第三十五節 徳川家康の生命線、高天神城
遠江国の南に高天神山[現在の静岡県掛川市]という山がある。
標高は100メートル程度しかないが、全体が急斜面のために非常に攻めづらい地形となっている。
この地域を治める国衆[独立した領主のこと]であった小笠原一族は……
山の麓を流れる一つの川に注目した。
「この川は菊川に合流し、遠州灘という海へとつながる。
この場所に船着き場を設ければ……
難攻不落の城に守られた、海へとつながる港ができるではないか。
遠江国の支配者は必ず、我ら一族に対して『一目置く[相手が自分よりも優れていると認めて敬意を払うという意味]』に違いない!」
と。
実際に小笠原一族は、国の支配者から常に一目置かれていたようだ。
あの今川義元は一門衆と同じほどに扱い、徳川家康は近隣の国衆たちの筆頭として扱っている。
高天神城という難攻不落の城に守られた、海へとつながる港を……
国の支配者がどれだけ『重要視』していたかお分かり頂けただろうか。
◇
「この高天神城を、全軍で直ちに落とすことです」
四郎勝頼の発言は大きな波紋を呼ぶ。
周囲の者たちから様々な声が上がったが、どれも否定的なものばかりであった。
「高天神城は……
西ではなく東にある城であろう?」
「我らは、『西上作戦』と号して西へと向かっている。
東へと向かうのは逆方向ではないか」
「それに高天神城は……
浜松城と違って山地の城では?」
「『難攻不落の地形に恵まれた城を攻めれば、大きな犠牲が出よう。
高天神城などほっておけ』
信玄様も、こう申されていたではないか」
などと。
◇
ただし。
一人、敏感に反応した男がいる。
勝頼の父・武田信玄である。
「勝頼よ。
高天神城は、それほどまでに重要な城だと申すのか?」
「『徳川家康の生命線』です」
「何っ!?
なぜ、そうなる?」
周囲の者たちの声が一斉に止んだ。
◇
「生命線とは……
鉄砲を撃つのに必要な、弾丸と火薬の補給線のことです」
「弾丸と火薬の補給線?
詳しく説明してくれ」
「弾丸と火薬を作る原料の鉛と硝石は、南蛮人[スペイン人とポルトガル人のこと]から買うしかありません。
そこで日ノ本各地の武器商人たちは……
鉛と硝石を得るために、価値のある金や銀に加えて同じ日ノ本の人を奴隷として売り渡す『南蛮貿易』という醜悪な取引をしているのです」
「南蛮貿易が、醜悪な取引だと申すのか?」
「父上!
武器商人どもは、異国の奴らに同胞[同じ日本人であること]を売り渡しているのですぞ?
『売国奴[自分の国を他国へ売る裏切り者のこと]』どもの取引を語るのに、醜悪以外の相応しい言葉がありましょうや?」
「売国奴、か。
確かにそうだな……」
「この醜悪な取引は、堺のある和泉国[現在の大阪府堺市など]、安濃津のある伊勢国[現在の三重県]、摂津国[現在の大阪府北部と兵庫県東部あたり]で行われているとか。
織田信長はこれら3つの国を押さえ、鉄砲の弾丸と火薬をほぼ独占しています。
肝心の織田の軍勢は朝倉・浅井連合軍などへの対応で釘付けとなっていますが……
盟友の徳川家康を最大限に支援すべく、堺や安濃津などから船を回して夥しい量の鉄砲の弾丸と火薬を送っているのです」
「要するに。
高天神城の麓にある船着き場を経由して、家康は鉄砲の弾丸と火薬の『補給』を受けていると?」
「夥しい量の弾丸と火薬をです、父上。
この補給線を断たない限り……
浜松城を落とすどころか、徳川軍はますます厄介な存在となりますぞ」
周囲の者たちは依然として沈黙したままだ。
◇
一方で父の方は……
息子の着眼点に、ただただ驚いていた。
こんなに大事なことを見落としていたとは!
敵の補給線を断つことは、戦の基本中の基本ではないか!
父が賛同しようとする前に……
穴山信君が反対の意見を言い始めた。
自分の意見というよりも、ただ反対意見をまとめただけであったが。
「我らは、西上作戦と号して西へと向かっています。
東へと向かうのは逆方向ではありませんか?
しかも。
高天神城は山地の城であり、難攻不落の地形に恵まれています。
それを全軍で直ちに落とせとは非常識極まりない!
常識で考えれば浜松城か、信豊殿の申された岡崎城[現在の愛知県岡崎市]を攻めるべきでしょう。
どちらも難攻不落の地形に恵まれていない、平地の城ですぞ」
勝頼が言い返す。
「岡崎城など以ての外。
時間の無駄だ!
徳川家康を討つか、捕らえない限り……
いつまで経ってもこの戦の目的が『達成』できないではないか」
「……」
「加えて。
浜松城には、家康が兵へと変えた数万の民が潜んでいると申したはずだが?」
「それは真ですかな?」
「おぬしは……
武田軍最強部隊である赤備えを率い、武将としての本能を極めた山県昌景殿の目が節穴だと申したいのか?」
「い、いえ……
そういうわけではないが……
仮に数万の民が鉄砲を手に潜んでいるとしても、民など所詮は戦の『素人』に過ぎないのでは?」
「それで?」
「戦の素人がどれだけ集まろうと、精強を誇る我ら武田軍が敗北するなど考えられない」
「我らが敗北する?
わしが、いつ、そんなことを申したのか?」
「え!?
違うと?
浜松城は容易に落とせないと申されていたではないか」
「おぬしは何か勘違いをしているのでは?」
「勘違い!?」
「我らは何の『ため』に戦っている?
数万もの無垢の民を殺すためなのか?」
「そ、それは……」
「浜松城を攻めるということは、老若男女問わず数万もの民を虐殺するという意味なのだぞ?」
「し、しかし!
いくら民とはいえ、武器を手に取った以上……
殺されて当然では?」
「おぬしは、それでも『武人』なのか?」
「武人?」
「己より圧倒的に弱い、戦の素人を殺して何が武人か!
武人の誇りすら失うとは情けなや。
恥を知れ!」
「……」
「まだあるが。
おぬしは……
民が、真実を知った上で武器を手に取ったと思っているのか?」
「ん!?
『真実』?」
◇
「民が、真実を知った上で武器を手に取っているのか?」
『相手の立場』になって考えることのできない穴山信君には……
勝頼の発した質問の意味が、まるで理解できないようだ。
「真実?
どういう意味で?」
「家康は、一貫した意図を持って行動していると申したではないか。
1つ目は、圧倒的に不利な状況でも、決して滅ぼされない戦い方をすること。
2つ目は、それでも敗北する場合は、信長のために武田の兵を一人でも多く殺しておくこと。
この2つを満たすために……
家康は巧みな『演説』で数万もの民を操り、そして兵へと変えたのだ」
「演説?」
「『浜松に住む民よ。
この遠江国の大樹[強大な勢力という意味]であった今川家すら滅ぼした武田軍が、すぐ近くの大井川の先にまで迫っている。
武田軍が信濃国[現在の長野県]を侵略したとき、どんな蛮行を働いたか知っているか?
主だった者たちを悉く殺し、城下の町を略奪し、老若男女問わず全ての民を奴隷として売り飛ばしたのじゃ!
この浜松城が落ちれば……
すべて、終わりだと思え。
男は殺され、女は凌辱され、子供は売り飛ばされる!
浜松に住む全ての民よ!
さあ、鉄砲を取れ!
有り難いことに、日ノ本中の鉄砲の弾丸と火薬を独占した織田信長殿が夥しい量の弾丸と火薬を送ってくれている。
遠慮せず撃って、撃って、撃ちまくれ!
そちたちの手で、父と母を、妻を、息子と娘を守るのじゃ!』
とな」
「ま、待たれよ!
勝頼殿。
信濃国を侵略したときの蛮行だと!?
十年以上も昔のことではござらぬか。
それも、相応の理由があってのことじゃ。
我らは徳川の多くの城を落としたが……
男を殺し、女を凌辱し、子供を売り飛ばしたりなどしていない!」
「さっき申したではないか。
『民が、真実を知った上で武器を手に取っているのか?』
と」
「すると。
家康は……
浜松に住む民に真実を伝えず、『偽りの噂[デマ]』で武器を手に取らせたと!?」
「家康は圧倒的に不利な状況にある。
己の意思を貫くために……
なりふり構わない手段を用いるとして、何の不思議があろうか!」
「……」
「家康を甘く見ないことだ。
敵を過小評価することは、ひたすら敗北へと転がり落ちる道ぞ」
あの武田四天王も、勝頼が語る度に大きく頷いている。
勝頼の意見が圧倒的優位に立っているのは一目瞭然だ。
後は、武田信玄の言葉で全てが決まる。
息子の意見に賛同しようと信玄が口を開いた、まさにその瞬間!
不運としか言えない出来事が起こってしまう。
大量の血を吐き、倒れてしまったのである。
【次節予告 第三十六節 武田勝頼と織田信長の差とは】
武田勝頼の実力は、父の信玄さえ凌いでいました。
ただし……
勝頼の持つ器用さが、『仇』となるかもしれないのです。




