武者というよりは、ただの小僧と言った方が正しいだろう。目を血走らせ、右も左も見えてはいまい。そんな小僧の御座なりな突きなど当たるわけもない。ひらりと身を翻すと、左文字を勢いよく小僧に振り下ろした。
槍もろとも籠手の上から切り落とされた腕が、ゴトリ、と音を立てて地に降りる。
ところが小僧はその現実に気づいていないのか、落ちた腕に一瞥も加えず、残った槍の柄を振り上げると、また突進してきた。
野獣など人間の敵ではない。殊、戦場であれば尚更だ。今度は確実に小僧の首に一閃を加えると、真っ赤な血飛沫を上げて動かぬ骸となった。
気が付けば乱戦に陥っている。供廻りの者も目の前の敵に対峙し、我を囲むことが出来ずにいる。我の盾になろうとするも、そうさせじと敵に阻まれるのだ。
その我の前に三人の武者が新たに現れた。緋色と茶色の具足をそれぞれ身に付けた二十の中頃の武者が二人、元服を昨日済ませたかのような小僧が一人の三人だ。
二人であれば対処できようものの、三人ではちと辛い。望みは小僧の目が恐怖の色を濃くしていることぐらいだ。
最初の一合で二人の武者の一方をどうにかしてしまえば、小僧は実力差に足がすくみ、動けなくなるかもしれない。それに賭けるしかない。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
応援、感想など頂けたら嬉しいです。画面の前で滝のような涙を流して喜びます。もしかしたら、椅子の上でクルクル舞い踊るかもしれません。
誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。




