第十九節 正しいか間違いかの区別ができない者たち
「教育に男女の差を付けない」
現代では常識であるが、凛の生きた時代では『非常識』であった。
ところが。
妻・煕子からの強い影響を受けた明智光秀にとって、当時の常識など何の影響力もない。
長女の凛と次女の玉[後のガラシャ]がまだ幼い頃から読み書きを学ぶことを『強制』し……
手を抜くと厳しく『叱る』ことさえしたのだ。
「凛!
父はそなたに、毎日欠かさず読み書きを学ぶよう命じていたではないか!
なぜ怠るのか!」
「……」
「『女子は学ぶ必要などない』
巷では、こんな声をよく聞くが……
だからなのか?」
「いいえ」
「凛。
そなたは『人』か、それとも獣[動物のこと]か?」
「人です」
「読み書きを学ばない者は、読み書きの出来ない獣と何ら違いはない。
人であるならば……
生きる限り、毎日欠かさず学び続けよ」
「しかし!
父上。
学ぶという面倒なことをしなくても、人から聞いた方が早いではありませんか」
「ほう。
ならばそなたは……
人の話を、全て真に受けるのだな?」
「全てではありません」
「では。
真に受ける話と、真に受けない話を……
どうやって『区別』するのか?」
「……」
「その人が、全てを知った上で話しているのか……
一部を見た程度で、全てを知ったと勘違いしている素人に過ぎないのか……
あるいは、己の言葉に何の責任も負わなくて済む、無関係な、安全な場所からただ囀っているだけの卑怯者に過ぎないのか……
どうやって『区別』するのか?」
「……」
「まだあるぞ。
そなたのことを十分に知った上で、そなたのことを思って話しているのか……
ただ己の仲間に引き込みたいだけで話しているのか……
あるいは、己の利益のためにそなたを利用し、操ろうとして話しているのか……
どうやって『区別』するのか?」
「……」
「正しいか間違いかの区別[識別力のこと]ができない者は……
無害か有害かも分からず、何でも口に入れる赤子と何ら変わりがない」
「……」
「違うか?」
「わたくしが間違っていました。
これからは、ちゃんと学びます。
ただ……
一つだけ教えてください。
読み書きを学ぶことで、正しいか間違いかの区別ができるようになるのですか?」
「なる」
「どうしてです?」
「物事の仕組み、過去の出来事などの『正確な知識』は、読んで調べることでしか得られないからだ。
正確な知識があれば、正しいことと、一見すると正しく見えるが実は間違っていることを見分けられるようになる」
「なるほど」
「加えて。
『上手に伝える[コミュニケーション]能力』は、書いて要点を整理することでしか得られない」
「上手に伝える能力、ですか」
「凛よ。
要点を整理せず、思い付きの話だけを並べたら……
聞いた相手はどう感じる?」
「能力が『劣って』いると感じ、こちらを甘く見てくるかもしれません」
「うむ。
上手に伝える能力が劣っている者は、結局のところ『損』をするのだ。
一方でその能力を身に付ければ、相手から一目置かれ、そなたを利用し、操ろうとする者は自然と消え失せる」
「よく分かりました」
「『類は、友を呼ぶ』
この言葉を忘れてはならん。
読み書きを学ぶことを怠り、正しいか間違いかの区別ができない大人になれば……
同類の友しかできず、他人から利用され、操られ、結果として損な人生を送ることとなろう」
「……」
「凛よ。
分かって欲しい。
わしは、『わざと』心を鬼にして厳しくしている」
「どうしてです?」
「そなたが『大切』だからだ」
「はい、分かりました。
父上」
凛はその後、読み書きを学ぶことに手を抜かなくなった。
◇
光秀のやり方は、現代では非常識な部類に入るかもしれない。
それでも。
凛は、現代を生きる若者よりも『幸せ』であった。
「昔のように強制してはダメ。
昔のように厳しく叱るなど、言語道断。
もっと自由を重んじよう」
一見すると、現代のこの価値観は正しく見えるかもしれない。
ただし。
光秀が言った、この大いなる疑問が残る。
「正確な知識もなく、上手に伝える能力もないのに、どうやって正しいか間違いかの区別ができるのか?」
と。
正しいか間違いかの区別ができないために……
行き過ぎた推し活のために借金を背負い、高額バイトに釣られて犯罪行為の実行役をさせられ、売春のために街角に立ち、安全というデマを信じて大麻を吸い、オーバードーズに陥って損な人生を送る人間が増えている。
ある程度『器用』な人間ならば、強制されなくても、厳しく叱られなくても、人生を踏み外したりはしないだろう。
ただし全員がそうとは限らない。
『不器用』に加え、正確な知識も、上手に伝える能力もないならば、社会に出たときに悲惨な目に合ってしまう。
そもそも。
わたしたちのいる日本は資本主義であり、社会に出ればビジネスという名の『戦場』へと送り込まれるのだから。
「人の話を全て真に受けるとは……
真実とデマの区別する頭すらないのか」
「根拠のない噂ばかりをペラペラと……
よく調べてから物を言え」
「何が言いたいかさっぱり分からん。
会話もろくにできないのか」
「使えない」
はっきり言われなくても、心の中でこう思われて切り捨てられていく。
言わば……
何の訓練も受けずに戦場へと送り込まれた哀れな兵士のようなものだ。
これを『辛い』環境と言わずして、何と言えば良いのだろう?
◇
『太平記』という歴史書がある。
鎌倉時代末期から室町時代初めの……
日本全土が無法地帯と化し、戦国乱世が始まった時期を扱っている。
この時期を光秀は重要視していた。
凛にも全て読ませていた。
その太平記も、北畠顕家の最期についてはこう書かれているのみだ。
「不意を突かれた」
と。
顕家が男山八幡宮[現在の京都府八幡市]に全軍を布陣させた後、そこを抜け出して河内国と和泉国[合わせて現在の大阪府]で暴れ回った理由ついて納得のいく説明を書いていない。
◇
「北畠顕家ほどの天才であっても……
足利尊氏の開いた室町幕府には敵わなかったのですね」
「足利家は、鎌倉幕府の時代に一族を日ノ本各地に張り巡らせていた。
筆頭の斯波家、二番手の畠山家、三番手の細川家、今川家、一色家、渋川家、そして尊氏の母の実家・上杉家。
尊氏はこれら一族をことごとく『大名』に任命していた。
顕家は、ほとんどの大名を相手に戦わざるを得なかったことになる」
「どんな天才でも、これほどの圧倒的多数が相手では……
勝利など不可能だと思いますが」
「大名『だけ』で考えれば、そうであろうな」
「大名だけ?
それは、どういう意味です?」
「良いか。
凛よ。
圧倒的多数を相手に勝利する方法は、2つ。
敵の中の誰かを欺き、身内争いを引き起こさせて『弱体化』させるか。
あるいは……
敵より『強い』誰かを欺いて、己の味方にするかだ」
「誰かを欺くことが肝心だと?」
「うむ。
信長様は、読み書きを上手く使って圧倒的多数を相手に勝利しようと考えられた」
「読み書きを上手く『使って』?
具体的に何を?」
◇
顕家の死から、およそ230年後。
「ここが青野原か」
かつての戦場に、一人の騎馬武者が立っている。
「悪い事柄の根を絶ち、腐り切った世をあるべき姿に戻さねばならない」
こう言って武人としての使命を全うしようと決めた若者は……
奥州の地で兵を挙げ、電光石火の早さで京の都の目と鼻の先まで迫り、絶望的な兵力差がありながら室町幕府をあと一歩まで追い詰めた。
その立派な志と類まれな実力は、どれだけ長い時間が経っても多くの人間を魅了してやまない。
奇しくも。
この騎馬武者も北畠顕家という天才に憧れ、電光石火の早さを追求し続けた。
7年近い歳月をかけて妻の実家・美濃国[現在の岐阜県]を制圧すると……
直ちに住まいを移して『岐阜』と名付け、『天下布武』という印鑑を使い始めた。
岐阜、そして天下布武という言葉。
この騎馬武者は織田信長その人である。
ちなみに。
岐阜の『岐』は、中国で徳のある君主と名高い文王の出身地・岐山から取ったもの。
岐阜の『阜』は、同じく中国で徳を唱えた思想家の孔子の出身地・曲阜から取ったもの。
もう一つ。
徳とは……
自分より他の人を優先すること、私利私欲より正義を重んじること、上下関係の秩序を守ること、学ぶことを怠らないこと、誠実であることの5つを指す。
歴史書では信長を野心家や破壊者として書いているが、信長が使った言葉との著しい『矛盾』を感じるのはわたしだけだろうか?
【次節予告 第二十節 圧倒的多数を相手に勝利する方法】
足利義昭を将軍に就任させ、幕府の秩序を立て直した織田信長でしたが……
両者の関係は急速に悪化します。
信長が幕府への激しい苛立ちを『制御』できなくなったからです。




