06 悪鬼
今村勇樹は歩きながら、クソッ、と声を荒げる。好青年の顔は完全に剥がれ落ちていた。端正な顔は苛立ちで歪み、地面を蹴り飛ばす。無駄な労力と知り、更に怒りが加速する。
ここまで誰とも出会わなかった。それどころか、飲み水となる川がない。野生動物の類いも見つからない。不毛な散歩が続いている。徐々に体力は削られ、喉の渇きと空腹を覚える。
それでいて求めるものが何もない。
「……休むか」
適当な木の根に腰を下ろした。何げなく太腿の側面のポケットに右手を突っ込んだ。もぞもぞと手を動かした末に取り出す。
安っぽいライターに火を点ける。数秒で消して握り締めたそれを目の前の地面に叩き付けた。
「なんで煙草がないんだ!」
両手で頭を掻き毟る。気が済んだのか。がっくりと項垂れて時を過ごした。
頭を上げた。好青年の顔を取り戻した。両手を使って髪を後方に流す。転がっていたライターに手を伸ばし、元のポケットに収めて立ち上がる。
「まずは人だ」
巨木の幹に背中を付ける。腕を組んで静かに過ごす。目だけが活発に動いた。
右斜め前を睨み付ける。のっぺりとした薄闇に形が生まれた。太った男が荒い息で現れた。
勇樹は素早く幹に隠れる。耳が微かな音を拾い、ゆっくりと移動して男性の背後に回った。
「ウソだろ。なんなんだよ、ここは。冗談じゃない」
戸惑う声には脅えが混じる。荒い息遣いに紛れて勇樹は易々と距離を詰めた。手には凶器が握られ、身体ごと打つかって右の腰部を貫いた。
背中に受けた衝撃で男は気だるげに振り返る。不思議そうな顔で腰に手を回し、血塗れになった手を見てへたり込んだ。
「なん、でだよ。ま、待って、い、痛いって……」
「飲み物を出せ。あと食い物だ。無駄に太ってないよな。早くしろ」
「た、助けて、痛い……どうして……」
「黙れ!」
勇樹は顔面に前蹴りを入れた。悲痛な声で仰向けに倒れた男へ馬乗りになって喉を凶器で一突きにした。断末魔の叫びを上げることもできず、大量の血が流れた。肉体が誤作動を起こしたかのように痙攣を始める。
「クソ、どこだ!」
勇樹は悪鬼の形相で男のポケットを弄る。赤色の使い捨てライターや消毒液を掴んでは投げ捨てた。
「何もないだと!? ふざけるな!」
瀕死の男を怒鳴り付けた。目に付いた腰のシースナイフをケースごと奪い取り、自身の腰に装着した。
「こんな収穫でも無いよりマシか。役立たずのデブが!」
勇樹は立ち上がって近くの下草を蹴り上げた。深呼吸で怒りを鎮めると男に一瞥もくれずに立ち去った。
歩きながら両手に凶器を握る。宙を薙ぎ、突いた。狂気の宿った眼で両手を存分に振るった。
その一方に握られた凶器が忽然と消えた。
「すっぽ抜けた?」
左の掌を見つめて、いや、と短い言葉で否定した。強く握り締めると踵を返し、男が斃れている方向へと戻っていった。
「おかしい」
方向は合っている。いくら足を速めても男が見つからない。鼻筋が強張る。逃げやがって、と憤怒の形相で吐き捨てた。
かなりの距離を歩いた。その末に立ち塞がるような巨木に行き当たり、勇樹は怒りに任せて蹴飛ばした。
歪んだ表情が痛みを訴え、自然と目が下に向かう。左右のケースの一つが無くなっていることに気付いた。
「まさか……」
勇樹は薄暗い森を改めて見回す。別の巨木に足早に近づき、固めた右の拳で殴り付けた。鈍い音がして後ろによろける。
「幻じゃないのかよ!」
右の拳を見ると中指の関節部分の皮膚が擦り剥けて血の玉ができていた。鬱陶しい虫を払うように手を振った。
その動作が止まる。
「……泣き声、なのか?」
不審に思いながらも待つことはしない。自らの足で向かう。勇樹は見つけた繁みに身を潜めた。
一人の若い女が泣きながらこちらに歩いてくる。着ている迷彩服は強い力で引き裂かれたかのように破れ、白い肩口が見えている。鎖骨の辺りには生々しい擦過傷があり、白いブラジャーの一部を赤く染めた。
「襲われたあとだが」
ふくよかな胸を見た。泣き顔は愛らしく、肉厚で柔らかそうな唇に目を奪われた。
「……悪くない」
座った状態でズボンのチャックを静かに下ろす。前を開いた状態で待ち受けた。やや鼻息が荒くなる。
女の横顔が見えた瞬間、勇樹は低い姿勢で飛び出した。相手の腰に体当たりして地面に押し倒す。
悲鳴は上がらなかった。女は手で目を覆うようにして、ただ泣いた。
「賢い選択だ」
勇樹は胸を鷲掴みにして嗤うと激しい行為に及んだ。
すっきりした顔でチャックを上げる。新たに手に入れたシースナイフをケースごと腰に取り付けた。
勇樹は俯せの女を見やる。白い臀部を晒した状態ですすり泣く。
「ナイフとケースは貰っていく」
女は言葉を返さない。泣き声が少し大きくなった。
構わずに歩き出す。すぐに厳しい表情となって後ろを振り返った。
「自殺はするなよ! 絶対だ!」
泣き声は変わらなかった。勇樹に未練は微塵もなく決めた方向に突き進む。
目と耳に意識を集中して濃密な時間を過ごした。
ふと腰に目がいく。奪った凶器は消え失せていなかった。
「あの女、意外としぶといな」
愉悦を含んだ声で言った。