05 晒し者
巨木の根元、下柳洋子が横向きの姿で眠っている。長い黒髪は鼻と口元をやんわりと覆う。瞼が痙攣したように動き、眉根を寄せた。
微かに唸るような声で仰向けになる。大きく振られた左手の甲は隆起した木の根に強かに打ち付けられた。
「……痛い」
一言で目を覚まして痛む左手を摩った。
「……ここは、どこ?」
びくびくしながら上体を起こす。口から出た言葉は深い森の薄闇に呑まれた。人気はなく何の物音も聞こえて来ない。
立ち上がろうとして服装に目がいく。迷彩柄の服を着ていた。
「どうして私が!?」
驚いた拍子に腰に下げた物が目に留まる。突き出た柄を恐々と握り、ゆっくり引き抜くと銀色の刃が露になった。小型のシースナイフを目にして手が小刻みに震える。ケースを傷つけながらどうにか元に戻した。
「ここから、出ないと」
よろけるようにして立ち上がる。長い黒髪に枯れ葉を付けたまま、怯えた目で歩き始めた。
踏み付ける枯れ葉の音にビクッと肩が上がる。慣れた頃に枝を踏み、乾いた音に驚いて喉の奥から短い悲鳴が漏れた。
「もう、何なのよ……」
涙声で枝を何度も踏み付ける。軽く息が上がった。
顔に掛かる髪を手で後ろに払い、大股で歩いた。下草が密集しているところは避けて通る。薄闇に目が慣れてきて足の運びは、幾分、滑らかになった。
立ち止まる回数が増えてきた。喉の渇きで生唾を呑み、合間に周囲を見回す。変化に乏しい深い森が不安を掻き立てる。
「進んでいる、よね?」
自身の言葉に身体が震えた。自然と歩く足が速くなる。草に足を取られそうになりながらも前進した。遂には両腕を振って走り出した。
長い髪は左右に振られた。薄闇を突き抜ける勢いで走った。突き出た石を跳び越えて尚も走る。歯を食い縛って全力を絞り出し、自身の足がもつれて前に倒れ込んだ。
その姿で荒い息を整える。間もなく四つん這いとなって立ち上がった。両方の掌を見ると擦り傷ができていた。幸いなことに血は見られず、拍手する形で土を払い落とした。
一方から枯れ葉を踏む音がした。
洋子は動きを止めた瞬間、誰、とやや裏返った声で言った。
「その声は……下柳さん?」
巨木の幹から城山響子が顔を覗かせる。洋子は目を細くした。
「城山さんも……」
一瞬、曇った表情を柔和な笑みに変えた。自ら歩いて近づく。
「突然、このような場所に一人にされて、とても心細くて」
「そうでしたか」
響子は幹から現れた。洋子と同じで迷彩柄の服を着ていた。
「城山さん、一緒にこの不可解な現状から抜け出しましょう」
「……そう、上手くいくでしょうか」
響子は俯いた姿で気落ちしたような声を漏らす。
洋子は足を速めた。急速に二人の距離が縮まる。
「城山さん!?」
言いながら上体が僅かに仰け反る。響子は俯いた姿で目を剥いて嗤っていた。
気付いた時には遅かった。洋子が踏み込んだ左足の周辺で枯れ葉が舞い、鋼の牙が脹脛に食い込んだ。
絶叫に近い声で洋子は転倒した。激痛に涙を流しながら食い付いた物を両手で懸命に開き、左足を引き抜いた。食い込んだ牙は皮膚を突き破って黒いブーツを赤く染めてゆく。
響子は冷ややかな目で見下ろす。
「狩猟用のトラバサミの威力はこんな物ですか。がっかりです」
「そ、そんな、まさか……」
答えを聞く前に身体が反応した。両手と右足を使って必死に逃げる。響子は余裕の歩きで追い詰めた。
「挟まる威力で千切れると思ったのですが、本当に残念です。もう、わかりましたよね?」
「ど、どうして。言われた通りに、クラスの情報を流した、のに。なんで、こんな酷い目に……」
「まだ、わからないのですか? 少し苛々してきました」
響子はコンバットナイフを抜いた。猛悪な見た目に洋子は震え上がる。
「わからないわ! 全然、わからないよ!」
「情報を流したあなたも、わたしを笑い物にしていたよね」
「そんなこと、してない!」
「親友の磯崎さんから聞きましたよ。どうですか。少しは思い出しましたか」
嗤いを含んだ声に洋子は言葉を失った。
「……掲示板のことなら、そうだけど」
「やはり、そうでしたか。そうだと思いました。これで安心してあなたを切り刻むことができます」
「え、待って。騙した? 城山さん、酷いよ。意味が、わからない」
「簡単に仲間を売る人が、信用されると本気で思うのですか?」
「だ、だって、それは! あなたが父親の会社の立場を利用して、わたしを脅したからで!」
「それでも親友を裏切ったらダメだよね?」
気楽に言葉を返した響子はコンバットナイフを振り下ろす。洋子の太腿を掠めるようにして地面に突き立てた。
「ああ、あああああ!」
言葉にならない。洋子は限界まで両脚を開いた。股間にできた黒い染みが瞬く間に広がる。
コンバットナイフを地面から引き抜いた響子はわざとらしく鼻を摘まんだ。
「失禁なんて初めて見たわ。漫画だけじゃないんだね。この恥ずかしい話を掲示板に書き込んだら、皆が喜んでくれるよね」
「ああ、あああ、やめて。あああ」
涙と鼻水が入り混じった顔で後退る。巨木の幹に背中を打ち付けた。一度、咳き込んで尚も逃げる。
響子はニヤニヤしながらゆっくりと追い回す。
「もう、許して……」
体力の限界が訪れたのか。気を失うように上体が傾いだ。倒れた勢いで顔の半分が枯れ葉に埋まる。
「……向こうが嫌なら、ここで晒し者になればいい」
響子は股間の黒い染みを見て冷たい笑みを浮かべた。