肖像画*警告〈2〉
時刻は朝9時を回ったところ。
平日なので最強の相棒・来海サンは学校にいる。店内には僕一人きりだった。
「いらっしゃいませ。今日は梓さんの代行ですか? 何をお求めでしょう?」
「違います。僕自身の要件で――来ました」
いつもはピシッと決めた隙の無いスーツ姿だが、この日はラガーシャツに白の綿パンというカジュアルな装い。何より、一番の違いは、血の気の失せた真っ青な顏だ。足取りもおぼつかなくヨロヨロと棚にぶつかりながら近寄って来る。
「お加減が悪いんですか? 大丈夫ですか?」
手を取って椅子に座らせた。そんな僕に掴みかからんばかりにグッと顔を寄せて、
「確か、あなたのこの店、どんな謎でも解いてくれるとHPに掲げてますよね? どうか、助けてほしい、僕に降りかかった人生最悪の謎を解いてください!」
いったん息を止めると、
「何故、梓は僕をふったんでしょう?」
「は?」
「失礼、正式な自己紹介がまだでしたね、僕は及川慧太と言って、このお店の常連客岡田梓さんとお付き合いしている者です」
「お姿は存じています」
「今日は僕たち、有給の休日で、かねてからの約束で山陰の方へ小旅行に出発する予定でした。先刻、僕が迎えに行くと、玄関に出て来た彼女にイキナリ別れを告げられました」
青年は目を閉じた。
「こんなことってありますか? まさに青天の霹靂だ! ちょうど前回この店に来た日、三日前ですよね? あの夜、僕は彼女にプロポーズして、彼女は涙を浮かべてうなずいてくれたんですよ! それを……こんな……こんな」
両手で頭を抱えたままカウンターに突っ伏す。
「昨日まで、二人の関係には何の問題もなかったのに! 入社式で出会って一年、僕たちは着実に愛を育んで来ました。一体、彼女に何が起こったんだ? 悪夢としか思えない、でなきゃ悪い魔法にかけられた?」
及川慧太さんはそのまま暫く動かなかった。やがて頭を上げ、縋るような目で僕を見て、言った。
「僕が何度理由を訊いても、彼女はゴメンナサイの一点張り。もうこれ以上、お付き合いできない、サヨウナラ、私のことは忘れて、と繰り返すだけ。ああ、僕はどうすればいい? とにかく、どうかお力をお貸しください」
「残念ながら」
姿勢を正して、僕はきっぱりと言った。
「お力にはなれません」
「え? どうしてです? HPには〈どんな謎も解く〉って書いてあるじゃないですか」
「あのキャッチコピーは言葉足らずでした。すみません、謝ります。正確にお伝えしますと、その種の――要するに恋愛に纏わる〈謎〉は受け付けていないんです。僕の取り扱うのはあくまで純粋なミステリ分野専門でして」
「ラノベやファンタジー系はカテゴリーエラーってこと?」
「そうですね。もっと厳密に言うと、今回の件は全くモノが介在していないでしょう? 暗号やパズル、謎の地図等々……それらが無く、ただ突然の〝心変わり〟だけ。その種の案件は僕には無理です。人間の深層心理に分け入る能力は僕にはありません。精神の領域に関しては未熟な僕では力不足です」
そう、僕に何ができる? 事実、何もできなかった。僕自身、かつて一度、なすすべもなく大切な人を……
あれは痛恨のミスだった。どんなに悔やんでも塗り替えられない過去へと彷徨い出る僕の心。青年の声も細く擦れて消えて行く。
「そんな……」
「ご希望に添えず本当に申し訳ありません――」
「うそーーー!」
夕方。下校時に例のごとく僕の店へ立ち寄った来海サンの第一声はこれだった。
「そんなことってある? 信じられないっ」
「だけど、事実なんだよ」
「有り得ないわ。あの二人が破局するなんて。そして、それ以上に、持ち込まれた〈謎の依頼〉を新さんが拒否しただなんて!」
「いや、こればかりは手に負えない。君も憶えておいてくれ、恋愛系は安易に請け負うべきじゃない。僕ら画材屋探偵の守備範囲外だってこと――って、おい、聞いてる?」
「あ! あれ、梓さんだわ!」
「?」
ちょうどこの時、店のウィンドウを掠めて岡田梓さんが通り過ぎて行った。
刹那、走り出す来海サン。
「待てよ、来海サン、君、何処へ……行く……?」
慌てて引き留めようとしたが、もう遅い。全く、この相棒の爆発的な行動力たるや! 旋風のごとくドアを軋ませて来海サンは飛び出して行った。