第三十八節 利害で結ばれた関係が、当てになるのか
「この戦いを、いつまで他人を当てにして進めるつもりなのですか?」
こう発言した四郎勝頼を……
山県昌景、内藤昌豊、馬場信春の3人の武田四天王が強く頷いて支持している。
無知な素人には理解できない話だが、彼らのような玄人には容易に理解できる話だ。
「他人を当てにした作戦で、戦争の『決着』が付いたことなど一度もない」
これは古今東西あらゆる戦争において共通する真理である。
「戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい」
この志を同じくする織田信長と徳川家康のような『同志』ならともかく……
利害で結ばれた関係ほど当てにならないものはない。
いずれ必ず、利害はもつれ、争いが生じ、熾烈な戦いとなって共倒れに終わる。
真の勝利を得たいなら、『己の力』で戦うことだ。
◇
「信君、信豊」
武田信玄は一族の重鎮に意見を求めることにした。
穴山信君と武田信豊である。
「そちたちは……
どうすべきだと思う?」
信君が口火を切る。
「申し上げます。
朝倉・浅井連合軍2万5千人が織田の大軍3万人を釘付けにしている間に、我ら武田軍3万人が徳川家康を討つ。
『この作戦ならば確実に勝利できる!』
我ら武田一族は、こう確信して出陣したのをお忘れでしょうか?」
「忘れてなどおらん」
「ここで朝倉軍が撤退してしまうと、浅井軍5千人だけで織田の大軍3万人を釘付けにすることは不可能です。
『前提』がまるで違うではありませんか」
「……」
「前提が変わって不安を感じる兵たちに、それがしは何と説明すれば良いのです?」
「ではどうしろと?」
「『撤退』も有り得るかと存じます」
信君の意見に対して、勝頼が口を挟む。
「撤退だと!?」
「致し方ないことでは?」
「つまりおぬしは……
朝倉軍2万人を当てにして、あの織田信長と戦うことを『決断』したのか?」
「……」
「おぬしの頭の中は一体どうなっているのだ?
そんな『甘い』考えで戦に臨むとは……」
「甘い、とは聞き捨てなりませんな。
作戦を非難するということは……
それはすなわち、作戦を立てられた信玄様を非難しているのと同じでござろう」
「揚げ足取りは止めよ。
どれだけ完璧な作戦を立てたとしても、敵も味方も『人』である以上は前提が変わるなど当たり前の出来事なはず」
信豊が、勝頼と信君との間に入った。
「我らは今のところ織田信長と戦っているが、あくまで一時的なことでは?」
「は?
今、何と?」
「我らは川中島で5回も上杉謙信と戦ったことをお忘れでしょうか?
それも、今や昔の話……
戦になったからといって、最後の一兵になるまで徹底的に戦うわけではないと存じますが」
勝頼は、こみ上げた怒りを抑えることができなくなった。
「信豊!
おぬしは、そんな程度の『覚悟』で織田信長と戦うことを決意したのか?」
「え……?」
「そんな程度の覚悟で、わしがいない間に我が妻を躑躅ヶ崎館[甲府にある武田家の居城のこと]から追い出したのか!」
「お待ちを!
御用商人[大名に出入りしている武器商人のこと]と諍い[言い争いのこと]を起こした、そなたの妻を守るためには……
武田家の菩提寺である恵林寺こそが最も安全だと思っただけでござる」
「信豊よ。
おぬしと信君について、ある『噂』が流れているのを知っているか?」
「どんな噂で?」
「武器商人どもと癒着し、裏で銭[お金]を受け取っているとの噂がな」
「……」
「おおかた、今回の戦への出陣を決断したのも……
奴らの甘い言葉に乗ったからであろう?」
「……」
「返答せんか、信豊!」
「そ……
それは、濡れ衣ですぞ。
勝頼殿。
何卒、お怒りを鎮められよ」
今度は信君が、勝頼と信豊との間に入った。
「妻を失ったことは残念に思うが……
女子は所詮、政略結婚の道具に過ぎないものでは?」
「何だと!?」
「勝頼殿の妻になりたい女子なら、数え切れない程いる。
代わりはいくらでもいるではござらぬか」
「お、おのれ……
信君!
我が妻を侮辱する気か!」
「侮辱?」
「我が妻は、道具などではない。
我らと同じ『人』だ!」
「……」
「同じ言葉を二度と吐くなよ。
次に吐いたら己の身が無事では済まないと思え!」
「……」
「信豊も、よく覚えておけ。
今回の戦は……
川中島とはまるで訳が『違う』ことを」
「どういう意味で?」
「信長は、我が妻を幼少の頃から手元で大切に育てていた。
実の子供よりも深い愛情を注いでいた。
最愛の娘を想うほどに……
娘を守れなかった武田家に対する復讐の炎は、全てを灰にしたいと願うほどに激しく燃え上がっている。
もう『誰』にも消すことなどできん!」
「だ、誰にも……!?」
「信豊よ。
信長を甘く見ないことだ。
一度やると決めたら、最後まで『徹底的』にやる男だぞ」
「……」
「信長という容易ならざる相手と戦うことを一度でも決断したのなら……
覚悟しろ。
己の『命』を賭ける覚悟をもって、戦に臨め」
「……」
「そもそも戦とは、人同士が醜く殺し合う行為のことであろう?」
そして勝頼は、軍議の席にいる一族や家臣たちへ向かってこう言い放つ。
「各々方!
さあ。
どちらかを選ばれよ。
己の一族、己に属す全ての者たちを守るために……
命を賭して戦に臨み、信長を『殺す』ことを目指すか?
それとも。
他人を当てにして、黙って信長に『殺される』ことを受け入れるか?
二つに一つを。
殺す覚悟も、殺される覚悟もないのなら、最初から戦をする決断などしないことだ」
軍議の席は沈黙に包まれた。
◇
この沈黙を破ったのも勝頼である。
「父上。
お下知を」
「……」
「それがしは、高天神城を全軍で攻めたいと存じますが……
いっそのこと浜松城でも構いません。
城内に潜む民を全て殺せとのお下知ならば、尽く殺しましょう。
朝倉軍が撤退してしまっては全てが手遅れです」
「……」
「父上。
もう二度と、徳川家康を討つ好機はやって来ないかもしれません。
何卒……
お下知を!」
父は躊躇っているようだ。
重い病が、武田信玄という男から日毎に覇気を奪い取っていたのだろうか。
「平氏あがりの平信長が何するものぞ!
甲斐源氏の名門たる武田家こそ、幕府軍を率いるに相応しい家柄であろう!」
出陣前に兵たちへ向かって力強く演説していたときの覇気は、もうない。
何度も血を吐いたせいか……
格幅の良かった身体も、見るも無惨に痩せ衰えてしまっている。
「わしが、そなたほど若ければ」
2人の会話で何度もこう言っていた。
あくまで若ければ浜松城を総攻撃して家康を討つ決断が出来るだけであって、『今』ではないのだろう。
難攻不落の地形に恵まれている、家康の生命線・高天神城。
浜松に住む数万の民が武器を手に取って潜んでいる、家康の居城・浜松城。
どちらを攻撃しても、攻める武田軍は無傷どころか数千人の犠牲者が出るに違いない。
首尾よく家康を討つことに成功したとしても……
朝倉軍が撤退すれば、今度は無傷の信長の大軍を相手に戦うことになる。
「この軍勢を『無傷』な状態に保たねばならん。
わしは、息子のために無敵の武田軍将兵を一人でも多く残さねばならないのじゃ」
父の側で世話をしている者は、父が何度もこう呟いているのを聞いたらしい。
恐らく父は……
朝倉軍と歩調を合わせることを優先するだろう。
「息子よ。
そなたの申すことは尤もではあるが……
朝倉義景殿が率いる2万人は我らにとって貴重な兵力じゃ」
案の定である。
「その義景殿が……
『武田軍には一刻も早く西へ兵を進めて欲しい』
こう頼んできている。
無下にはできまい」
「父上。
義景殿の要請に応えるために、堀江城攻めを中止して西へ向かうと仰せなのですか?」
「うむ。
野田城[現在の愛知県新城市]を『ゆっくり』と攻めつつ、朝倉軍の動向を掴むことと致そうぞ」
野田城!?
思わず耳を疑った。
三河国の東部にある、とても小さな城だ。
「えっ!?
野田城?
岡崎城でも、吉田城ではなく?」
三河国の中心地は、岡崎城と吉田城[現在の愛知県岡崎市と豊橋市]である。
攻めるならむしろこっちであるべきだろう。
自分のために、武田軍の将兵を一人でも多く残そうとしてくれる気持ちはありがたいが……
父の消極性は度を越えているように感じられた。
それでも父は武田家の当主である。
家康を討つ千載一遇の好機ではあるが、勝頼は父の命令に従うしかなかった。
こうして家康の生命線・高天神城も、家康の居城・浜松城も、武田軍による攻撃を受けずに済んだ。
家康は九死に一生を得た。
【次節予告 第三十九節 素人は戦略を語り、プロは兵站を語る】
朝倉義景には大きな試練が待ち受けていました。
兵糧が尽きてしまったからです。
その原因は、『わざわざ』琵琶湖を埋め立てて築いた坂本城にありました。




