第三十節 義信事件の黒幕、今川義元
徳川家康が、武田信玄に嵌められる少し前のこと。
武田軍の補給線は……
駿河国から遠江国[いずれも現在の静岡県]へと至る1本のみであった。
現在の国道1号線に相当する。
これに信玄の息子・四郎勝頼の活躍で2本目が出来た。
別動隊を率いて信濃国・高遠城[現在の長野県伊那市高遠町]から杖突街道と秋葉街道を南下して遠江国・二俣城[現在の浜松市天竜区]の攻略に成功したからだ。
現在の国道152号線に相当する。
因みに。
二俣城は、『難攻不落[攻めても落とせない]』の城として有名である。
そんな難攻不落の城も……
冴え渡る勝頼の采配であっという間に水の手を断たれ、飲み水を確保できない城兵が喉の乾きに耐えらなくなった頃を見計らったかのような『甘い』誘いで、抗う意欲さえも奪われた。
「潔く降伏なされよ。
そうすれば、全員の命と財産を保障しよう。
すべて今まで通りで良い」
と。
難攻不落の城が、あっという間に落城する。
続いて勝頼は……
これまたあっという間に二俣城に大規模な『兵站基地』を築いてしまった。
◇
兵站基地とは、何なのだろうか?
答えから先に言うと……
兵糧や武器弾薬を大量に蓄えておく基地のことだ。
因みに。
侵攻して来る敵から自分の領地を『防衛』している場合は、そもそも戦場が自分の領地内のため補給の必要がない。
一方。
今回の武田軍のように敵の領地深くへ『侵攻』している場合……
戦場が自分の領地から遠く、補給の体制を整える必要が発生する。
これを怠れば、戦場で戦う兵士たちに兵糧や武器弾薬が届かない。
弾薬切れのせいで『敗北』する可能性が高まってしまう。
仮に、運良く勝利できたとしても……
兵糧不足による飢えを避けることができず、兵たちは生き延びるために食料の現地調達を余儀なくされる。
要するに『略奪』の始まりだ。
補給のために一度、兵站基地を築いたとしても……
侵攻が進めば進むほど、兵站基地から戦場が『遠ざかって』いく。
兵糧や武器弾薬が届くのに時間が掛かってしまい、これまた敗北する可能性が高まってしまう。
要するに。
侵攻作戦の成功には補給に要する時間を『短縮』することが絶対条件となり、そのためには『常に』戦場の近くに兵站基地が存在していることが必要不可欠となるのだ。
こう考えれば。
勝頼が敵の総大将・徳川家康の居城のある浜松城からほど近い二俣城[どちらも現在の浜松市]に兵站拠点を築くことに成功したことは……
戦局を有利に進める上で非常に大きな貢献を果たしたと言える。
◇
四郎勝頼が率いる別働隊の動きは異常なほど早い。
難所を越え、難攻不落の城を落とし、大規模な兵站拠点を築く……
本来ならばどれも面倒なことを『手早く』済ませてしまった。
三方ヶ原合戦の直前。
想定よりもはるかに早い合流を果たす息子を見て、さすがの父も驚きを隠せない。
「息子よ。
どれも面倒なことであるのに、これほど手早く済ませてしまうとは……
見事じゃ」
思わず、こう漏らす程であった。
「有難きお言葉。
戦においては、正確さよりも早さを優先すべきと心得ております」
「正確さを後回しにしている割には……
それなりに正確であったと思うが?
随分と『器用』だな」
父は、息子の尋常ならざる実力の片鱗を見たような気がしていた。
◇
ここから勝頼は、父の側で補佐することとなる。
三方ヶ原の台地に上がると……
父は突然、全軍に命令を出した。
「急ぎ布陣せよ」
と。
これを見た勝頼は、こう読んだ。
「徳川家康は追い掛けて来るだろう。
多くの城を落とされ、何とか我らに一矢報いたいはずだ。
織田の援軍はたった3千人のようだが……
鉄砲の弾丸と火薬を大量に持ってきたと聞く。
これを最大限に生かした戦法を使ってくると考えるべきだろう。
『一撃離脱戦法』か」
続けて、こう読む。
「このあたりは家康にとって庭のようなもの。
頭の中には全ての地形が入っているはず。
我らを狙撃するのに有効な場所をことごとく熟知していると考えた方が良い」
問題はここからであった。
「一撃離脱戦法。
これは……
我ら武田軍にとって厄介極まりない。
行軍中も、休憩中も、睡眠中も、何の前触れもなく狙撃される。
いつ、どこから狙撃されるかも分からず、おちおち寝てもいられない。
戦う前から兵の体力と精神がみるみる削られていくだろう。
父上はどう対処するつもりなのだろうか?」
◇
父が行軍を停止させた直後。
徳川軍が、浜松城を出たとの情報が入った。
予想通りの展開であった。
父もまた、同じように読んでいたのだろう。
布陣を命じたということは……
ここで一気に叩いておこうということか。
ところが!
布陣する陣形の名前を聞いて呆気に取られてしまった。
「ん!?
『魚鱗の陣』?」
魚鱗の陣は、大軍が使うべき陣形ではない。
むしろ大軍の利点を生かせる『鶴翼の陣』を組む方が兵法の常識である。
さらに驚いたのが……
武田軍最強との呼び声高い山県昌景隊と、その昌景も一目置くほどの名将の内藤昌豊隊を後方に配置したことだ。
これだけ強力な部隊を予備にするなど有り得ない。
父は一体、何を考えているのだろうか?
◇
父の信玄は、武田家における『独裁者』であった。
「逆らう者は厳罰に処す」
これは、息子といえども例外ではない。
数年前。
四郎勝頼が尊敬していた兄であり、かつ父の嫡男にして後継者であった太郎義信が、謀反の疑いを掛けられた。
父を追放して武田家当主の地位を奪い取る企て、つまり『義信事件』の黒幕としてであった。
「父上を超えるほどの『純粋』さを持ち、なおかつ『不器用』でもあった兄上が、父上を追放する企てを練り上げただと?
馬鹿な!
兄上に限って、そんな姑息な手を使うなど有り得ない!」
こう疑問を抱いていた。
そして。
今回の出陣の直前に、勝頼は義信事件の真の黒幕が誰かを父から教わる。
兄は、隣国の駿河国と遠江国[合わせて現在の静岡県]を治める今川義元の娘を妻としていた。
政略結婚で結ばれた夫婦ではあったが、兄は妻のことを一途に愛していたらしい。
一方。
兄の舅である今川義元は……
嫡男の氏真が凡人[普通の人という意味]に過ぎないことが頭痛の種であった。
疑心暗鬼に陥った義元は、ある『命令』を下す。
「凡人の氏真に今川家当主の座は到底務まらない。
わしに万が一のことがあれば……
我が家は必ず、武田信玄による侵略の餌食となるだろう。
そうならば……
生き残る方法は一つしかない。
武田信玄を追放し、わが娘を夫に持つ太郎義信を武田家の当主とすることじゃ」
と。
桶狭間の戦いで義元が討死したことで、命令は実行に移された。
武田家中の国衆[独立した領主のこと]や家臣の中にいる欲深い者たちが銭[お金]で『買収』され、父を追放する企てが進行していく。
そう……
事件の黒幕は、兄の太郎義信ではなかったのだ!
あの海道一の弓取りとも呼ばれた実力者・今川義元が真の『黒幕』と考える方が、はるかに納得がいく話なのだ!
それなのに、不器用な兄は……
◇
「わしは、己の信念を貫いた結果として謀反人となるのは一向に構わない。
だがな。
謀反人に仕立て上げられるのだけは絶対に御免だ!
奴らに利用されるくらいならば!
正々堂々と父上に挑み、敗れて謀反人として処断される方が……
男として何百倍も素晴らしい『最期』ではないか!」
こう言った兄は、その後……
何の弁明もせず自害して果てた。
実際のところ。
企てに参加した者たちは、欲深い者ばかりではなかったようだ。
飫富虎昌、長坂昌国、曽根虎盛など……
兄個人に対して忠誠を誓っていた家臣も少なからずいたらしい。
ただし。
誰が純粋で、誰が欲深いかを区別することはできない。
飫富虎昌ら主だった者たちは処刑され、それ以外の者たちは領地と財産を没収された。
こうして謀反人と見なされた者たちは徹底的に『粛清』されたのである。
◇
「逆らう者は厳罰に処す」
この厳格さは軍においても同様であった。
指揮官の命令に逆らう兵は、その場で首を刎ねられるのだ。
「魚鱗の陣に布陣せよ」
父の命令はあまりにも非常識であったが……
誰も文句を言わず、瞬く間に完成した。
これを見た徳川・織田連合軍は、鶴翼の陣に布陣する。
周囲の者たちがこう言い始めた。
「おいおい……
奴らは兵法を知らんのか。
少数のくせに鶴翼の陣に布陣するとは、馬鹿だな」
こう反論したかったが我慢した。
「十字砲火を狙っているのが分からんのか!
理由も考えずに相手を馬鹿にするとは、真の馬鹿はどっちだ?」
と。
【次節予告 第三十一節 敵を欺くには、まず味方から】
合戦が開始すると……
四郎勝頼は、再び非常識な命令を聞きます。
「鶴翼の陣へ陣立てを変えよ」
と。




