08 激突した二人
男の子の泣き声が飛び飛びになる。思い出したように洟を啜り、ママ、とか細い声で周囲に助けを求める。深閑とした森に小さな身体は震え、しゃっくりが止まらなくなった。
城山響子は巨木に身を潜めて、その痛ましい声を背中越しに聞いた。強張った表情で足元の一点を見つめている。
声は通り過ぎて聞こえなくなった。全身の力が抜けて、その場に座り込む。円らな瞳を苦渋で歪めて項垂れる。
「……どうして、あんな子供がいるのよ」
愚痴が口を衝いて出た。思い直したように顔を上げる。
「小学生も……学生なのね」
自嘲を含んだ声でゆらりと立ち上がる。男の子とは逆の方向に歩き出した。
間もなくして薄闇に動く物を見つけた。響子はその場にしゃがんだ。腰のコンバットナイフを引き抜いて危機に備える。
「……来ない?」
薄闇に蠢く物から目を離さないで、ゆっくりと腰を浮かした。中腰の姿勢で接近を試みる。
「そんな」
声が震えた。凶器をケースに戻し、一瞬の決断で走り出す。
「大丈夫ですか!」
うずくまる白いお団子頭に向かって声を掛ける。反応しようとした身体が、ぐらりと揺れて真横に倒れた。老婆は異様に白い横顔を見せた。薄紫になった唇で、どうして? と声を震わせた。腹部を何度も刺されたのか。おびただしい血に染まっていた。
震える右手を響子に伸ばす。両手で握ろうとした瞬間、消えた。下草に僅かな凹みを残し、老婆はこの世界から消失した。
「誰が、こんなことを……」
「婆さんだと楽しめないよな?」
後ろを振り返る間は与えられず、響子は腕ごと蹴られた。横向きの姿で地面に倒れた。下になったケースからコンバットナイフを抜き取り、およその見当を付けた方向に上体を捻る。
黒いブーツが右肩を押える。立ち上がれない状態の相手に今村勇樹は勝ち誇ったような笑みを向けた。
「今度はお嬢様タイプか。悪くない」
「……あなたの仕業なのね」
「それがどうした? それと驚いていないようだが」
「なんの話よ」
勇樹は顔だけを近づける。
「婆さんが消えたことに驚いていない。要するに俺と同類の人殺しということだ」
右肩に載せていた足を下ろし、シースナイフの二刀流となった。脅しを含めた嗤いで対峙する。
響子は凶器を背後に隠す。腕の動きに合わせて身体を震わせた。
「もう、なにがなんだか。突然のことで……わからなくて。お願い、だから乱暴はやめて」
「強気に出るのかと思えば、急に弱々しくなったな。だが、そのギャップもそそる」
勇樹が摺り足で近づくと響子は怯えた様子で後ろに下がる。
「逃げられると思うなよ。そうだな。激しく抵抗しなければ生かしておいてやる。良い声を出せよ」
「やめて。近づかないで、これ以上は……」
震える唇で哀願する。勇樹は欲望に塗れた顔を突き出す。
瞬間、響子は手と両足を使って後方に跳んだ。体重で押えられていた細い三本の幹が急激に起き上がり、唸りを上げて勇樹の顔面を捉えた。
打ち据えられた音と叫び声が重なる。勇樹はナイフを手放し、大きく仰け反った姿で後方に倒れた。両手で顔面を覆い、獣のような唸り声を上げてのたうち回る。
響子は少し離れて凶器をケースに戻す。相手から目を離さず、蹴られた腕を摩りながら言った。
「だから、『近づかないで』って警告したのに。あと、単純な罠に掛かってくれてありがとう」
「ク、クソッ! 舐めた真似、しやがって」
両手を無理に引き剥がし、上体を起こす。右の鼻の穴から一筋の血が流れる。両目は閉じられ、涙でぐっしょりと濡れていた。
「いつの間に、こんな罠を。ふざけんなよ!」
増大する怒りが痛みを忘れさせるのか。強引に両目を開いた。涙は止まらず、落ちている凶器を拾うのに手間取った。間違って刀身を握り、掌から血が滴り落ちる。
「切り刻んでやる!」
勇樹は血塗れの手で凶器を握る。もう一本を探し出そうと躍起になった。
その迫力に響子は押された。後方への一歩は全力の走りに繋がった。
「逃げるな! 戻って来い!」
声を無視して響子は走った。恐怖も痛みを忘れさせるのか。蹴られた腕は大きく振られた。
息切れが激しい。腕の振りは小さく、極端に速度が落ちた。
「もう、無理……」
歩く状態となって身体が傾ぐ。倒れる寸前で巨木の幹に手を突いた。その腕の中程を手で押え、膝から崩れた。
後ろを振り返る余力も残されていなかった。正座をした状態で荒い息を整えていく。
肩の上下の動きが少なくなって後ろを振り返った。広い範囲に目を向けて長く息を吐く。ゆっくりと後ろに倒れた。無防備な仰向けの姿で汗ばんだ額に手の甲を載せる。
「冷たくて、気持ちいい……」
瞼が落ちて薄目となり、すぐに完全に閉じられた。ずるりと手は落ち、大の字の姿で浅い眠りに就いた。
「どこだ! 出て来い! 犯して、切り刻んで、消してやる!」
勇樹は一歩ごとに激しい怒りをぶちまける。目から溢れる涙を頻繁に袖で拭う。幹の直撃を受けた顔面には痛々しい筋が入っていた。右の白目には血が混じる。何度も瞬きをした。
時間と共に涙の量が減ってきた。
「どこまでも追い掛けていくぞ! 逃げ切れると思うなよ!」
怒鳴り声のあと、決まって足を止めた。耳の後ろに手を当てて、動揺した相手が立てる音に期待を寄せる。
「……近くにはいないか」
気が抜けたような声は表情にも反映された。浮かんだ笑みは瞬時に歪み、腹いせに唾を吐いた。
「本当に痛かったぞ」
抑えた怒りは迫力のある笑みとなった。