07 トロル
周囲に太い枝が落ちている。その一本で躓きそうになった木崎茜は真っ先に上を見た。幾重にも枝葉が重なっているのか。空は見えなかった。
木崎慶太は枯れ葉に塗れた一本を拾い上げた。手首くらいの太さで真っすぐ伸びていた。
「これは使えるよ」
シースナイフを抜いて邪魔な小枝を切り落とす。物の数分で棒が完成した。試しに振ってみる。水分は抜けていて小気味よい風切り音を立てた。
「武器になるね」
杖のように持つと歩きながら手前の地面を突いた。
「落とし穴の発見にも役立つ。姉さん、話を訊いてる?」
「その落とし穴が、無かったじゃない」
不服そうに言葉を返す。
「まあ、そうだけど。でも、あった時に備えて用心することは悪くないよね?」
「そっちは慶太に任せる。細かい作業は私に向いてないんだよ。陸上部のように走って跳んだりするようなことがあったら、大活躍するんだけどねぇ」
その場で軽く跳んで見せる。
「そんな場面には遭いたくないけど。あ、姉さん、右の方に落ちている石を拾っておいて」
「またなの? 珍しい石でもないのに」
丸みのある石を掴むと太腿の側面にあるポケットに詰め込んだ。
「これも一つの用心だよ。あ、ここにもあった」
慶太は小ぶりの石を拾って笑顔でポケットに収めた。
興味が無いのか。茜はやや視線を下げて周囲を気に掛ける。
「どこかに宝箱が落ちてないかなぁ」
言いながら慶太に目を向ける。
「そんなこと言われても困るんだけど。それにこんなリアルな世界だと宝箱は不自然だよ」
「そうかな。森の感じはリアルだけど、なんか作り物っぽいんだよね」
「そうなの?」
そうよ、と茜は即答した。数秒間、口を閉じる。
「……ほら、何の音もしない。無音だよ。こんなに広い森の中なのに」
「言われてみれば静か過ぎるかも」
「それだけじゃない」
茜は腰を落とし、手で枯れ葉を払った。覗いた黒い土に顔を近づける。
「枯れ葉の下に虫がいないわ。こんなことってある? さっきの落とし穴でも、おかしいとは思ったんだけどね」
同じように慶太も足元の枯れ葉を手で取り除く。信じられないという風に範囲を広げた。
「本当だ。どこにも虫がいない」
「見えているところはリアルだけどね」
「姉さんが虫好きとは思わなかったよ」
その一言で茜の顔が真っ赤に染まる。
「その逆! 嫌いだから敏感なの! 勘違いして虫を見つけたら、あんたのセーブデータに新規データを上書きするからね!」
「それはやめて。具体的で本当にやりそう」
「お前ら、楽しそうだな」
その声に茜と慶太は同じ方向を見た。
薄闇から巨漢がのっそりと現れた。茜は一目で軽く頭を左右に振って苦笑いを浮かべた。
男の頭部は見るからに薄い。側頭部の髪を中央に集めて、辛うじてソフトモヒカンを維持していた。目は腫れぼったい一重で団子鼻。肉厚の唇から見える八重歯は黄ばみ、中年に等しいビール腹であった。
「おじさんが何か用?」
「誰がだ! 俺は大学生だぞ! 生意気な口を叩きやがって。まあ、顔はまずまずだから、十分に楽しめそうだ。さっきの女は泣くだけで股間が萎えそうになったぜ。それとガキ、お前には用が無い。さっさと消えろ」
「ああ、そういうことね」
茜は怒りで煮え滾る眼で無理矢理に笑った。男を睨み据えたまま、慶太に話し掛ける。
「あれってダンジョンによくいるトロルだよね」
「あんな見た目でも人間だと思うけど」
「あんな醜悪な人間が現実にいる訳ないじゃない。退治すれば経験値が貰えるわ。アイテムなら木の棍棒かもね」
「ガキが! 全部、聞こえてるぞ!」
男は重い足取りで向かってくる。
慶太は子供っぽい笑みで言った。
「トロルなら仕方ない。的が大きいし、石がよく当たると思うよ」
「試してみようかな」
茜はポケットから石を掴み取り、大きく振り被って投げ付けた。
男の顔が仰け反った。片方の足が宙を蹴った形で後方に倒れ込んだ。瞬時に右頬を両手で押え、短い足をばたつかせる。
慶太も石を投げた。右の脛に当たって動きが止まる。茜の二投目は股間を直撃した。地鳴りのような呻き声のあと、両足を揃えてゆっくりとした伸縮を繰り返す。
目の当たりにした慶太は、うわぁ、と顔を背けて言った。
「見ているだけで痛いよ」
「そう、私には全然、わからないわ」
茜はすっきりとした顔で返す。
「まあ、そうだと思うけど」
「でも、もう少しぶつけたらわかるようになるのかな。一番、大きな石で試してみようか」
身の毛もよだつ宣言に男の全身が震えた。内股の姿でよろよろと立ち上がる。脂汗に塗れた顔を二人に向けると、大きく腫れた右頬で媚びるように笑った。
「さっさと消えないと……特大の石で股間を潰すわよ!」
「すみ、すみませんでしたあああっ!」
男は内股で逃げ出した。下草に足を取られて横に転び、起き上がってふらふらになりながらも薄闇に消えていった。
茜は見えなくなったあとも厳しい言葉を投げ付けた。
「女の敵が!」
「まあ、まあ」
慶太は柔らかな表情で宥める。
「……猛獣使いになった気分だよ」
「何か言った?」
「それより石を回収しようよ。役に立ったよね」
「そうね。またきたら私の必殺の股間マッシャーが炸裂するわ」
「なんか聞くだけで下っ腹が痛くなるよ」
慶太は半笑いで石を回収した。