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大罪人の娘・前編  作者: いずもカリーシ
第弐章 戦国乱世、お金の章
19/48

第十九節 正しいか間違いかの区別ができない者たち

「教育に男女の差を付けない」

現代では常識であるが、凛の生きた時代では『非常識』であった。


ところが。

妻・煕子(ひろこ)からの強い影響を受けた明智光秀にとって、当時の常識など何の影響力もない。

長女の凛と次女の玉[後のガラシャ]がまだ幼い頃から読み書きを学ぶことを『強制』し……

手を抜くと厳しく『(しか)る』ことさえしたのだ。


「凛!

父はそなたに、毎日欠かさず読み書きを学ぶよう命じていたではないか!

なぜ(おこた)るのか!」


「……」

「『女子(おなご)は学ぶ必要などない』

(ちまた)では、こんな声をよく聞くが……

だからなのか?」


「いいえ」

「凛。

そなたは『人』か、それとも(けもの)[動物のこと]か?」


「人です」

「読み書きを学ばない者は、読み書きの出来ない獣と何ら違いはない。

人であるならば……

生きる限り、毎日欠かさず学び続けよ」


「しかし!

父上。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「ほう。

ならばそなたは……

人の話を、全て()に受けるのだな?」


「全てではありません」

「では。

真に受ける話と、真に受けない話を……

どうやって『区別』するのか?」


「……」

「その人が、全てを知った上で話しているのか……

一部を見た程度で、全てを知ったと勘違いしている素人(しろうと)に過ぎないのか……

あるいは、(おのれ)の言葉に何の責任も負わなくて済む、無関係な、安全な場所からただ(さえず)っているだけの卑怯者に過ぎないのか……

どうやって『区別』するのか?」


「……」

「まだあるぞ。

そなたのことを十分に知った上で、そなたのことを思って話しているのか……

ただ(おのれ)の仲間に引き込みたいだけで話しているのか……

あるいは、己の利益のためにそなたを利用し、(あやつ)ろうとして話しているのか……

どうやって『区別』するのか?」


「……」

「正しいか間違いかの区別[識別力のこと]ができない者は……

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……」

「違うか?」


「わたくしが間違っていました。

これからは、ちゃんと学びます。

ただ……

一つだけ教えてください。

読み書きを学ぶことで、正しいか間違いかの区別ができるようになるのですか?」


「なる」

「どうしてです?」


「物事の仕組み、過去の出来事などの『正確な知識』は、読んで調べることでしか得られないからだ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「なるほど」

「加えて。

『上手に伝える[コミュニケーション]能力』は、書いて要点を整理することでしか得られない」


「上手に伝える能力、ですか」

「凛よ。

要点を整理せず、思い付きの話だけを並べたら……

聞いた相手はどう感じる?」


「能力が『(おと)って』いると感じ、こちらを甘く見てくるかもしれません」

「うむ。

上手に伝える能力が劣っている者は、結局のところ『損』をするのだ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「よく分かりました」

「『類は、友を呼ぶ』

この言葉を忘れてはならん。

読み書きを学ぶことを(おこた)り、正しいか間違いかの区別ができない大人になれば……

同類の友しかできず、他人から利用され、操られ、結果として損な人生を送ることとなろう」


「……」

「凛よ。

分かって欲しい。

わしは、『わざと』心を鬼にして厳しくしている」


「どうしてです?」

「そなたが『大切』だからだ」


「はい、分かりました。

父上」


凛はその後、読み書きを学ぶことに手を抜かなくなった。


 ◇


光秀のやり方は、現代では非常識な部類に入るかもしれない。


それでも。

凛は、現代を生きる若者よりも『幸せ』であった。


「昔のように強制してはダメ。

昔のように厳しく叱るなど、言語道断。

もっと自由を重んじよう」


一見すると、現代のこの価値観は正しく見えるかもしれない。

ただし。

光秀が言った、この大いなる疑問が残る。


「正確な知識もなく、上手に伝える能力もないのに、どうやって正しいか間違いかの区別ができるのか?」

と。


正しいか間違いかの区別ができないために……

行き過ぎた推し活のために借金を背負い、高額バイトに釣られて犯罪行為の実行役をさせられ、売春のために街角に立ち、安全というデマを信じて大麻を吸い、オーバードーズに陥って損な人生を送る人間が増えている。


ある程度『器用』な人間ならば、強制されなくても、厳しく叱られなくても、人生を踏み外したりはしないだろう。

ただし全員がそうとは限らない。


『不器用』に加え、正確な知識も、上手に伝える能力もないならば、社会に出たときに悲惨な目に合ってしまう。

そもそも。

わたしたちのいる日本は資本主義であり、社会に出ればビジネスという名の『戦場』へと送り込まれるのだから。


「人の話を全て()に受けるとは……

真実とデマの区別する頭すらないのか」


「根拠のない噂ばかりをペラペラと……

よく調べてから物を言え」


「何が言いたいかさっぱり分からん。

会話もろくにできないのか」


「使えない」

はっきり言われなくても、心の中でこう思われて切り捨てられていく。


言わば……

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


これを『辛い』環境と言わずして、何と言えば良いのだろう?


 ◇


太平記(たいへいき)』という歴史書がある。

鎌倉時代末期から室町時代初めの……

日本全土が無法地帯と化し、戦国乱世が始まった時期を扱っている。


この時期を光秀は重要視していた。

凛にも全て読ませていた。


その太平記も、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の最期についてはこう書かれているのみだ。

「不意を突かれた」

と。


顕家(あきいえ)男山八幡宮おとこやまはちまんぐう[現在の京都府八幡市]に全軍を布陣させた後、そこを抜け出して河内国(かわちのくに)和泉国(いずみのくに)[合わせて現在の大阪府]で暴れ回った理由ついて納得のいく説明を書いていない。


 ◇


「北畠顕家ほどの天才であっても……

足利尊氏(あしかがたかうじ)の開いた室町幕府には(かな)わなかったのですね」


足利(あしかが)家は、鎌倉幕府の時代に一族を日ノ本(ひのもと)各地に張り巡らせていた。

筆頭の斯波(しば)家、二番手の畠山(はたけやま)家、三番手の細川家、今川家、一色(いっしき)家、渋川(しぶかわ)家、そして尊氏(たかうじ)の母の実家・上杉家。

尊氏はこれら一族をことごとく『大名』に任命していた。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「どんな天才でも、これほどの圧倒的多数が相手では……

勝利など不可能だと思いますが」


「大名『だけ』で考えれば、そうであろうな」

「大名だけ?

それは、どういう意味です?」


「良いか。

凛よ。

圧倒的多数を相手に勝利する方法は、2つ。

敵の中の誰かを(あざむ)き、身内争いを引き起こさせて『弱体化』させるか。

あるいは……

敵より『強い』誰かを欺いて、(おのれ)の味方にするかだ」


「誰かを欺くことが肝心だと?」

「うむ。

信長様は、読み書きを上手(うま)く使って圧倒的多数を相手に勝利しようと考えられた」


「読み書きを上手く『使って』?

具体的に何を?」


 ◇


顕家(あきいえ)の死から、およそ230年後。


「ここが青野原(あおのがはら)か」

かつての戦場に、一人の騎馬武者(きばむしゃ)が立っている。


「悪い事柄の根を()ち、腐り切った世をあるべき姿に戻さねばならない」

こう言って武人としての使命を(まっと)うしようと決めた若者は……

奥州(おうしゅう)の地で兵を挙げ、電光石火の早さで京の都の目と鼻の先まで迫り、絶望的な兵力差がありながら室町幕府をあと一歩まで追い詰めた。


その立派な(こころざし)(たぐい)まれな実力は、どれだけ長い時間が経っても多くの人間を魅了(みりょう)してやまない。

()しくも。

この騎馬武者も北畠顕家という天才に憧れ、電光石火の早さを追求し続けた。


7年近い歳月をかけて妻の実家・美濃国(みののくに)[現在の岐阜県]を制圧すると……

直ちに住まいを移して『岐阜(ぎふ)』と名付け、『天下布武(てんかふぶ)』という印鑑を使い始めた。


岐阜、そして天下布武という言葉。

この騎馬武者は織田信長その人である。


ちなみに。

岐阜の『岐』は、中国で徳のある君主と名高い文王(ぶんおう)の出身地・岐山(ぎざん)から取ったもの。

岐阜の『阜』は、同じく中国で徳を唱えた思想家の孔子(こうし)の出身地・曲阜(きょくふ)から取ったもの。


もう一つ。

徳とは……

自分より他の人を優先すること、私利私欲より正義を重んじること、上下関係の秩序を守ること、学ぶことを怠らないこと、誠実であることの5つを指す。


歴史書では信長を野心家や破壊者として書いているが、信長が使った言葉との(いちじる)しい『矛盾(むじゅん)』を感じるのはわたしだけだろうか?

【次節予告 第二十節 圧倒的多数を相手に勝利する方法】

足利義昭を将軍に就任させ、幕府の秩序を立て直した織田信長でしたが……

両者の関係は急速に悪化します。

信長が幕府への激しい苛立ちを『制御』できなくなったからです。

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