第二十五節 織田信長の愛娘、毒殺事件
「非凡な武田勝頼が、徳川家康の首を取るとはどうしても思えない」
この明智光秀の主張は……
織田信長の予想をはるかに超える内容であった。
矢継ぎ早に質問を投げかけ始める。
「家康の首を取らないとすれば……
捕らえるということか?
捕らえてどうする?」
「捕らえる理由は、人質とする以外にありません」
「人質!?
何のため?」
「人質とする理由も一つだけです。
人質の命と引き換えに、己の要求を通すこと」
「己の要求!?
その内容は、何ぞ?」
「それは……」
「何じゃ?
はよ申せ」
「信長様との『和平』です」
「何っ!?
わしとの和平?」
そして。
光秀の次の話は、信長を激しく動揺させた。
「同じ志を持つ友との和平よりも、己の『復讐』を優先させるおつもりですか?
お忘れではありますまい。
勝頼は……
妻に迎えた信長様の愛娘を一途に愛し、信長様と同じ志を持つに至った人物ですぞ?」
と。
◇
少しの沈黙の後、信長が口を開く。
「光秀よ。
そちの意見は、常に正しい。
正しい、が……
この激情を抑えることはできそうにない」
「……」
「あの『出来事』を忘れたのか?
武田家が守れなかったせいで、我が愛娘は貴重な命を散らしたのじゃ!」
今から4年前。
一人の女の死が、一人の男の『復讐』の炎を激しく燃え上がらせる結果を招いていた。
その女性……
織田信長の愛娘とは、一体どんな人物なのだろうか?
◇
唐突に信長は、愛娘と出会った日のことを語り始めた。
「あの日。
我が妹が嫁いだ先、岩村城[現在の岐阜県恵那市]の城主である遠山直廉の屋敷へ行ったとき……
わしは、まだ幼かった『姪』と初めて会った」
「……」
「美しく鋭い目に、わしは強烈な印象を受けた。
千里眼。
あの目は、千里の先まで見通せる異能[超能力のこと]を感じてしまうような目であった」
「……」
「わしは瞬時にこう思った。
優れた才能を持っていることに加え、世の中の本質を見極めたい気持ちが非常に強い娘なのだろうと。
そして。
わしを見た娘は、こう申した」
「何と申したのです?」
「『わたくしには……
うつけ者のようには全く見えません。
なぜ、うつけ者[馬鹿者という意味]の芝居[演技のこと]をされているのです?』
とな」
「何と……
まさか!
たった一瞬で、信長様のうつけ者の芝居を見抜いて見せたと?」
信長の目から涙があふれた。
「ああ、そうじゃ!
わしの人を見る目に、狂いはなかった!
そうであろう?」
「それがしも、一度お見掛けした際……
鋭い目に強烈な印象を受けたのを覚えております」
「人というものはな……
己の目で見たモノで判断してしまう傾向がある。
全てを知ったわけでもないのに、一部を見ただけで全てを知ったかのように思い込み、その思い込みを元に間違った判断を下し、結果として大きな失敗を犯す。
人の世が抱える問題の原因はほぼ全て、この『無知』にあるのじゃ」
「仰る通りです。
だからこそ信長様は……
うつけ者[馬鹿者]の芝居[演技]をして、周囲を『欺いて』おられたのでしょう?」
「わしはずっと……
一族や家臣たちを注意深く観察していた。
どんな生き方をし、どんな志を持ち、どんな人柄で、どんな強みと弱みを持ち、何に執着しているかなど、事細かにな」
「織田家の嫡男として生まれ、いずれ当主となる以上……
一族や家臣の人となりを『全て』知っておく必要があります」
「うむ」
「ただし。
決して相手に悟られてはなりません。
『警戒』されてしまいますからな」
「わしは、徹底的にうつけ者[馬鹿者]の芝居[演技]をし続けた。
家臣たちと異様な恰好で街を練り歩いて奇声を発した。
父の葬儀では、位牌に向かって香を投げ付けることまでやった。
これを見た周囲の者どもは……
まんまと欺かれたのじゃ。
己の方が上だと思い込み、そして、警戒を緩めた。
隅々まで調べ上げられていることなど夢にも思わずにのう」
「あの御方は……
まだ幼いにも関わらず、それらを『全て』理解できたと?」
「ああ、そうじゃ!
わしは……
あの娘に己と同じ匂いを感じた。
『わしの考えを理解できる者は数少ない、が……
この娘なら!
わしの考えをすべて理解してくれるに違いない!』
と。
衝動的に、手元に置いて大切に育てるべき子供だと思った」
「……」
「娘に、付いて来て欲しいと伝えたら……
満面の笑顔で応えてくれた。
『勿論です』
とな。
両親も故郷も捨てて、わしに付いて来てくれた。
わしはいつしか……
あの娘に、実の子供以上の深い愛情を注ぐようになっていた」
「あの御方は人柄においても非凡であったとか。
凡人ほど己の立場に囚われるものですが……
非凡な人物ほど『相手の立場』になって考えることができ、結果として大きな成功を収めます」
「ああ、そうじゃ!」
◇
信長の話は続く。
「やがて。
美濃国[現在の岐阜県]を制圧し、岐阜を本拠としたわしは……
武田信玄という男に注目するようになった。
わしと同じく、凡人とは異なる価値観を持っていたからじゃ。
目先の銭[お金]を得ること、目の前の楽しみを追求することに全く執着しようとせず……
国の主として、国に住む民を守る責任を果たすことを第一に考え、悪という悪を根絶やしにし、国の平和と安全の達成を己の使命としていた。
そのためならば……
銭を捨て、楽しみを捨て、悪名を負うことも厭わないほどに」
「『純粋』に国を、民を憂いているかどうかが……
国を、民を治める支配者に必要な資格だと心得ます」
「うむ。
わしと信玄は、『同種』であったのだろう」
「だからこそ信長様は……
信玄と盟友になるため、あの御方に武田家へ嫁ぐことを頼まれたと聞きましたが」
「いや。
そうではない。
武田家へ嫁ぐことは、我が愛娘の方から申し出たのじゃ」
「あの御方から!?」
「『政略結婚の道具として、わたくしを武田家へ送り込んでくださいませ』
とな」
「何と!
戦国乱世に終止符を打つためには……
信長様と同種の人物である信玄と、精強を誇る武田軍を味方に付ける必要を強く認識されていたからでしょうか?」
「ああ。
『わたくしもまた、使命を果たすべきときなのです』
こう申してわしの反対を押し切ったのじゃ」
「……」
「武田家へ嫁いで行った、あの日のことは……
今でも鮮明に覚えている。
大粒の涙を浮かべた、愛おしくてたまらない我が愛娘の顔が……
「……」
「その後。
我が愛娘は、夫の勝頼と固い絆を結んで息子を授かった。
加えて。
あの武田四天王からも一目置かれるようになった。
『全力であの御方を守って差し上げよう』
と」
「武田四天王……
清廉潔白[心が清くて私欲がない人のことを指す]で実力にも秀でた高坂昌信、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春の4人の武将ですな?」
「ところが!
今から4年前……
我が愛娘は、武田家ゆかりの寺で『毒殺』された。
武田家が守れなかったせいで!」
「……」
「凛という愛娘を持つ、そちならば……
わしの気持ちを理解できるはずじゃ。
愛娘の苦しみは、己の苦しみ。
愛娘の痛みは、己の痛み。
愛娘の絶望は、己の絶望!
そうであろう光秀!」
「仰る通りです」
「愛娘を想うほどに……
復讐の炎は、この世の全てを灰にしたいと願うほどに激しく燃え上がっている。
もう『誰』にも消すことなどできん!」
「……」
◇
信長の話はさらに続く。
「光秀よ。
忘れたわけではあるまい?
4年前の、あの日。
武田家から病死と聞かされていた我が愛娘が……
実際は用意周到な罠に嵌まって毒殺されていた『事実』を知って、わしが激しく涙した日のことを!」
「忘れてはおりません」
「あの日……
わしは誓ったのじゃ。
『我が愛娘の毒殺を企てた奴らを、草の根分けてでも見付け出し……
一族もろとも根絶やしにしてやる!
そして。
人を傷付けておきながら、何の代償も払わずにのうのうと生きている、どうしようもない奴ら。
女子や子供、立場の低い人などの弱者を守るどころか、道具のように扱って差別する、どうしようもない奴ら。
そんな屑どもを絶対に容赦しない姿勢を貫くために……
武田家も根絶やしにして、世の人々への見せしめとしようぞ』
と」
「そのお考えは、今でも変わらないのですか?」
「変わるものか!
何年経とうが変わりはせん!」
「……」
◇
「光秀よ。
このことも忘れたわけではあるまい?
4年前の、あの日。
そちは……
我が愛娘の毒殺を企てた連中に加え、武田家も滅ぼす策略を練り上げたではないか」
「……」
【次節予告 第二十六節 京の都と、武田家を滅ぼす策略】
織田信長が最も信頼している側近が……
復讐の対象を、信長の愛娘の毒殺を企てた武器商人『だけ』とするよう助言します。
ところが信長は一切耳を貸さず、直ちに光秀を呼べと命じるのです。




