03 底知れない憎悪
今村勇樹は汗に塗れた顔で両手を突き出した。
「ま、待ってくれえええ!」
悲痛な叫び声で我に返ったのか。臆病な小動物のように四方に視線を飛ばす。
「ここは、どこだ?」
未知への恐怖は皆無で安らかな表情に変わる。好青年の見た目に戻り、その場にへたり込んだ。
薄暗い周囲には巨木が無秩序に生えていた。地面は枯れ葉や下草で覆われ、朽ちて横倒しになった木は菌糸類の苗床になっていた。
「……一服するか」
手は胸元を探る。下の方に滑らせて表情が険しくなった。苛立った様子で直に見た。
「なんだ、この姿は!?」
腰のケースに目がいく。柄を握って引き抜くと小型のシースナイフだった。何げなく近くの下草に振るうと簡単に切れた。
「なんで、こんな物が……」
銀色の刀身を見つめてケースに収めた。
手掛かりを得ようと他のポケットにも当たる。僅かに表情が動いた。指先で摘まんだ物を顔の前に持ってくる。書かれた一文に、そうか、と返す。汗で濡れた前髪を掻き上げると裏の顔を見せた。
『現実と隔離された殺戮の森へようこそ』
勇樹はゆらりと立ち上がる。抑え切れない感情が陰惨な笑みとなった。
より深い闇に向かって歩き出した。
響子は出だしの狂騒状態を抜け出した。巨木で身を隠し、素早い移動で標的を探す。
前方に人影を見つけた。瞬時の判断で腹這いの姿勢を取った。下草の合間から様子を窺う。
標的はシースナイフを両手で持ち、終始、頭が動いている。たどたどしい歩き方で何かに驚き、即座に眼鏡の中央を押し上げた。
「……いいわ、とてもいい」
響子の頬が盛り上がる。口の両端は限界まで吊り上がった。意識して真顔に戻し、目立たないようにゆっくりと立ち上がる。
腰のケースのコンバットナイフを手に取ると、鋭い尖端を目の前の地面に向けた。見た目の変化はないが速やかにケースに戻した。
瞬間、響子は怯えたような表情を作ると自ら声を掛けた。
「そこにいるのは、磯崎さん?」
「だ、誰ですか!?」
「わたしです。同じクラスの城山です」
響子は足元を気にしながら大回りをして近づいた。標的は手にしていたシースナイフをケースに収めた。
「城山さんも巻き込まれたのですか」
「はい、目が覚めるとこのような服装で森にいました」
「他に何か気付いたことはありませんか」
眼鏡の奥の目を細くして訊いてきた。響子は僅かに視線を落とし、口を閉ざす。
「特には。ごめんなさい」
「それならいいのです。こちらも突然のことなので戸惑っています」
「転ばれたのですか?」
響子は顔を近づける。
「木の根に躓きましたが、どうして?」
「頬に汚れが付いています。この手鏡で見えるでしょうか」
掌に収まる程度の鏡を差し出した。受け取ると、早速、顔に近づける。
「土が付いていて、少し赤くなっていますね」
「擦らない方がいいです。わたしが見つけた泉に案内します。そこで雑菌と一緒に洗い流してください」
「ありがとう。鏡は返しておきます」
受け取ると響子は踵を返した。来た方角に向かって歩き出す。背後に付けた標的はにこやかな顔で腰のケースに手をやる。探り当てるようにして柄を掴み、引き抜こうとした。
「ここを真っすぐに進めば、すぐに泉に着きます」
「わかりました」
瞬時に柄を離して答えた。
先頭の響子が前方に向かって軽い跳躍を見せた。着地と同時にくるりと回って笑顔で待ち受ける。
「何もないところで」
言葉の途中、標的は地中に引き摺り込まれた。数秒後に重々しい音が響き、短い悲鳴が上がった。
響子は剥き出しの眼で笑った。軽い興奮で頬が赤らみ、出来た穴を覗き込んだ。
「見事に落ちましたね」
「あ、足首が、痛い」
穴の底に落ちた衝撃は相当なものらしく足首を手で押さえていた。痛みのせいで頭が激しく震えている。
「この落とし穴は、そうですね。目測で四メートルくらいはあります。当然の結果ですね」
「どうして、こんな酷いことを」
痛みに耐えながら顔を上げる。標的の目には涙が滲んでいた。
「磯崎さん、あなたが先です。前をいくわたしを刺そうとしました」
「そんなこと、していない」
響子は手鏡を軽く振って見せた。
「手の中に隠して後ろを見ていました。あなたが先にわたしに明らかな殺意を向けてきたのです」
「……それは、そうだけど……でも、カードには」
「そうですか。『殺戮の森』の意味をあなたなりに解釈したのですね。相手を斃せば現状を打破できると」
声はなく、ただ頭を下げた。
「正直者は嫌いではないですよ。この森を創造した甲斐がありました」
「それは、どういう意味? あなたが、わたしをこんなところに……連れ込んだのですか?」
「その通りです。あなた達をわたしが創造した世界にお招きしました」
響子は深々と一礼した。
「ふ、ふざけないで!」
怒鳴った瞬間、口を噤んだ。足首を両手で懸命に押える。
「あまり大きな声を出されますと足首に響きますよ。あ、そうでした。正直者の磯崎さんに質問があります。ネットの掲示板の『可憐な乙女達』というスレッドを知っていますか」
一瞬、頭の震えが止まった。
「聞き取れなかったのですか? もう一度、言いましょうか」
「……知らない。聞いたこともない」
頭を下げて小声で返した。
「あなたが立てたスレッドなのに?」
「わたし、じゃない。言い掛かりはやめて!」
響子は口を閉じた。黙って穴の底を睨み付ける。標的は恐る恐る頭を上げた。待っていたかのように話し始める。
「……あなたは教室で楽しそうに金星の話をしていました。相手は下柳さんでした。親しい間柄でいろいろなことを話して来られたのでしょう。例えばわたしの話とか」
「そ、そんな、ことが」
「あるのですよ。わたしにとって、たった一人の内通者なのですから」
「どうして、洋子が! 親友なのに!」
足首の痛みを忘れたかのように怒りを露にした。
「親会社と子会社の関係と言えば、納得していただけると思います」
「遣り方が汚い! 卑怯よ!」
「集団でわたしを笑い物にするのは卑怯ではないのですか」
会話は途切れた。響子は顔を引っ込めた。穴の縁で腕を組んで時間を潰す。
「……わたしが、悪かったわ……ごめんなさい。許して、お願い。ここから出して。もう、笑い物にはしないから。みんなにも言っておくから……お願いよ、そこにいるんでしょ……答えてよ……」
声には微かな泣き声が混じる。
響子は満面の笑みで穴を覗いた。
「クイズを出します。正解すれば穴から出して上げましょう。このコンバットナイフの用途を答えてください」
ケースから取り出して全体を見せる。標的は戸惑いながらも急いで答えた。
「あの、それって、大きなナイフだよね。武器だから用途は人を刺したり、邪魔な蔓を切って道を作るとかでしょ」
「それもありますが、はずれですね」
「……どうして?」
「わたしは神から与えられた力で世界を創造しました。今は失われ、新たにコンバットナイフを授かりました。この武器は心の中に思い描いた罠を創造します。この落とし穴も、その一つです」
「そんなの、わかる訳ないじゃない……お願い、助けてよ……」
哀願する標的に響子は唐突に目を剥いた。
「だからクイズにしたんだよ! 誰が助けるか、バーカ! そこで惨めに息絶えろ、眼鏡ブス!」
響子は土を蹴って穴に落とす。激しい咳き込みを無視して蹴り続けた。見つけた石は両手で抱えて落とした。鈍い音がして低い唸り声が聞こえる。構わずに何個も落とした。
荒い息で、一度、冷ややかな眼で底を眺める。
身体の大半が埋まっていた。地上を求めた指だけが土の中から生えている。その指が薄れ、命と共に消失した。
「ごきげんよう」
その言葉を笑う者は誰一人いなかった。