第二十九節 新たな戦法、十字砲火
1572年12月22日。
遠江国の三方ヶ原[現在の静岡県浜松市北区]において武田軍3万人と徳川・織田連合軍1万2千人が対峙する。
武田軍は、大軍が使うべきでははない魚鱗の陣で布陣した。
徳川・織田連合軍も、少数の軍が使うべきではない鶴翼の陣で布陣した。
武田信玄と徳川家康は……
幼少の頃から兵法をよく学び、一流の兵法家として歴史にその名前を轟かせた人物である。
兵法における基本中の基本の『陣立て』を間違えるような人物ではない。
家康がこう言った通りなのだろうか?
「敵はやはり……
鉄砲の弾丸と火薬が尽きていたのじゃ!
突撃という手段しか残っていないのであろう」
これは好機ぞ!
我らは左右に翼を広げるように布陣して、わざと中央を薄くせよ。
中央を薄くすれば、敵の突撃を誘うことができ……
突撃して来る敵に対し、左右に配置した鉄砲隊で盾を構えていない側面を狙撃して……
敵を確実に撃ち殺せる!」
と。
これならば……
少なくとも家康が『非常識』な陣立てをした辻褄が合うのであるが。
◇
兵法によると。
鶴翼の陣は……
左右の翼の部分に強力な部隊を配置する陣形である。
それが敵の側面や背後に回り込んで、敵陣を切り崩すのだ。
徳川・織田連合軍は右翼に酒井忠次隊、左翼に石川数正隊を配置している。
どちらも徳川軍きっての精鋭部隊であり、経験豊富な兵士が多い。
突撃して来る武田軍の側面を突いて一撃を与えるにはうってつけだろう。
ところが!
武田軍の一部が、まるで別動隊かのように左へどんどん離れていく。
これを見た家康は翻弄され、慌てて右翼の酒井忠次隊に対応を命じてしまう。
これは徳川軍の最強部隊を引き離すための『陽動作戦』であったのだ!
家康はまんまと罠に嵌まってしまった。
「これが陽動作戦だとしたら……?
しまった!
信玄めに、してやられた!
忠次に元の位置へ戻れと伝えよ!
急げっ!」
出撃した忠次も……
しばらくして罠であることに気付いた。
元に戻ろうとしたが、敵とぶつかって乱戦となり身動きが取れなくなる。
もうすべてが手遅れであった。
◇
法螺貝が吹き鳴らされた。
低く唸るような音が、周囲の山々に鳴り響く。
「おお、おお、おおっ!」
続いて鬨の声が上がった。
無敵の武田軍の勢いそのままに、周囲の山々に響き渡る。
「ドン、ドン、ドン!」
武田軍の前衛部隊が一糸乱れず前進を始めた。
まるで地響きのように大地が揺れている。
普通の人間なら、これだけで恐怖に駆られて逃げ出すに違いない。
ただし。
迎え撃つ徳川・織田連合軍も歴戦の勇士たちばかりである。
全く動揺していない。
「撃ち方始めぇっ!」
怒涛のごとく殺到してくる敵へ向かって、鉄砲隊が次々と火を噴いた。
数十秒の間隔で撃ちまくっているために発射音が途切れない。
まるで連射しているかのようだ。
武田軍の前衛部隊は……
竹束という盾を並べて前進していた。
傾斜装甲を生かして、正面から飛んでくる弾丸を次々と弾いていく。
一方の徳川・織田連合軍は……
鶴翼の陣によって左右に広がりつつ、Uの字になっていた。
突撃して来る敵の、盾を構えていない側面を狙って確実に撃ち殺すためだ。
そして。
新たな戦法、十字砲火の凄まじい威力を目の当たりにする瞬間が訪れた。
◇
やや右に展開した織田軍鉄砲隊と、やや左に展開した徳川軍鉄砲隊が……
武田軍前衛部隊の側面から一斉射撃を見舞った。
「うあっ」
「ぎゃあっ」
一瞬で百人以上の悲鳴が上がる。
人間が、まるで将棋倒しのようにバタバタと倒れていく。
「あれだけ精強な兵が、こうも簡単に……
これが十字砲火の威力なのか!」
家康は思わず感嘆の声を上げる。
勿論。
倒された兵士の全員が死んだわけではない。
急所に当たらなければ即死しない以上、ほとんどが負傷者だろう。
それでも。
後続は負傷者を助けるどころか、それを乗り越えて猛然と突っ込んで来た。
「負傷者を見殺しに?」
「倒れても倒れても突っ込んで来る!」
「奴ら、死ぬのが怖くないのか!?」
「まるで鬼じゃ……」
「防ぎきれん、退くぞ!」
凄まじい威力を誇った十字砲火も……
倒れても倒れても突っ込んで来る武田軍の突撃を止められない。
一気に肉薄され、鉄砲隊は我先にと逃げ出した。
鉄砲隊は射撃の腕こそ鍛えられているが、白兵戦まで鍛えられているわけではない。
逃げ出すのも当然だろう。
ただし、鉄砲隊の後ろには『長槍隊』が控えていた。
指揮官の合図で一斉に長槍が振り下ろされる。
当時の織田軍は6メートル程もある長槍を使っていたらしい。
これだけ長いのは突くためではなく、敵の頭上に振り下ろして脳震盪を起こさせるためだ。
重量にして1トン[1,000kg]を超えるモノを頭にぶつけられたら……
誰だって無事には済まない。
武田軍前衛部隊の兵がバタバタと倒れた。
しかし、次の列は長槍隊の懐に入り込むことに成功する。
得意の白兵戦に持ち込めた!
そう思った、瞬間である。
◇
「今じゃ!
撃てぇぇぇっ!」
号令に続き、鉄砲隊の凄まじい一斉射撃の音が鳴り響いた。
至近距離で撃たれた武田軍前衛部隊の兵がまたバタバタと倒れていく。
鉄砲隊は逃げず、長槍隊の後ろで弾を込めていたのだ。
懐に入り込んだ敵に対して一斉射撃を食らわせて見せたのである。
家康は思わずほくそ笑むが……
しばらくすると、自分の爪を噛む仕草を始めた。
「十字砲火の凄まじい威力で何とか敵の攻勢を凌いではいるが、いつまで続くか分かったものではないぞ!
右翼の酒井忠次隊はまだ戻らんのか?
敵の側面を突く好機が到来しているのに、強力な右翼部隊がいないと話にならん!」
そもそも家康は、この合戦で勝利できると思っていない。
武田軍3万人に対して徳川・織田連合軍はわずか1万2千人であり、兵の数が半分以下なのに加えて、相手は総大将の武田信玄のためならば死をも恐れない忠実な将兵たちである。
勝ち目など『ゼロ』に等しい。
「忠次の率いる強力な右翼部隊が、突撃して来る敵の側面を突いて一度でも撃退してくれれば……
その瞬間に全軍を離脱させて『勝ち逃げ』できるのじゃ!」
戦が長引けば兵の数の『差』が物を言う。
当初の作戦が一撃離脱戦法である以上、長居は禁物である。
一刻も早く右翼部隊で一撃を食らわせ、敵が怯んだ隙に速やかに全軍を離脱させるべきだろう。
ところが!
右翼部隊の不在は、もっと『深刻な問題』を引き起こしていた。
「右翼部隊がいないのは、まずい!
まず過ぎる!
我らは右側面という弱点をさらけ出しているのも同然ではないか!」
苛立った家康は、さらに爪を噛み始めた。
噛んだ爪から血が滲み出た。
◇
ところで。
右側面が『弱点』なのは、なぜだろうか?
結論から先に言うと……
ほとんどの人が右利きで、『右側』に槍を持つからである。
試しに、重く長い棒を右側に持ってみると分かる。
左側から来る相手には身体をひねるだけですぐ対応できる。
ところが、右側から来る相手には身体をひねるだけでは対応できない。
右側から来る相手に対応するには、身体の向きも右側に90度回さねばならない。
密集隊形でこれをやると時間が掛かってしまうのだ。
「弱点をさらけ出したまま動きたくはないが……
左翼の石川数正隊に、武田軍の右側面を突かせよう」
家康がそう呟いたとき、右手から近付いてくる土煙が見え始めた。
「おお!
右翼の酒井忠次隊が戻ったぞ!」
皆が喜んだのも束の間のこと……
旗印を見た家康は愕然とした。
膝が、がくがくと震え始めた。
「あれは武田菱に……
内藤昌豊の旗印!
右側面という弱点に、よりにもよって武田四天王をぶつけて来るとは!
嗚呼」
正面の敵に対応するので精一杯なのに、弱点の右側面を武田四天王に突かれてはたまらない。
まさに瞬殺であった。
「さ、左翼から兵を回せ!
何とか食い止めよ!」
武田四天王への恐怖に怯えながら、何とかこう命令を発したとき……
さらに驚愕の光景が広がっていた。
「左翼も崩壊している!?
いつの間に?」
石川数正という歴戦の武将を左翼に置いたにも関わらず……
軍装を真紅に染め上げた武田軍最強部隊、武田四天王の一人・山県昌景率いる赤備えの突撃を食らって一瞬で崩壊していたのだ。
「あの数正隊を、瞬殺だと?
赤備えは化け物なのか!?」
家康はたまらず絶叫する。
「もしや……
信玄の真の目的は、我らを包囲殲滅することにあったのでは?
まんまと信玄めの罠に嵌まっていたのか!
つまり……
あの魚鱗の陣は、ただの見せかけであったと!」
【次節予告 第三十節 義信事件の黒幕、今川義元】
今川義元は……
嫡男の氏真が凡人に過ぎないことが頭痛の種でした。
疑心暗鬼に陥った義元は、ある『命令』を出すのです。




