第二十一節 武器商人を欺くために起こした戦争
室町幕府から討伐命令を出されてしまった織田信長。
このままでは全ての大名を敵に回す可能性があり、さすがの天才も窮地に陥ったように見えたが……
明智光秀の助言で起死回生の一手を放っていた。
異見十七ヶ条を大量に書き写し、日本中の至るところへバラ撒くこと。
人々は思惑通りに動いた。
正義感に駆られて拡散し、より多くの人々に広めた。
幕府を非難する声が世に満ち溢れ、幕府の名は地に堕ちた。
国を治める大名といえども、ここまで大きくなった民の声を無視できない。
幕府の要請に応えて兵を出すことができなくなった。
こうして信長は、読み書きを上手く使って大名たちの動きを封じたのである。
◇
凛は、その『純粋』さゆえに……
信長のやり方が気に入らない。
正々堂々と勝負せず、無知な民を欺いて敵に対して優位に立つやり方が、卑怯で薄汚い方法に見えるのだろう。
加えて。
幕府を貶める目的で書かれたことくらい、読めば一目で分かるはずが……
どんな目的で書かれ、大量に書き写され、日本中へバラ撒かれたのかを考えようともしない民に対しても疑問を感じていた。
それでも。
凛は、信長のやり方に感心せざるを得ない。
「大抵の人々が、帝[天皇のこと]への崇敬の念を抱いているとか。
勿論。
賄賂を受け取る者、立場の弱い人から搾取する者、不公平な者、転売で稼ぐ者も忌み嫌う。
もし。
幕府が、これらに少しでも該当していたら?
『正義感』に突き動かされた人々は必ず、幕府を激しく非難し、嫌悪の感情を抱くでしょうね」
続けてこう考えた。
「嫌悪の感情が支配するほど、人は冷静さを失う。
衝動的に拡散して、より大勢の人に広めてしまう。
こうして大きくなった民の声を……
国を治める『大名』といえども無視できない。
幕府の命令に従って信長様を討つことなんてできない!」
「人の持つ正義感を、ここまで徹底的に利用するやり方を思い付いたのが、尊敬する父上であったなんて……」
これは衝撃であった。
◇
心中は複雑であったものの、凛は話を続ける。
「父上は、こう仰っていました。
『圧倒的多数を相手に勝利する方法は、2つある。
敵の中の誰かを欺き、身内争いを引き起こさせて弱体化させるか。
あるいは……
敵より強い誰かを欺いて、己の味方にするかだ』
と」
「うむ」
「信長様のやり方は、どちらにも当てはまっていないように感じるのですが」
「一見すると……
そう感じるかもしれん」
「当てはまっていると?」
「2つ目に、な」
「敵より強い誰かを欺いて、己の味方にする?」
「わしは、そなたに……
『戦いの黒幕』という敵が6人いると教えていたはず」
「覚えています。
『1人目が、室町幕府。
2人目が、大名。
3人目が、国衆。
4人目が、武器商人。
5人目が、南蛮人。
最後の6人目は、民そのもの』
であると」
「その6人であるが……
実は、『弱い』順番に並べていた」
「弱い順番?」
「だからこそ。
幕府から討伐命令を出され、日ノ本中の大名を敵に回した信長様は……
大名より『強い』、国衆や武器商人、そして民を欺いて、己の味方にしようとされたのだ」
「一番弱いのが幕府なのですか?
それに大名は、国衆より弱いと?
わたくしは逆のように感じるのですが」
「幕府は、相応しい者を大名に任命して国や地域を治める『権利』を与えた。
すると大名は……
難癖を付けては気に入らない国衆たちを討つようになる。
結果として全ての国衆は大名への絶対の服従を余儀なくされた。
こうして強大な武力を持つようになった大名を、幕府は制御できなくなったのだ」
「なるほど。
では、なぜ大名は国衆より弱いと?
父上は逆のように仰っています」
「国衆の『立場』になって考えてみよ。
大名から好まれれば良いが、嫌われたらどうする?
難癖を付けて討たれるのだぞ?」
「ああ、なるほど……
そういうことなのですね」
凛は、父の言った弱い順番の意味を理解した。
国衆たちは、絶対の服従を迫る大名に対して強い危機感を抱いたに違いない。
「このままでは……
我らは、大名の『家臣』へと成り下がってしまう!」
そして、大名に対抗する手段を考えた。
「我ら一つ一つは弱小に過ぎないが……
一致団結して強固な『連合体』を作れば、大名の理不尽な要求に抵抗できよう」
と。
こうして出来た強固な国衆の連合体を、大名は制御できなくなったのだ。
◇
凛はふと、あることに気付く。
「これは……
『下剋上』の本質では?」
と。
戦国時代の象徴でもある下剋上。
一言で言うと……
地位の低い者が地位の高い者を引き摺り下ろし、その地位を奪い取ってしまうことだ。
これが戦国時代に『だけ』あったのは、なぜだろうか?
原因は室町幕府の制度にあった。
大名に、国や地域を自由に治める権利を与えたことだ。
すると大名は……
国衆たちに絶対の服従を要求して、強大な武力を持つようになる。
幕府はやがて大名を制御できなくなった。
一方の国衆は……
各個撃破されないよう一致団結して大名に対抗しようと考えた。
こうして出来た強固な国衆の連合体を、大名は制御できなくなった。
結果として。
地位の低い者が地位の高い者を凌駕する下剋上が成立してしまったのである。
◇
「父上。
国衆たちは、やりたい放題の大名に強い危機感を抱いたはず。
一つになって大名に対抗しようと考えて、強固な連合体を作ったのでしょう?」
「うむ。
強固な連合体を作るために……
国衆たちは、ある取り決めを設けていたらしい」
「取り決め?」
「誰かが大名に攻められたら、全ての国衆は軍勢を出して一致団結して戦う『義務』を背負うと」
「義務、ですか」
「これで大名は国衆に対して手が出せなくなった。
兵の合計では……
大名直属の兵よりも、国衆の連合体の兵の方が『多い』からな」
「大名は国衆たちを従わせるのに苦労したでしょうね……」
「うむ。
国衆たちが支持する者に大名の座を奪われる下剋上まで起こってしまった。
一例として。
信長様のご正室である濃姫様の父、斎藤道三様は……
大名の地位を土岐一族から奪い取っている」
「父上。
下剋上が起こるような状況で、信長様はどんな方法で国衆たちを従わせたのですか?」
「それには……
信長様の過去を知る必要がある」
「お教えください」
◇
信長が織田家を継いだ頃。
織田家は尾張国[現在の愛知県西部]の大名に近い存在ではあったが、全ての国衆がそう認めていたわけではない。
織田家に従うどころか、織田家と敵対する駿河国[現在の静岡県]の大名・今川家と親密な国衆すらいた。
信長は、どうやって国衆たちを屈服させたのだろうか?
◇
「凛。
わしは、戦いの黒幕の6人を弱い順に並べていた。
1人目は、室町幕府。
2人目は、大名。
3人目は、国衆。
4人目は、武器商人。
5人目は、南蛮人。
6人目は、民そのもの」
「はい」
「国衆より『強い』のは誰か?」
「武器商人と南蛮人、そして民です」
「うむ。
信長様はまず、武器商人を味方にしようと考えられた」
「要するに……
武器商人を欺こうと?」
「こう話された。
『わしは、全ての大名や国衆を従わせるまで戦を止めない。
尾張国[現在の愛知県西部]を統一した後は美濃国[現在の岐阜県]を手に入れ、次いで伊勢国[現在の三重県]、近江国[現在の滋賀県]……
ひたすら領土を広げていく。
わしに味方すれば、どれだけの銭[お金]を儲けられるか考えてみよ!』
とな」
「……」
「ただし。
戦を止めない話『だけ』では、武器商人を味方に付けることはできまい?」
「信長様ご自身が戦に強いことを見せ付ける必要があると?
戦に必要なモノを扱う商人である以上、戦に強い武将に味方したいのは当然でしょうから……」
「その通りだ。
信長様は、こう考えられた。
『わしは……
誰が見ても敗北が濃厚な、絶望的な戦で勝利を収める必要があろう』
と」
「敗北が濃厚な、絶望的な戦?」
「うむ。
信長様は、名門である今川家の当主にして海道一の弓取りとも呼ばれた名将……
今川義元に対して露骨な挑発を行った。
義元の重臣がいる鳴海城と大高城[どちらも現在の名古屋市緑区]の周囲に砦を築いて補給を断ち、餓死寸前へと追い込んだのだ」
「父上!
信長様が『自ら』、桶狭間の地に今川の大軍を呼び寄せたと仰るのですか!?」
「そうだ。
戦に強いことを見せ付けるには、今川の大軍を撃破した実績が一番良いからな」
「つまり。
桶狭間の戦いは……
武器商人を欺くために、信長様の側から引き起こした戦いであったと?」
「その通りよ」
【次節予告 第二十二節 兵は詭道なり】
父は娘に、こう言います。
「実際のところ。
信長様にとって桶狭間の戦いは、敗北が濃厚な、絶望的な戦いだったわけではないのだ」
と。




