第二十六節 京の都と、武田家を滅ぼす策略
4年前の、あの日。
衝撃の事実が明らかとなっていた。
武田家から病死と聞かされていた織田信長の愛娘が……
実際は用意周到な罠に嵌まって『毒殺』されていたのだ!
咄嗟に明智光秀は考えを巡らす。
「あの御方を……
天下人を目前にされている信長様の愛娘の毒殺を企てるなど、普通なら絶対にやらない。
尋常ではない報復を食らうのだからな。
信長様のご気性ならば、銭[お金]に糸目を付けず犯人を探し出し、その一族もろとも根絶やしにするはずだ。
しかも普通の殺し方ではない。
両目をえぐり、両耳と鼻を切り落とし、両手両足を切断した上で、激痛の中でじわりじわりと体中を切り刻んでいくだろう」
続けてこう考えた。
「尋常ではない報復を食らうことを『承知』の上で、あの御方を罠に嵌めたということは……
己の生死に関わるほどの窮地に追い込まれていたということか」
更に、こう考えた。
「あの御方は夫の勝頼と固い絆を結んで息子を授かり、清廉潔白[心が清くて私欲がない人のことを指す]で実力にも秀でた武田四天王、高坂昌信、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春からも一目置かれるようになっていた。
あの御方の働きで……
織田家と武田家は、同じ志を持つ『盟友』となりつつあったらしい」
「織田家と武田家が同じ志を持つ盟友となることで……
一体、『誰』が己の生死に関わるほどの窮地に追い込まれるのだろうか?」
光秀の思案は続く。
「そういえば。
信長様と同様、武田信玄も実力重視であるらしい。
『一族』の重鎮として地位が高い穴山信君や武田信豊よりも、『家臣』に過ぎないが実力豊富な武田四天王の方を重く用いていると聞く。
これが武田一族と武田四天王の深刻な対立を招いているようだが……」
「武田四天王と親しくした結果、武田一族からの憎悪を買ったとか?
それだけで毒殺されるとは思えない。
ん……
待てよ?
信長様が、あの御方に己と同じ匂いを感じ……
衝動的に付いて来て欲しいと願ったということは……
わしが煕子と出会ったときに感じた以上の並外れた……
いや!
それ以上の『桁外れの純粋』さを持つ人物だと確信したからでは?」
一つの道筋を見出す。
「あの御方が桁外れの純粋さを持つ人物だとすれば……
戦の後に必ず起こる『光景』を見たときに、心の奥底から湧き上がる激情を抑えることなどできないはずだ!
武器商人どもが、大勢の女子と子供を奴隷として売り飛ばしていく光景をな」
「あの御方はきっと……
戦の後の略奪にまで手を染めて人を売り買いしている武器商人どもへ、激しい『憎悪』の炎を燃やしたに違いない!」
ついに結論へと辿り着いた。
「武田信玄は重い病に冒されているとか。
勝頼は恐らく……
一途に惚れ込んだ女子である、あの御方の強い影響を受け……
こう決意したのだろう。
『わしが当主となったら……
信長殿と共に、武器商人の屑どもを全て始末してやる』
と」
「勝頼の決意を知った武器商人どもは、強い危機感を抱いたはずだ。
『信玄が死んだらどうなる?
我らは真っ先に始末されるのではないか?
もはや一刻の猶予もない!』
こうして奴らは……
武田家の失態によって信長様の愛娘が死ぬよう企て……
織田家と武田家が敵となるよう仕向けたのか!」
そもそも。
武器商人とは、戦争で金儲けする連中のことである。
天下人を目前にした織田家と、東日本最強の大名である武田家との戦争を勃発させれば……
戦争に必要なモノの値段は瀑上がりし、巨万の『利益』が転がって来る。
◇
信長ほどの聡明な人物でも……
『真の敵』を間違えてしまうことがあるのだろうか?
「信長様に一目置いている武田信玄が、あの御方を傷付けるはずがありません。
それに。
精強な武田軍との戦を始めれば、決着が付くのに長い年月を要してしまいます。
復讐の対象を、あの御方の毒殺を企てた武器商人『だけ』とされては如何でしょう?」
最も信頼している側近が助言しても……
信長は一切耳を貸さない。
「この激情を抑えることなどできそうにない。
直ちに光秀を呼べ!
2つの『策略』を練り上げてもらうためにな」
「2つ?」
「1つ目は、我が愛娘の毒殺を企てた武器商人どもの巣窟を滅ぼすこと」
「武器商人の巣窟とは、もしや!
日ノ本で最も多くの武器商人がいる……
京の都を焼き討ちになさるのですか?」
「平和な世を達成するには、いずれ武器商人どもを根絶やしにせねばなるまい?
予定が早まっただけであろう」
「……」
「2つ目は、武田家を滅ぼすこと」
こうして光秀は……
武田家を滅ぼす策略を練り上げる羽目に陥ったのである。
◇
4年前の、あの日。
自分の助言にも一切耳を貸さない信長を目の前にして……
光秀は、信長の置かれた状況を自分に置き換えて考えていた。
長女の凛が11歳、次女の玉[後のガラシャ]が8歳になっている。
最愛の妻・煕子を亡くしたこともあって、すくすくと成長する2人は目の中に入れても痛くないほど可愛い存在だ。
もし、どちらかの娘に『使命』を託すとすれば……
間違いなく凛だろう。
容姿では玉の方が魅力的になりそうだが、中身では凛の方がはるかに上を行っている。
凛の持つ最大の魅力。
これは主に2つ。
常に『物事の本質』を探し求める姿勢と、『相手の立場』になって考える姿勢にある。
相手の間違いに気付いたとき。
間違った部分だけを切り取って批判するような、浅はかな人間ではない。
なぜそうなったのか、相手の立場になって考えようとする。
自分の間違いを指摘されたときも同様だ。
物事の本質に辿り着く機会だと前向きに捉え、相手の指摘を謙虚に受け止めようとする。
「もっと、よく知って……
誰かの役に立ちたいんです」
常に『積極的』な考え方をする凛ほど、安心して使命を託せる娘は他にいない。
ただし。
今は亡き煕子の血を最も濃く残している、最愛の娘だ。
使命など背負わせたくないし、手放したくもない!
もし。
凛が、あの御方と同じような仕打ちを受けたとしたら……
わしはどうなってしまうのだろうか?
きっと我を失うほど怒り狂うに違いない。
復讐の炎は激しく燃え上がり、こう叫ぶかもしれない。
「おのれ!
わしの大切な愛娘を罠に嵌めた者も、それを守れなかった者も……
必ずや、我が手で、一人も残さずこの世から『一掃』してやる!」
と。
◇
自分の残酷な一面に驚いたが、はたと気付く。
信長様もまた同じではないだろうか?
彼を冷酷な人間と見る者たちも多いが、それは大きな勘違いだ。
本当に冷酷な人間ならば……
世の中の問題を解決するなんて『面倒』なことを志したりなんかしない。
目先のお金を得ること、目の前の楽しみを追求する方がはるかに楽なのだから。
彼はそもそも、冷酷とは真逆で感情豊かな人物である。
感受性が強いあまり、ついつい相手に感情移入してしまう。
思いやりがあって優しい反面、感情に流されやすく喜怒哀楽が激しい。
「信長様はきっと……
使命を忘れてしまうほどに己の復讐の炎を燃え上がらせてしまうだろう」
復讐に取り憑かれ、復讐の鬼と化した人間に、相手を許すという選択肢はない。
己が滅びるか、相手が滅びるか、どちらかになるまで戦うことになる。
これを『不倶戴天の敵』という。
◇
光秀の頭は慌ただしく回転し始めた。
『作戦』を一から練り直す必要があるからだ。
今までは、複数の敵をどう叩くかを考えていた。
各個撃破戦法を駆使して最も弱い敵から弱い順番に叩く。
一人も残さずこの世から一掃するような真似はしない。
先月の比叡山焼き討ちも、山すべてを灰にしたわけではない。
しかし。
復讐に取り憑かれてしまった信長は、こんな生ぬるい方法では終わらない。
叩くどころか根絶やしを図るはずだ。
相手を『根絶やし』にするということ。
これは相手の全ての領地と財産を奪い、城という城を全て落として帰る場所をなくし、誰一人として生活することができない状況に追い込み、最後は命請いさえ拒んで、ことごとく殺し尽くすことだ。
ただし。
これは容易なことではない。
武田家の本拠地・甲斐国[現在の山梨県]は、険しい山々を越えた先にある。
天然の要害が立ち塞がっている以上、攻め込んだところで返り討ちに合うのは目に見えている。
「ならば……
予め、武田家を弱体化させておくのはどうか?
そうか!
あの手があった!」
光秀は一つの『策略』へと辿り着いた。
◇
「信長様。
一刻も早く……
国を、一つ手にお入れください」
「国?
どこの国ぞ?」
「摂津国を、手に入れるのです」
【次節予告 第二十七節 経済封鎖、そして武田信玄の出撃】
織田信長は、明智光秀の提案を十分に理解できませんでした。
「摂津国だと?
なぜ、その国が必要なのじゃ?」
と。




