赤い花
<女サイド(一人称)>
暗闇の向こうで、ドアが開く気配がした。
(やっと、帰ってきてくれたのね……!)
酒臭い息を吐きながら覚束ない足取りで寝室へやってきたあなたを、私は歓喜と共に出迎えた。しかしあなたは、近寄ろうとする私を鬱陶しげに振り払う。
あなたは無言のまま、乱暴にネクタイを緩めた。襟元から放たれるあなたの香りに、私は眩暈を覚える。
儚い幸福と、冷たい現実。
脱ぎ捨てられた背広から、私の嫌いなトワレの匂いが漂ってきた。Yシャツの胸には、ルージュの赤い花が咲いている。
顔を顰めた私に頓着せず、あなたはベッドの上に弛んだ身体を投げ出した。
……きっとあなたは後悔するだろう。スーツが皺になってしまうことじゃない。私を無視して眠りについてしまうことを。
あなたは、私の覚悟に気付かない。
(もう私、この部屋を出て行くわ。その前に、あなたを……!)
刺した瞬間、あなたの血がどくりと溢れ出す。
私は恍惚に支配される。
(ああ、あなたの血は美味しい――)
そこで私の意識は、途切れた。
私は、あなたの肌に小さな赤い花を残して、死んだ。
<男サイド(二人称風)>
その夜あなたは、数日ぶりに自宅のドアを開いた。
酒臭い息を吐きながら、覚束ない足取りで寝室へ向かう。
そこには、あなたの帰宅を静かに待ち続ける女がいた。しかしあなたは、近寄ろうとする女を鬱陶しげに振り払う。
あなたは無言のまま、乱暴にネクタイを緩めた。襟元からあなたの汗の香りが放たれる。その香りに陶然とする女が、あなたの傍で体を震わせている。
あなたは無自覚なまま、女に与える。儚い幸福と、冷たい現実を。
脱ぎ捨てた背広から、女の嫌いなトワレの匂いが漂った。あなたのYシャツの胸には、ルージュの赤い花が咲いている。
顔を顰める女に頓着せず、あなたはベッドの上に弛んだ身体を投げ出した。
きっとあなたは、後悔するだろう。
スーツが皺になってしまうことではない。女を無視して眠りについてしまうことを。
あなたは、女の覚悟に気付かない。
意味をなさない悲鳴をあげながら、女があなたに襲いかかった――
刺された瞬間、あなたの血がどくりと溢れ出す。
その時、ようやくあなたは女の存在を意識した。
湧きあがる、殺意。
はだけたシャツの胸元にしがみつく女を、あなたは容赦なく殴りつけた。
女は、あなたの肌に小さな赤い花を残して、死んだ。
それから数日……赤い花は、未だ枯れない。
夜毎、あなたが眠りに落ちるのを妨げるほど、激しい感情を呼び起こす……。
「――畜生っ! ヤブ蚊の奴めっ! 痒くて眠れねぇっ!」
↓補足&作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたくない方は、素早くスクロールを。
すみません……蚊でした。赤い花=蚊にさされってオチは、無事伝わりましたでしょうか? 先日『結ばれない二人』というお題をいただき、思い浮かんだのが悲しい女の愛(心中)……これはホラーだなと。(ちなみに脳内で流れたテーマ曲は、島津ゆたかさんの『ホテル』です。昭和歌謡の名曲!)ホラーなら二人称を試したいなーということで、最初は男(二人称)の一枚掌編としてチャレンジし、あえなく挫折。次に女(蚊)の一人称で作ったのですが、どうも一枚という縛りがあるとオチが分かりにくいらしく、ちょっと文字数増やしました。「だったらボツにした二人称も載っけよっかなー、ていうか、二人称でオチをハッキリばらそう!」という流れでこんな形に。二人称は初挑戦だったので、正直うまく行っているか微妙……というか三人称ぽくなってしまったかもです。特に女の行動や感情を描写するのが難しく、背伸びし過ぎと悟りました。orz
※補足を兼ねて、蚊についてのマメ知識を少し。血を吸う蚊はメスだけだそうです。そして匂いに敏感。特に人の汗が大好き、植物系の香りが嫌いということで、汗とトワレに反応させました。ルージュ=シャネルとか香料のキツイ外国モノという設定で、ここにも敏感に反応を。また蚊サンの視界は全て白黒で、単純に色が濃いものに寄っていくそうです。よって『ルージュ=赤い色』と蚊が認識できたのはフィクションです。その他「蚊にトレンディな単語の知識あるんです蚊?」など、細かい疑問も擬人化ネタということでご容赦を……。