第三十四節 数万もの民を殺してでも浜松城を攻めるべきなのか
三方ヶ原合戦で惨敗して逃走する徳川軍を追撃していた武田四天王の一人・山県昌景は、浜松城の門が全て開いているのを見るや直ちに全軍停止を命じた。
「一見すると、城内には避難している浜松の民しかいないようだが……
あれは、真に民なのか?
どうも……
罠の臭いがする!
こういうときは『本能』に従うべきだ」
一つの命令を下す。
「誰一人といえども城の中へ入ることを許さん。
命令に逆らった者に加え、民に略奪を働いた者も容赦なくその場で首を刎ねるゆえ……
そう心得よ!
全軍、退却!」
山県昌景といえば……
当主の信玄、その息子の四郎勝頼に留まらず、敵からもその実力を高く評価された武将である。
歴史書でも武将としての評価は非常に高い。
それにも関わらず、歴史書はこんなことまで書いている。
「空城の計にまんまと引っ掛かって退却してしまった」
などと。
高い評価をしながら、策略に引っ掛かる間抜けな扱いをする。
残念ながら昌景は凡人[普通の人という意味]ではない。
むしろ名将の中の名将だ。
無知な素人が、平和ボケの中で『エンターテインメント[娯楽]』の一環として書いたのだから仕方ないとは思うが……
凡人の感覚で扱っては山県昌景に対して失礼だろう。
◇
武田軍が、戦後処理のための軍議を開いている。
総大将の信玄とその息子・四郎勝頼、武田四天王のうちの3人・山県昌景、内藤昌豊、馬場信春、武田一族の重鎮である穴山信君、武田信豊などが出席していた。
「我らは三方ヶ原で大勝し、徳川家康を浜松城へと追い詰めた。
さて。
今後、どう動くべきか意見のある者は?」
信玄である。
穴山信君が先頭を切った。
「この勢いで、浜松城を一気に落とすべきかと」
ほとんどの者たちが頷いているのを見た信君は、質問を畳み掛ける。
「ところで昌景殿。
城の門が全て開いていたのにも関わらず、事もあろうに退却されたとか?
それを見て利敵行為だと騒ぐ兵が大勢おりましてな。
『徳川家康と通じているのでは?』
などと。
違うのなら、何か弁明されては如何?」
皆の視線が昌景に集まったが、当の本人は淡々とこう答えた。
「弁明など必要ない。
罠の臭いがしたから退却しただけだが、それが何か?」
と。
◇
信君に続いて何人かが笑い出す。
「ははは!
てっきり家康と通じていたかと思っていたが、ただ単に策略に引っ掛かっていただけとは!
まさか、昌景殿。
本気で空城の計を恐れて退却されたと?
あの逃げっぷりから見ても、罠を仕掛ける余裕があるとは到底思えないが?」
一瞬、苛立ちを見せた昌景が何か言おうとするのを……
鶴の一声が止めた。
「息子よ」
「ここに」
「そなたは、どう思う?
考えを申してみよ」
皆の視線が、今度は勝頼へと集まる。
「我らは三方ヶ原で徳川の兵を大勢討ち取りましたが……
肝心の鉄砲隊には逃げられている事実を憂慮すべきかと」
「なぜ逃げられたと分かる?」
「討ち取った敵のほとんどは、重い甲冑を着た兵でした。
鉄砲を撃つのに甲冑など不要でしょう?」
「確かにそうじゃ。
我らは、敵の鉄砲隊をほとんど討ち取れなかったのか」
「鉄砲隊は甲冑を着ていないばかりか、敵が接近すればすぐ逃げ出すもの。
追い付くのは至難の業と思われます」
「鉄砲の弾丸と火薬が豊富にある浜松城を……
昌景隊『だけ』では落とせなかったであろうな」
「父上。
残念ですが……
武田軍全軍で攻めても、浜松城は容易に落とせないでしょう」
「何っ!?
それは真か」
◇
「武田軍全軍で攻めても、浜松城は容易に落とせない」
この勝頼の言葉は……
一同に衝撃をもたらした。
「息子よ。
我らは、徳川の兵を大勢討ち取った。
鉄砲隊のほとんどが無事とはいえ……
まともに戦える兵など半分もいないのでは?」
「その通りかと」
「一方で、我が武田の兵は数百人が殺られた程度じゃ」
「……」
「しかも。
浜松城は、山地でもなく『平地』に築いた城ぞ?」
「その通りです。
難攻不落の地形に恵まれているわけではありません」
「そうならば……
明日、全軍で浜松城に攻め掛かってはどうじゃ?
落とせる可能性は十分にあるはず」
「それがしは、ずっと考えておりました。
徳川家康が浜松城の門を全て開けた真の『理由』を」
「昌景隊だけなら何とかなると思ったからではなく?」
「思い出してください。
三方ヶ原合戦は夕刻[夕方のこと]近くに始まり、暗くなる前には決着が付きました。
徳川軍を追撃していた昌景隊が浜松城に付いた頃には辺りが真っ暗となっていたはず」
「……」
「真っ暗で何も『見えない』のに、追撃していたのが昌景隊だけだとどうして分かるのでしょう?」
「ん!?
要するに……
徳川家康は、昌景隊よりもっと大勢の武田軍が城内に突入することを想定した上で全ての門を開けたのか!?」
「そういうことになります」
◇
勝頼の話は、一同に更なる衝撃をもたらした。
「徳川軍でまともに戦える兵は半分もいないはず……
だいたい5千人程度であろう?
我らに突入されては、ひとたまりもないぞ?」
「真に5千人程度ならば、その通りです」
「ん!?
援軍といえば、織田信長が遣わした3千人のみではなかったか?
それも蜘蛛の子を散らすように逃げたのであろう?」
「父上。
浜松城を見た昌景殿は、こう呟きました。
『一見すると、城内には避難している浜松の民しかいないようだが……
あれは、真に民なのか?』
と」
「もしや!
民ではなく、民に『見せかけた』兵であると?」
「鉄砲は戦そのものを変えました。
刀や槍、弓矢と比べて圧倒的に短い時間の鍛錬で済み、非力でも構いません。
老若男女問わず大勢の民を、『手軽』に兵へと変えることが可能になっているのです」
「あの家康が……
浜松に住む数万もの民を、全て兵へと変えた?」
「はい」
「そんな馬鹿な!」
「父上。
家康は、行き当りばったりの行動をしているわけではありません。
一貫した『意図』を持って行動していると思われます」
「我らに一矢報いることではなく?」
「勿論、それもありますが……」
「他にあるのか?」
「2つです。
1つ目は……
圧倒的に不利な状況でも、決して滅ぼされない戦い方をすること」
「なるほど。
徳川軍は兵の数こそ我が武田軍に及ばないが、民の数を合わせれば上回ると考えたのか」
「ご推察の通りです」
「して、2つ目は?」
「2つ目は……
それでも敗北する場合は、信長のために武田の兵を一人でも多く殺しておくこと」
「信長のために!?」
「室町幕府は日ノ本中の大名へ信長討伐命令を出しました。
既に信長の敵である朝倉家、浅井家、三好家などが兵を挙げ、信長の軍勢を釘付けにしているとか。
徳川軍が我が武田軍に何の損害も与えず壊滅すれば、信長は無傷の武田軍に背後を突かれて一巻の『終わり』でしょう」
「三方ヶ原において3倍近い大軍を相手に鶴翼の陣に布陣して十字砲火戦法を狙ってきたことも……
浜松に住む数万の民を、全て兵へと変えたことも……
『捨て身』の反撃で、我らの兵を一人でも多く道連れにしようとしていたのか!」
「浜松城を攻めれば……
夥しい犠牲者を出すだけでなく、数万もの民を『虐殺』することになります」
「何と!
では、どこを攻めれば良い?」
ここで、もう一人の一族の重鎮・武田信豊が口を挟む。
「叔父上!
いえ、信玄様!
三河国の岡崎城[現在の愛知県岡崎市]を攻めては如何?」
「ん?」
「浜松城は家康によって築かれた城。
だから鉄砲を効果的に利用する仕掛けがあるのでしょう?
一方。
昔からある岡崎城に、そんな仕掛けはありません!」
何人かの者が信豊に同調した。
「岡崎城を落とせば……
信長の居城がある美濃国の岐阜城[現在の岐阜市]の目と鼻の先まで迫れるぞ!」
「浜松を攻めるか、岡崎を攻めるか。
どちらを攻めるか決断せねばならんのだな?」
信玄がこう呟いた……
まさにその瞬間のことだ。
「父上。
岡崎へ向かってはなりません!
我らの目的をお忘れですか?」
「家康を徹底的に潰した上で……
盟友を見殺しにした男として、信長の『評判』を地に堕とすことであろう」
「その通りです。
岡崎へ向かえば、浜松にいる家康を討つ機会は失われますぞ!」
「しかし。
そなたは、浜松城を容易に落とせないと申したではないか」
「浜松城を攻める以外にも、浜松城を落とす方法はあります」
「ん?」
勝頼は地図のある場所を指した。
「この高天神城を……
全軍で直ちに落とすことです」
「高天神城!?」
【次節予告 第三十五節 徳川家康の生命線、高天神城】
浜松に住む数万の民を、全て兵へと変えた徳川家康は……
鉄砲の弾丸と火薬の『補給線』を守ることが最も重要と考えていました。
この補給線こそが家康の『生命線』であったのです。




