第二十四節 宿命の長篠設楽原決戦、幕開け
1575年5月。
凛が嫁いでから半年ほどが経った頃のこと。
そこから400kmほど離れた甲斐国[現在の山梨県]で、ある大きな出来事が起こっていた。
武田信玄の息子で、東日本最強の大名・武田家の当主代行を務めている四郎勝頼が軍勢を起こしたのだ。
勝頼の率いる武田軍は、徳川家康が治める三河国の長篠城[現在の愛知県新城市]を1万5千人もの大軍で包囲する。
これに対して長篠城の守備隊はたった500人程度しかいない。
攻城戦は、攻撃側が守備側の10倍の兵力を用意するのが『常識』であるはずが……
なぜか今回は30倍も用意している。
長篠城は、それほどに重要な城なのだろうか?
◇
一方。
明智光秀の居城である近江国の坂本城[現在の滋賀県大津市]に、一人の客人が突如としてやって来た。
主君・織田信長その人である。
「何も構うな。
光秀が来るまで待つ」
城内が上を下への大騒ぎとなっているのを見た信長は、こう言って周りを安心させようとしていた。
少しの間を置き、領内を視察していた光秀が慌てて戻って来ると……
唐突に娘の話から始める。
「まずは。
凛のことで礼をさせて欲しい」
「凛のこと!?
それがしの娘の名前を覚えておられたので?」
「うむ」
「信長様が凛と会ったのは、10年近く昔のことですが?」
「今は亡き、我が愛娘と同じ『目』をしていた娘のことを……
忘れるはずがあるまい」
「信長様の『愛娘』!?
それは……
幼い頃から信長様の手元で大切に育てられ、15歳のときに武田家へ嫁いで行かれた御方のことでしょうか?」
「ああ。
そうじゃ」
「やはり。
凛は、あの御方と同じ目を……」
「凛を手放すのは、さぞかし辛かったであろう」
「お気遣い有り難く存じます」
「ところで。
凛には、荒木村重を大名に任命した『理由』を教えてあるのか?」
「『策略』、とだけ伝えております」
「教えなくて良いのか?」
「阿国が付いているので問題はないかと」
「阿国?
ああ……
そちが実力を見込んで侍女にした、あの美しい女子のことか」
「御意。
娘はいずれ気付くでしょう。
策略の内容が、武田信玄と勝頼を封じることであったことを」
これはどういう意味なのだろうか?
◇
「で、あるか。
ここから本題だが」
「本題とは……
勝頼が、長篠城を攻めるための大軍を起こしたことでしょうか?」
「どう思う?」
「たった500人の兵で守る城を落とすため『だけ』に、莫大な銭[お金]を投じて1万5千人もの大軍を用意するなど有り得ないことかと」
「やはりそう思うか」
「勝頼の狙いは、長篠城を落とすことではないでしょう」
「ならば。
勝頼の真の狙いは?」
「長篠城の城主は、少し前まで武田家に属していたとか。
その者を……
家康殿が、娘を差し出してまで徳川家へ寝返らせたと聞きます」
「ん?
その者とは、奥平定昌のことか?
家康がどうしても寝返らせたいと申すゆえ……
こう提案した。
『婿にすると約束してはどうか?』
とな。
極秘に約束を交わすように念押しはしたが」
「勝頼は恐らく……
何らかの方法で、その情報を掴んだのでしょう」
「何っ!?
家康め、どれだけ情報が筒抜けなのじゃ!
間抜けにも程があるぞ!
ん……
いや、違うな。
勝頼の情報収集能力がはるかに優れているからか」
「その通りかと」
「くっ……」
「そして。
極秘の約束を知った勝頼は、その約束を『逆手』に取る方法を思い付いたのでしょう」
「逆手に?
それはつまり、長篠城を落城寸前の状態に追い込むことで……
娘の婚約者を何が何でも救わねばならない状況に家康を追い込むことか?」
「御意」
「勝頼が1万5千人もの大軍を用意した狙いは、城ではなく家康本人であると……
さすがだな。
うまいやり方を思い付いたものじゃ」
長篠城の城主・奥平定昌は、家康の長女・亀姫の婚約者となっている。
家康が定昌を見殺しにすれば……
最悪の結果として、亀姫は祝言を挙げる前に未亡人となってしまうかもしれない。
可愛い娘をそんな目に合わせたい『父親』が、どこにいるのだろうか?
ここまで読み切った勝頼の実力には、さすがと言うしかない。
◇
光秀は考えていた。
定昌を救いに来た家康を、勝頼が返り討ちにするつもりだとすると……
目的は2つしかない。
家康の首を取るか、家康を捕らえるか?
このどちらかである。
信長も同じことを考えていたようだ。
「光秀よ。
勝頼は、家康の『首』を狙って長篠城を囲んだのか?」
「『常識』で考えればそうでしょう。
家康殿は信長様の盟友です。
人は誰しも、友を見殺しにするような者を信用しません。
家康殿の首が取られるようなことがあれば……
間違いなく信長様の名は地に堕ちます」
「そうなれば。
勝頼は、わしよりも優位に立てるだろう」
「御意」
「そちは先程……
『常識で考えれば』
と申したが。
他に、何かあるのか?」
「返り討ちにした敵の大将首を取る。
ごく当たり前の常識ですが……
勝頼は凡人[普通の人という意味]などではなく、むしろ父の信玄すら凌駕するほどの『非凡』な人物です」
「わしもそう見ている」
「凡人ほど目先のことに囚われて『行き当たりばったり』な行動を取るものですが……」
「非凡な人物がそんな行動を取るとは思えないな」
「そうならば。
家康の首を取ることは……
かえって事態を悪化させる可能性があることくらい『読み切る』はず」
「かつての徳川家は、大国である今川家の支配を受けていた。
散々とこき使われ、戦の最前線に送り込まれ、ひたすら血を流し続けたのじゃ。
辛い日々を送っている間もずっと……
いつか独立を勝ち取ろうと誓い合い、固い絆を結んでいたと聞く」
「徳川家の『結束力』は尋常ではありません。
家康の首を取ったところで、家臣たちは絶対に降伏などしない……
むしろ主の仇を取ろうと結束して厄介極まりない敵と化すでしょう」
「家康の股肱の家臣どももすべて根絶やしにしない限り……
徳川家を倒すことなどできん」
「そうなのです。
だからこそ……
非凡な勝頼が、家康の首を取るとはどうしても思えないのです」
「家康の首を取らないとすれば……
捕らえるということか?
捕らえてどうする?」
「捕らえる理由は、『人質』とする以外にありません」
「人質!?
何のため?」
「人質とする理由も一つだけです。
人質の命と引き換えに、己の『要求』を通すこと」
「己の要求!?
その内容は、何ぞ?」
「それは……」
「何じゃ?
はよ申せ」
「信長様との『和平』です」
「何っ!?
わしとの和平?」
そして。
光秀の次の話は、信長を激しく動揺させた。
「同じ志を持つ友との和平よりも、己の『復讐』を優先させるおつもりですか?
お忘れではありますまい。
勝頼は……
妻に迎えた信長様の愛娘を一途に愛し、信長様と同じ志を持つに至った男ですぞ?」
「……」
◇
一方。
武田軍1万5千人は、徳川軍500人が守る長篠城を完全に包囲していた。
全力で攻めれば1日で落ちるような兵力差である。
しかし。
総大将・勝頼の命令はあまりにも非常識であった。
「城はたった500人しかいないが、200人を超える鉄砲隊がいると聞く。
多くの犠牲が出るような城攻めをしてはならん」
「本気で攻めるな、との仰せにございますか?」
「そうだ」
「200人を超える鉄砲隊がいるとは言え、決して落とせぬ城ではありますまい。
全軍で総攻撃すれば1日で落ちましょう」
「城を落としてはならん。
ただし、落ちる寸前までには追い込んで欲しい。
この城を救うためにやってくる『援軍』こそが我らの相手なのだから」
「こんな城を救うために援軍が来るのですか?
一体、誰が……?」
「徳川家康」
「家康!?
それは真にございますか?」
「家康は来る。
必ず来る。
長篠城の主は、家康の愛娘の夫ぞ。
自ら徳川軍本隊を率いて駆け付けて来るだろう」
「なるほど……
駆け付けて来た徳川軍本隊を討ち、家康の首を取ると!
見事な策かと存じます!」
「無益な殺生をするでない。
家康は必ず、『無傷』で捕らえよ」
周りの者たちは唖然としている。
「家康を捕らえる!?
敵の大将の首を取るのが戦の常識では?」
「わしにそんな常識などない。
これは、命令だ。
良いな」
「はっ」
こう応えながらも、周りの者たちはひそひそと話している。
「勝頼様は……
家康を無傷で捕らえて、一体どうするつもりなのか?」
と。
◇
こうして。
勝利した信長を天下人とし、敗北した勝頼を滅亡へと突き落とした、あの戦い。
『宿命の長篠設楽原決戦』が幕を開けた。
【次節予告 第二十五節 織田信長の愛娘、毒殺事件】
一人の女の死が、一人の男の『復讐』の炎を激しく燃え上がらせる結果を招いていました。
その女性……
織田信長の愛娘とは、どんな人物なのでしょうか?




