7章 西へ 4 志麻、舞坂で振られる(1)
4 志麻、舞坂で振られる
舞坂の宿場を出発し、今切口を船で渡れば、残り二里で三河に入る。
今切口は浜名湖と遠州灘と分ける砂洲の切れ目だ。
物知りの船頭によると、今のように浜名湖が海と通じたのは、ほんの六十年前のことだそうだ。六十年前といえば、太守様の父君である増善寺殿(今川氏親)が、遠江を攻略していた頃の話だ。それまで淡水の湖だったが、地震と津波、そして追い打ちをかけるような大雨と山崩れによって今の姿に変わったらしい。船頭の祖父母は立て続けの災害を命からがらで逃れたそうで、あの時は恐ろしかった、と亡くなるまで事あるごとに口にしていたという。
昨日の夜半からしとしとと降り続く雨に打たれる水面は、至って穏やかだ。今の浜名湖の静けさからは想像もできない話である。
対岸の新居里の宿場に上がれば、右は高師の丘陵地帯が迫り、左は遠州灘によって作られた浜堤により画される。その隘路を東海道が縫っていく。
細かい雨粒が緞帳のように話し声を吸い取ってしまい、おしゃべりもままならない。先ほどの船頭のように声が大きくないと無理そうである。船頭は自然と声が大きくなるのかもしれない。そういえば、大井川の渡しの船頭も声が大きかった。
セイや源太とおしゃべりできないことに加え、足元も最悪である。
東海道と雖も整備は万全ではなく、足元はぬかるみ、あちらこちらに水たまりができている。
袴を膝までまくり上げた足は、脛まで跳ねた泥水で汚れていた。
街道整備を御屋形様に進言してもいいかもしれないわね。
今川家の領域が西へ西へと進む中、駿遠両国のほぼ中央に位置していた駿府は、今やだいぶ東の端になってしまった。それだけの距離を移動するのだから、兵の疲労も大きい。
思い切って今川家の根拠地を遠江の見附や、さらに西、三河の東条に移したとしても、駿相甲の三国同盟がある限り街道の整備は必要だ。同盟は援軍を送ってこそ成立するもので、事実、今度の戦にも北条家、武田家の援軍が来ている。
そして、三国それぞれにとって三国同盟は戦略の基盤であり、三家どの家もが領土を拡張できている源泉である。これを敢えて切ろうとするのは自殺行為にも等しい、とすら志麻には思える。
パシャ!
前を歩く夕凪が水たまりを踏み、水が跳ねて手綱を握るセイの足に大いにかかった。いくら蓑を着ているとはいえ、中の袴にもかかってしまったのではないかしら。
今日の手綱を引く役は、くじ引きで決めた。セイは、僕がやるよ、と言っていたけれど、歩き出せば意味が分かるぞ、と源太が言い、くじ引きをさせた。結局、くじ引きでもセイが手綱を引くことになったけれど、今ごろ、くじ引きをした理由を痛感しているだろう。夕凪は水たまりだからと避けてくれないのだ。
左をみれば、東海道と平行に流れる浜名川がくねり、川面が見える。
船頭の話通り、川は浜名湖に向かって流れている。
「姫様、どうなされました?」
止まって川を見ていたわたしに、源太が追い付いて聞いた。
わたしは、ほら、と浜名川を指差す。
「あぁ、船頭が言っていた流れが逆になった川ですね。信じない訳じゃないけど、信じられないですね」
源太がそういう気持ちは、志麻にもよくわかる。
川の流れが変わるのはよくあることだけれど、逆に流れることは滅多にない。潮の満ち引きがうまく揃うと、僅かに逆流するか川があるとは聞く。けれど、わたしは見たことがない。掛川城のすぐ脇を流れる逆川でさえも、逆に流れているところを見たことがない。確か、逆川のいくつかある由来の一つは逆流であったはずだ。その逆流とて、その場限りのことであり、流れる向きが完全に変わってしまうことでは無いのだ。
浜名川はうねりをあげ、取り留めもなく流れゆく。流れは一向に変わろうとしない。
「姫様、セイの背中があんなに小さく。早く行きましょう。置いて行かれます」
そんなに長い時間眺めていたかと思ったけれど、セイは随分先まで行ってしまっていた。
そうね、と言って歩き出そうかと思ったけれど、一つ言っておかねばならないことがある。
「そうそう、源太」
「はい。何でしょう」
「やっぱり変よ。そのしゃべり方」
ちょっと間が開いて、源太がおずおずと訊ねた。
「これでも変ですか」
「変よ。源太、あなたセイに話すときは、そんなではないじゃない。前にも言った通り、セイと話すようにしてくれていいわ」
またちょっとの間があって、源太が意を決して話し出した。
「これでいいか。姫様。やっぱり嫌だったら止めるぜ」
「それでいいわ。その方が源太に似合っているから」
「お、おう」
応じた源太は少し恥ずかしそうだ。
「さぁ、急いで行きましょ。セイが振り向いたら、わたしたちが遠くて、きっとびっくりしてしまうわ」
遅れを取り戻そうと、早歩きで歩き出す。
しばらく十町ほど歩いて、やっとセイに追いついた。セイは相変わらず夕凪の飛ばす水しぶきに悪戦苦闘している。こちらが離れていたことには気付いていないようだ。
セイのその先が緩い上り坂になっている。その緩い盛り上がりは、左手の浜堤まで続いている。
あっ、もしかして、ここが浜名川を堰き止めた土砂崩れがあったところかしら?
緩やかな坂を登ってみれば、右手の神社の脇が谷となっている。ここを土砂が流れ落ちたと考えればそのようにも見えるし、そうでないと思えばそうでないようにも見える。六十年前のことだから、すでに緑に覆われ、土砂がむき出しであるわけもない。微高地に家が建つのも道理で、今は農家が寄り添うように建っている。
実際のところは分からないけれど、志麻はここで何となく当たりのような気がした。
そんなことを考えながら坂を下ったところ、後ろの源太が大声を発した。
「姫様、今、後ろから悲鳴が聞こえたぜ。見てくる。セイ、来い!」
振り向いたわたしの後ろから、セイの、う、うん、という少し戸惑った返事が聞こえた。
そのセイが引き返しわたしに手綱を手渡すのを確認すると、源太は「行って参ります」と声を張り上げる。わたしが頷くと、源太は手にした槍を持ち直し、勢いよく走り出した。それを、セイも追いかけて走り出す。
わたしはというと、最も見晴らしのいい微高地の頂上に戻ることにした。
源太には悲鳴が聞こえたそうだけれど、わたしは気付かなかった。どうなっているのか、まずは状況を把握しなければならないはずだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜雨雷鳴と申します。
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誤字脱字もあったら教えてください。読み返すたびに必ず見つかるんですよね。どこに隠れているんでしょう?
では、次のエピソードにて、お待ちしております。




